王仁皎
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王 仁皎(おう じんこう、651年 - 719年)は、唐の外戚。字は鳴鶴[1]。本貫は同州下邽県[2][3]。
経歴
玄宗の王皇后の父にあたる。景龍2年(708年)、将帥として推挙され、甘泉府果毅に任じられ、左衛中郎将に転じた。玄宗が即位すると、皇后の父として将作大匠・太僕寺卿を歴任し、開府儀同三司の位を受け、祁国公に封じられた。仁皎は朝政に関与せず、自らの身を養い、子女の財貨を積むばかりであった。開元7年(719年)、死去した。享年は69。太尉・益州大都督の位を追贈された。諡は昭宣といった[4][1]。
子の王守一は殿中少監となり、祁国公の爵位を嗣いだが、王皇后とともに左道をおこなった罪で柳州司馬に左遷され、藍田駅で死を賜った[4][1]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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