解説者・監督時代
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引退後は1958年からタイガースの二軍監督に就任したが、1959年5月21日から一軍コーチとなり、シーズンオフに監督に昇格。また金田は後ろ盾になってもらおうと阪急監督を退いたばかりで巨人軍元監督の藤本定義にヘッドコーチ就任を要請。一年目の1960年はエースの村山実が二年目のジンクスに苦しむが、広島とのAクラス争いに勝って3位の成績を残す。しかし二年目は開幕から投打が噛み合わず最下位に沈み、球団は6月6日に金田に休養を通告。後任は自ら招いた藤本が代理監督に昇格、金田はシーズンオフにそのまま退団した。 阪神退団後は日本教育テレビ・毎日放送解説者(1962年 - 1971年)を経て、1972年に村山実選手兼任監督に請われ、ヘッドコーチとして11年ぶりに阪神に復帰。開幕から低迷を続け、4月21日から村山が投手専念のために一時的に指揮権を譲られ、名目上はあくまでも村山が監督のまま、結果としてすぐに勝率を5割に戻す。役割を果たした金田は5月13日に戸沢一隆球団代表に指揮権返上の旨を伝えるが、これに対して戸沢はその必要はないと引き続き指揮を執るように指示。その後も何度も指揮権返上の話が出るが戸沢はあくまでも認めず、最終的に阪神は2位でシーズンを終了する。そして指揮権を奪われたままの村山はそのまま引退・退団すると共に金田が正式な監督に昇格したが、表面的にこれが村山に請われてヘッドコーチになった金田がその村山を追い出したように映ってしまい、村山に近い選手たちから激しい恨みを買うことになる。 1973年はシーズン当初から村山の大学の後輩に当たる藤井栄治や鈴木皖武、権藤正利との確執など一部の主力選手との対立が激化。選手・コーチ・さらにはマスコミも二分されていた。その中でも一匹狼の江夏豊は派閥に関係なく、シーズン前に一緒に永平寺に行き、お互いに「ゆたか」「おじき」と呼ぶなど懇意にするほどの仲であったが、一方で江夏と野手陣とは特に折り合いが悪く、シーズンが始まった5月に江夏の言動に不満を抱いているある主力の野手が『このままでは他の選手は納得してませんよ。江夏を取るか他の選手を取るか決めてください』と金田に直訴したりして、金田は次第に主流派であった田淵幸一や藤田平など野手に重きを置くようになる。 そしてその流れで、ある試合で首脳陣ミーティングで金田監督が江夏の投球を批判し、それをわざわざ某コーチが江夏の耳に入れた事、ローテーションをエースの江夏ではなく一時的に上田二朗を中心にした事などで、これで江夏のプライドが少なからず傷つき、また5月末の広島遠征中に21年目のベテラン投手の権藤正利がタバコを吸いながら球場入りしたのを見た金田が『サルでもタバコ吸うんか』とからかったとされ、それを伝え聞いた江夏は、監督への不信感を募らせる。さらにシーズン中にもかかわらず関西の大手スポーツ新聞社が面白おかしく対立を煽ったこともあり、いつし金田と江夏は完全に冷え切った口も利かない状態になっていった。 このようにチーム内部はバラバラな状態であったが、ペナントレースはリーグ全体が大混戦の中で巨人と阪神がシーズン最終盤までデッドヒートを展開。10月20日と同22日の最終戦残り2試合でマジック1という状況となった中日戦及び巨人戦は、それぞれの相手に得意としていた上田二朗と江夏が先発で登板予定であったが、直前で登板を江夏→上田に変更。結果的にこれが裏目に出て連敗してしまい、最終戦で巨人の逆転優勝でV9を許してしまった。この起用法について後年になっても疑問が生じる事もあるが、理由としては上田が死のロードを迎えた8月12日以降、4勝8敗と急に勝てなくなっており、その前の10月11日の巨人戦(後楽園)でも打ち込まれている状況で、さらに中日戦を迎える数日前から扁桃腺を腫らし風邪気味で体調が悪かったなどの理由でこのまま上田を強行登板させるよりも、藤村隆男一軍投手コーチと相談して江夏のエースとしてのプライドとその勝負強さに賭けようとなったとされている。なお、この起用について江夏自身は自伝で『あとで中日戦は上田で巨人戦は江夏でいけばよかったという声もあったけれど、それは結果論であって、あと1勝すればいいとなったら、勝ち星の多い方からいくのは当然。残念な結果になったんですが、僕は今でもあれは正攻法だったと思う。僕の力が及ばなかったから負けたということです。』とその起用法に理解を示している。上田自身もまたこの事について、中日戦の登板を望んでいたものの、『金田監督が確執があるとは言えエースである江夏をなんだかんだ言って信頼して最終的には託したのだろう』と振り返っている。 シーズン終了後の11月23日、阪神のファン感謝デー終了後に甲子園球場の監督室で権藤から前述の暴言に対する謝罪を求められたが受け入れなかった為、殴打される。藤井栄治も金田との対立の末にシーズン終了後に太平洋クラブに移籍。それらを踏まえて11月には、江夏が「金田監督の下ではプレーができない」と表明。金田も12月に「江夏を抱えてのチーム作りに自信がない」と辞意を表明するなど紛糾したが、両者の意見をそれぞれ聞く形で収拾に乗り出した戸沢代表によって、最終的に金田は続投、江夏も監督に従う事でチームに残る事になったが確執は解消されることは無かった。 1974年はシーズン前半は首位で折り返すが、後半戦に失速し一時は球団史上最低勝率に落ち込み、最終的には4位で辞任した。同年は二軍にいた1年目で無名の掛布雅之を周りの反対を押し切って一軍に抜擢し、掛布もそれに応え、その後のスター街道を歩むことになった。この事について掛布は「金田正泰監督がいなければ、その後の僕は存在していなかったかもしれない」と著書で金田に感謝の意を示している。
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