解説者・コーチ・監督時代とは? わかりやすく解説

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解説者・コーチ・監督時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 04:37 UTC 版)

山田久志」の記事における「解説者・コーチ・監督時代」の解説

引退後NHK野球解説者日刊スポーツ野球評論家となる。1989年ドラフト会議阪神タイガースへ1位入団しながら、他の評論家から「あんなの使い物にならない」と酷評されていた葛西稔入団当初から「球界代表するアンダースロー投手になる逸材」と唯一評価し続けていた。 1994年オリックス・ブルーウェーブ投手コーチ就任実績もあり理論的に指導できるコーチとして、選手からも信頼があった。後に山田は、巨人移籍後低迷していた野村貴仁について「あれは使うほうの問題」と指摘していた。投手起用めぐって監督仰木彬対立し1996年の日本シリーズ制覇貢献した直後退団1997年からはNHK解説者日刊スポーツ評論家として復帰する1999年中日ドラゴンズ投手コーチ就任この前巨人監督長嶋茂雄からも投手コーチとしての誘いを受け、妻の病気理由断っていたが、中日監督星野仙一より直に強く説得され、「星野監督を男にしたい」と引き受けた中日でも投手コーチとしては手腕発揮岩瀬仁紀キャンプ中つきっきりでフォーム矯正しリーグ代表する中継ぎエース育て上げた1999年中日でも優勝果たし優勝請負人と言われた。2001年にはヘッドコーチ兼任2001年オフ中日監督就任監督1年目02年は5位から3位順位上げるが、優勝した巨人には15.5ゲーム差つけられた。同年朝倉健太先発起用し、初勝利以降勝利を重ねて11勝を挙げた星野後を引き継いで監督就任決まったのは、星野意向と言われている。しかし、直後星野阪神タイガース監督就任二軍監督島野育夫引き抜かれたため、球団内のバックアップを失うこととなった山田は「あの時島野さんを引き抜かれたのが一番痛かった」と語っている。 監督時代にはオリックス時代教え子であり、故障不振平井正史獲得し中継ぎ一人として復活させたこと、強肩だが内野守備に難がありポジション固定されなかった福留孝介外野コンバートしたこと、荒木雅博井端弘和アライバコンビ辛抱強く使い続けたこと、FA谷繁元信獲得して捕手強化したことなど、後の中日躍進基礎を築いた人物でもある。谷繁は「山田さん僕のこと信頼してくれたので、すごくやりやすかった。その気持ち応えなければいけないという思い強かったですね。山田さん時代優勝はありませんでしたが、3位2位。にもかかわらず2年目8月に突然解任された。何が起こったのか理解できませんでした。」と述べている。打撃投手平沼定晴は「山田久志さんは、投手を見る眼が凄い。ウチレジェンド投手は、ほとんど山田さん経由大成してますね。」と述べている。活躍した選手称賛する一方で期待を裏切る容赦なく糾弾したことから、その姿勢を「恐怖政治」とも呼ばれたコーチ時代には岩瀬川上憲伸手塩にかけて育て上げた反面武田一浩前田幸長とはソリ合わず正津英志遠藤政隆打ち込まれる山田からは無視されていたという。前田山田監督昇格決まった2001年オフFA宣言し、武田自由契約両者とも読売ジャイアンツ移籍している。山﨑武司とも確執があり、2001年オフFA資格取得し横浜ベイスターズから誘いもらってその気になっていたところ、山田から「一緒に戦ってほしい」と説得され残留したものの、一軍上がってチャンス代打打てず、その後山田が「このチーム奈落の底に落とす選手がいる」と発言。その発言新聞見た山崎激怒それ以降山崎山田とはひと言も口を聞かず、目も合わせないようにしていたという。エディ・ギャラードとも対立しギャラード2003年シーズン途中で横浜ベイスターズ移籍した2003年9月9日成績不振のため遠征先の広島解任となった。この時点順位こそ5位だったが5961敗で勝率はほぼ5割をキープしており、実際オーナーをはじめ本社サイド心証悪くしたことによる解任であった。(残り試合は、ヘッド打撃コーチ佐々木恭介監督代行務める。20試合14勝5敗1分とチーム成績上昇し最終的に2位になった。)阪神独走を許すペナントレースになったものの、3年契約2年目で、球宴休み中にオーナー白井文吾から続投が「公表」されていて、なおかつ当人側近漏らした本音で、直近まで秋季キャンプ翌年のコーチングスタッフの話を球団としていて、一部球界関係者には、秋季キャンプ臨時コーチ翌年入閣打診までしていた上で急な決定だった。これは、中日でのプレー経験のない完全な「外様」であり、選手首脳陣からの求心力低下OBとの確執激しかったという事情を本社球団いずれも掴んでいたことがあった。決定的となったのは5連敗目を喫した9月7日の対ヤクルト26回戦(ナゴヤドーム)でのハーフスイングを巡る抗議による退場処分だった。抗議をそのプレー直後ではなく攻守交替時に行ったことを問題視され連敗と間の悪い退場劇が解任への格好引き金となってしまった。なお当初球団からは山田から休養申し出た形にするよう要請されたがこれに山田が「それでは自分から逃げた投げ出したことになる。そんなのは受け入れられない」と激怒激論の末に「解任」に決まったという。また山田はこの決定後に遠征帯同している選手・スタッフ解任報告し挨拶済ませチーム離れて一人新幹線で帰名したが、その車内自身解任第一報目にすることになった通路上の電光掲示板に「中日山田久志監督解任。」と流れたという)と述懐している。 2006年からCBCテレビ・ラジオの野球解説者務めるほか、日刊スポーツ評論家復帰2005年からはブレーブス・ブルーウェーブOB会会長務めている。2006年野球殿堂入り12月行われた野球殿堂入りパーティーにはイチロー田口壮スペシャルゲストとして出席した2007年山田出生地能代市市営能代球場の名称を、山田業績たたえて山田久志サブマリンスタジアム」(愛称)と改名した9月29日には山田久志夫妻招いて命名が行われた。愛称の制定際し山田から現役時代ユニフォームグラブ写真パネルなど計131点が贈呈され球場内に設けられる展示ブース公開されている。オフシーズン開催されているプロ野球マスターズリーグ大阪ロマンズ所属し、短いイニングながらもマウンド立っていた。 2009年ワールド・ベースボール・クラシック日本代表投手コーチ就任投手選考投手起用については監督原辰徳からほぼ全権委任されていた。WBC投手投球制限規定悩まされたが、本来は先発投手であるダルビッシュ有抑え起用するなど、思い切った投手起用継投策を駆使し、2大会連続世界一大きく貢献したまた、山田週刊ベースボール記した手記によれば原監督からは投手陣だけでなく、イチローとの橋渡し役も頼まれていた。 2016年2月には、阪急後継球団オリックス・バファローズ春季キャンプで、福本と共に臨時コーチ務めた1992年および2015年から沢村栄治賞選考委員務めている他、TBSテレビの「サンデーモーニング」の『週刊ご意見番』に不定期に出演している。

※この「解説者・コーチ・監督時代」の解説は、「山田久志」の解説の一部です。
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