王・仁とは? わかりやすく解説

わに【王仁】

読み方:わに

古代百済(くだら)から渡来した学者応神天皇のときに「論語」「千字文(せんじもん)」を伝えたとされ、西文氏(かわちのふみうじ)の祖といわれる生没年未詳


わに 【王仁】

古代百済から日本渡り応神天皇代)、『論語』や『千字文』を伝えたとされる人物で、漢の高祖の裔だとする。

王仁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/15 09:41 UTC 版)

王仁(わに、生没年不詳)は、応神天皇の時代に辰孫王と共に百済から日本に渡来した百済人、千字文論語を伝えたと古事記に記述される伝承上の人物である[1](記紀には「辰孫王」の記述は無い)。『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)と表記されている。伝承では、百済に渡来した漢人であるとされ[2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12][13][14][15][16][17]、姓である王氏から楽浪郡の王氏とする見解もあるがあくまでも学者の推測であり、記録では楽浪郡の王氏という言及はなく、百済人である記録だけ存在する。また志田諄一も王氏を名乗る朝鮮系の人々が存在したことを認めている[3][7][15][18][19]。一方、王仁が伝えたとされる千字文が、王仁の時代には成立しておらず、この矛盾については、早く江戸時代新井白石伊勢貞丈らによって提起されており、実在の人物とは認め難いとする説も多数存在する。また、志田諄一は王仁を辰孫王と同一視する見解もある[20][21][22][23][24][25][26][27][28][29]


  1. ^ 6世紀の新羅石碑には、多くの者には姓が記されておらず、名と所属のみである。これは、古代朝鮮では、姓がなく、人を名で呼んでいたことを示しており、朝鮮が中国と関わり、中国式の姓を取り入れた。王族や高句麗、百済の貴族が新羅時代の4世紀から5世紀にかけて姓を導入し、6世紀に朝鮮で広まるようになった。このように、王族や高句麗、百済の貴族が中国式の姓を導入したのは、三国時代の後半、統一新羅時代である[44]
  2. ^ 現在、使われている中国式の姓が一般化したのは、中国から漢字が導入され、定着してきた七世紀以後と考えられている。『三国史記』や『三国遺事』では、高句麗・百済・新羅の始祖伝説にすでに中国式の姓が使われていたように記されているが、実際には神話上の話と解釈されている。高句麗の始祖・朱蒙は国名にちなんで「高朱蒙」と高氏を名乗ったり、百済では扶余族の始祖温祚は扶余氏という姓を名乗ったと伝えられている。新羅の始祖は、一説には、馬のいななきに導かれた先で見つかったヒョウタンのように大きい卵から生まれたという伝説から、ヒョウタン(パク)を意味する「朴」、あかあかと火が燃える様や光が明るく輝く様を営味する「赫」で朴赫居世となった。新羅では四代目の脱解王からは昔氏、一三代目の味鄒王からは金氏に受けつがれ、朴氏、昔氏、金氏となるそれぞれの始祖伝説をもっている。史書によると、三国時代は、始祖伝説に関係する者以外でいわゆる中国式の姓をもっている者はほとんどみられない。六世紀から七世紀に登場する高句麗の武将は「乙支文徳」、『日本書紀』に「伊梨柯須彌」の名で登場する高句麗の権力者は「淵蓋蘇文」、七世紀の百済の軍官は「鬼室福信」に「階伯」である。新羅の始祖の赫居世も別名は「弗矩内」ともいう。実際に、朝鮮半島で姓が生まれたのは、統一新羅時代になってからである。統一新羅の王族、貴族が中国・唐の文化を取り入れるなかで、中国式に姓をもつようになっていったのだ。また、中国の姓をまねただけでなく、自分の住んでいる地名、周囲の山や川にちなんでつけられた名前もあったようだ。そして高麗時代になると、姓をもつことが一般化し、李朝時代には『経国大典』という戸籍台帳ができて、姓名制度が確立した[45]
  3. ^ 韓国においても同様で、三国時代から何らかの名称があったが、それは権力者を中心として使われていたと考えられる。高句麗王の「高氏」、百済王の「扶余氏」、新羅の「朴、昔、金氏」などがあるが、これはすべて漢字が齎してからの表記である。日本の『日本書紀』などの資料を見ても、朝鮮半島に7世紀以前には漢字の姓氏は見当たらない。この時姓氏を持つことは、集団の中で政治的、社会的特権であり、姓氏の獲得によって段々母系社会から父系社会に移行して行く117
  4. ^ さらに近年では、朝鮮半島が中国風の漢字一文字の姓を名乗るのは、統一新羅の時代以降であるため、王仁は朝鮮人ではなく、中国系渡来人ではないかと考えられてきている[43][注釈 1][注釈 2][注釈 3]
  5. ^ 朝鮮半島では7世紀後半になる中国の唐との交流が活発になり、中央貴族や官僚を中心に漢字の姓氏が拡大して行く。…李重煥の『擇里志』には、高麗時代以降徐々に一般の人が姓氏を持つようになったと記している[46]
  6. ^ 韓国人の姓氏は、漢字の導入と共に今のような中国式の形が定着したと見られる。その中には韓国独自の姓氏もあるが、多くは中国の姓氏を借用したと考えられる。勿論、中には帰化によって中国伝来の姓氏も見られたり、日本由来の姓氏も見られた。歴史的には、特権階層だけが持っていたこの姓氏が、一般の人にまで広がるのは高麗時代の文宗が実施した科挙の試験が大きく影響する。科挙試験には姓名を持つことが条件であり、試験を受けるために一般の人にまで広がるきっかけとなった。…韓国では各家門に族譜を持っているが、この族譜を見るとその始祖がこの高麗時代よりも遥かに遡る。これは事実性よりも自分達の姓氏の神話化や美化したものと考えられる。一般の人が姓氏を持つようになったのが高麗の文宗の時からだとしたが、この説にも問題があり、一般的ではなく特定の階層に限られる。当時の全体人口からしても科挙試験受験者は僅かだったと考えられる[47]
  1. ^ a b 山尾幸久「日本国家の形成」岩波新書、1977年
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  3. ^ a b c 志田諄一日本大百科全書王仁』 - コトバンク
  4. ^ a b 加藤謙吉 (1997年7月). “フミヒト系諸氏の出自について”. 古代文化 49 (財団法人古代学協会): pp. 428. "かかる事実に基づき王仁後裔氏族や家氏、東漢氏を中国系とする説が古くから存在する。" 
  5. ^ a b マイペディア「伝承によると、漢の高祖の子孫」マイペディア王仁』 - コトバンク
  6. ^ a b 石田博『漢文学概論』雄山閣、1982年6月1日、28頁。ISBN 978-4639001652。"王仁の家系を述べているが、それによると、王仁は漢の高帝の後であるという。漢の高帝の後を鸞といい、鸞の後胤の王狗は、転じて百済に至った。"。 
  7. ^ a b c 八幡和郎最終解答 日本古代史 神武東征から邪馬台国、日韓関係の起源までPHP研究所PHP文庫〉、2015年2月4日、132頁。ISBN 978-4569762692https://www.google.co.jp/books/edition/最終解答日本古代史/YKrOSQXkUsUC?hl=ja&gbpv=1&pg=pt132&printsec=frontcover。"そこで、天皇が『お前に勝る学者はいるのか』と聞いたところ王仁を推薦したので、百済から招聘したといいます。王仁博士は、漢の高祖の子孫と称しています。山東省から楽浪郡に移住し、さらに百済に移ったので、平安時代の『新撰姓氏録』には、文、武生、櫻野、来栖、古志といった名字の人々が王仁の子孫で漢族として登録されています」「文字を伝えた王仁博士のような百済から来た漢族をどう評価するかという問題もあります。これは、たとえば、在日朝鮮人で日本国籍がない人がアメリカで活躍したようなときに、日本から来たと思われるか、韓国・朝鮮人だとアメリカ人が思うかといったようなものです。漢字を伝えた王仁博士を日韓友好のシンボルとする動きもありますが、在日韓国人3世がアメリカでキムチを広めたのを日米友好のシンボルにするようなもので、ちょっと変な気がします。"。 八幡和郎『最終解答 日本古代史 神武東征から邪馬台国、日韓関係の起源まで』PHP研究所PHP文庫〉、2015年2月4日、36頁。ISBN 978-4569762692。"始皇帝の子孫という秦氏や漢字を伝えた王仁博士のように、百済を経由して渡来したとしている氏族も含めて、帰化人の多くが『漢』を出自とすると名乗っていたのです。"。 
  8. ^ a b 八幡和郎『中国と日本がわかる最強の中国史』扶桑社扶桑社新書〉、2018年9月4日、13頁。ISBN 4594080340。"王仁博士を百済人として日韓友好のシンボルにしたいと韓国の一部の人は考えていろいろ画策しているようですが、百済でも本格的に漢文ができたのは漢族に限られていました。あとで説明するように、山東省にルーツをもつ王仁博士が漢字を日本に伝えたのは、在日朝鮮人がアメリカに行ってキムチの作り方を教えたようなもので、それを日米文化交流とは言わないのと同じく日韓友好のシンボルにはなりません。また、唐が百済を滅ぼすのに荷担した新羅の流れを引く現代の韓国は、百済の継承国家とはいえません。"。 
  9. ^ a b 日笠護『日鮮關係の史的考察と其の研究』四海書房、1939年7月15日、40頁。"後漢孝靈帝の後裔と稱する阿知使博士王仁(漢高祖の後裔)の來朝を見るに至つた。"。 
  10. ^ a b 駒井和愛『楽浪―漢文化の残像』中央公論社中公新書〉、1972年1月1日、23頁。ISBN 978-4639001652。"東京大学の歴史学者坪井九馬三博士は、かの日本に論語をもたらしたといわれる王仁ももと漢人の子孫で、楽浪から来たって、百済に仕えたもので、楽浪王氏に関係ある。"。 
  11. ^ a b 請田正幸 (1988年7月). “渡来人論・序章”. 歴史学研究 (582) (青木書店): pp. 14. "西文氏については、その伝承で、漢の高祖の子孫が朝鮮にわたり、その後裔の王仁が日本に渡来して、西文氏の祖となったとしている。" 
  12. ^ a b 馬渕和夫、出雲朝子『国語学史―日本人の言語研究の歴史』笠間書院、1999年1月1日、17頁。ISBN 978-4305002044。"最初の阿直岐・王仁は中国系もしくは準中国系の百済人であったから、漢字の発音も中国音に近かったであろう。"。 
  13. ^ a b 蔡毅 編『日本における中国伝統文化』勉誠出版、2002年4月1日、113頁。ISBN 978-4585030874。"この『和邇吉師』とは、漢名を王仁と称す。彼の姓氏とその文化教養の点から推測されることは、王仁は朝鮮で生活していた漢民族の移民であるか、あるいは移民の末裔であろう。"。 
  14. ^ a b 佐伯有清『日本の古代国家と東アジア』雄山閣出版〈古代史選書〉、1986年11月1日、125-126頁。ISBN 978-4639006121。"井上光貞氏は、王仁の王は中国的な姓で王氏ではないかと指摘され、そして楽浪の官人に王氏が多くいたことから、三一三年の楽浪郡滅亡後に、亡命して百済に入った王氏に王仁はつながりがあるのではないかと推測された。"。 
  15. ^ a b c 竹内理三『古代から中世へ 上―政治と文化』吉川弘文館、1978年2月1日、33頁。ISBN 978-4642070775。"漢高帝の後裔王狗という者が百済に来ったが、王仁はその孫にあたるという。楽浪郡跡の発掘の遣品に王光、王肝など王姓の名をしるしたものがあるので、王仁もその名はともかくとしても、その一族のものであろうと言われている。"。 竹内理三『古代から中世へ 上―政治と文化』吉川弘文館、1978年2月1日、63頁。ISBN 978-4642070775。"こうしたことから、わが国に文運を最初にもたらした王仁も、じつはまったくの架空の人物ではなくて、この王氏の子孫として実在したものと考えても、案外さしつかえないのではないか。楽浪の王氏は、いずれも平、宜、雲、光などめでたい文字の一字名である。"。 
  16. ^ a b 丸山二郎 著、国史研究会 編『歸化人の安置』岩波書店岩波講座日本歴史8〉、1934年5月、9頁。"右に準げた百済の歸化人の中にも、漢人の子孫と稱する者が多く弓月君は秦始皇帝の後だと云はれ、王仁は漢高祖の後裔で百濟に歸化した王豹と云ふ者の子孫だと云ひ、阿知使主はこれ等三國の歸化人の外に支那の歸化人がある。"。 
  17. ^ a b 栗原薫「大化前代の紀年(三)」『北海道教育大学紀要. 第一部. B社会科学編』第33巻第1号、北海道教育大学、1982年9月、1-15頁、doi:10.32150/00002910ISSN 0386-4480CRID 1390857777802733696 
  18. ^ a b 黒板勝美『日本書紀精粋』文部省社会教育局〈日本思想叢書第九編〉、1933年、367頁。"古事記には、和邇吉師とあり、また論語十巻、千字文一巻を伝えたとある。王仁の家は、もと支那から朝鮮に移って来て、初めは楽浪郡に栄えていたらしい。平壌の附近にある楽浪時代の古墳にも王姓の人の墓が多く発見されて居る。楽浪の郡治が衰えた後南下して百済に入った王氏の一人が恐らく王仁であったらう。"。 
  19. ^ a b 今西龍「大同江南の古墳と楽浪王氏との関係」『東洋学報』第2巻第1号、東洋文庫、1912年1月、103頁、CRID 1050001338546618368 :今西龍「大同江南の古墳と楽浪王氏との関係(正誤表)」『東洋学報』第2巻第2号、東洋文庫、1912年5月、282-282頁、CRID 1050564288500040576 
  20. ^ a b 田中健夫石井正敏 編『対外関係史辞典』吉川弘文館、2009年1月1日、356頁。ISBN 978-4642014496。"応神朝に百済の和邇吉師(王仁)が『論語』などの典籍をもたらしたという王仁伝説や、継体欽明朝に五経博士が百済から交代派遣されたとする伝承は、そのままでは事実とは認め難い。"。 
  21. ^ a b 斎藤正二『日本的自然観の研究 変容と終焉』八坂書房斎藤正二著作選集4〉、2006年7月1日、129頁。ISBN 978-4896947847。"王仁の実在を疑う論者は、津田左右吉以来、それこそ無数にある。『千字文』そのものが三世紀終わりにはいまだ成立していないのに日本に渡来するはずはないとの疑問は、早く江戸時代に新井白石、伊勢貞丈らによって提起されていた。"。 
  22. ^ a b 中村新太郎『日本と中国の二千年〈上〉―人物・文化交流ものがたり』東邦出版社、1972年1月1日、53頁。 NCID BN02985226。"阿直岐や王仁が実在の人物であったかどうかはわからない。津田左右吉博士は、後人の造りごととしている。"。 
  23. ^ a b 菅原信海『日本思想と神仏習合』春秋社、1996年1月1日、24頁。ISBN 978-4393191057。"『和邇吉師が論語・千字文を献上したといふのも(中略)和邇吉師が実在の人物でないとすれば、やはり事実とは認められない』と述べており、論語、千字文の阿直岐や王仁は到底実在の人物とは考えられないこと、また和邇吉師が論語、千字文を献上したといふのも、津田左右吉博士は、『王仁の名は阿直岐に対して作られたものであらう』と、架空の名を作り出したものとしている。"。 
  24. ^ a b 野平 2002, pp. 95–98
  25. ^ a b 星野五彦『万葉の諸相と国語学』おうふう、1999年1月1日、154頁。ISBN 978-4273030520。"応神時代に音読すればオウジンとなる王仁の来朝も実在人物なのだろうかと疑問が生じてくる。"。 
  26. ^ 井上薫『行基』吉川弘文館人物叢書〉、1987年8月1日、14頁。ISBN 978-4642050913。"しかし王仁という人物そのものが実在でなく、『書紀』が彼の来朝を応神朝にかけて記したのは、応神朝に半島との交渉が始まったという知識にもとづいたに過ぎないとする津田左右吉博士の説がある。"。 
  27. ^ a b 浜田耕策 2005, p. 6「ところで、韓国の学界では、『日本書紀』に読まれる百済が倭国に送ったとされる王仁や『論語』、『千字文』を代表事例として、百済は倭国より進んだ文化先進国とする文化優越論が根強い。王仁の『千字文』将来説には王仁より後世の作であることや『日本書紀』の歴史構成を批判的に検討する文献学的な批判がある。百済からの知識人や経典の倭国への伝来を百済と倭国との2国間の関係のみに限定してしまい、この背後にある中国王朝との相互の関係に目を向けることの弱さから生まれた『文化優越論』である。」
  28. ^ a b 犬飼隆「烏羽之表」事件の背景」『愛知県立大学文学部論集. 国文学科編』第57巻、愛知県立大学文学部、2008年、6頁、doi:10.15088/00001007ISSN 13425501CRID 1390572174575708928 
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