歴史的な評価と大衆の見解
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「タデウス・スティーブンス」の記事における「歴史的な評価と大衆の見解」の解説
スティーブンスの伝記作者としてリチャード・N・カレントは、「この男を真に突き動かしたものを見出すためには、歴史家は専門外の2分野、すなわち心理学者と降霊術者の助けを借りる必要がある」と指摘していた。タデウス・スティーブンスに関する歴史的見解は、その死後1世紀半近くが経った現在でも揺れ動いており、概してアンドリュー・ジョンソンの評価と対極にある。初期の伝記は彼を知っていた人によって作成され、その偏見を反映している。20世紀への変わり目に作成された、例えば1899年のサミュエル・マッコールや1913年のジェイムズ・アルバート・ウッドバーンによるものは、スティーブンスに友好的に捉え、原則に突き動かされた誠実な男となっている。初期のアフリカ系アメリカ人歴史家W・E・B・デュボイスは、スティーブンスを「常識人の指導者」であり、政治においても実業界においても民主主義の厳格な信奉者」と呼んだ。ピューリッツァー賞受賞者の歴史家ジェイムズ・フォード・ローズは、アフリカ系アメリカ人に対して「心から直に現れる」「豊かな共感」を持っていたが、「南部に対しては悪意」を表し、「酷く報復的で」もあったという考えを示した。この復讐心に燃えるスティーブンスという見解はレコンストラクションの間に生まれ、20世紀に入っても続いた。 歴史学の世界で1900年以降にダニング学派によるレコンストラクションの見解が現れると、スティーブンスは否定的に見られることが続き、概して憎しみによって突き動かされたと考えられた。ウィリアム・ダニングが率いたこれら歴史家は、レコンストラクションが南部に対する悪意で動かされた急進派政治家の機会となり、戦争が残した南部の生活と威厳を破壊することになったと教えた。ダニング自身はスティーブンスを「攻撃的で報復的であり、皮肉屋だ」と考えていた。1929年にジョンソンについて非常に好意的な著作を出したロイド・ポール・ストライカーは、スティーブンスを「恐ろしい老人、...南部の血を流し壊れた体を痛めつけるために巧妙に準備をした」人物であり、「南部の白人特に白人女性がニグロ支配の下で身もだえるのを」見るのが「美しいこと」になると考えた者に分類した。1915年、D・W・グリフィス監督の映画『國民の創生』が封切られ、極悪の下院議員オースティン・ストーンマンは、付け方のまずい鬘、びっこ、アフリカ系アメリカ人の愛人(リディア・ブラウンという役名)などスティーブンスに似せた役柄になっていた。この大衆文化の扱いによってスティーブンスに対する大衆の偏見を強化し、活性化させた。フォナーに拠れば、「歴史家がリンカーンやアンドリュー・ジョンソンの寛大さを褒めれば、スティーブンスは北部の南部に対する悪意、報復、不合理な憎しみの象徴となった。」と記した。 1930年代にスティーブンスの伝記を書いた歴史家たちは、この紋切り型の見方を逃れ、スティーブンスとその政歴を見直そうとした。トマス・F・ウッドリーは1937年にスティーブンスについて書き、彼に対する称賛を示す一方で、その内反足に関する苦しみを推進力に変えたとしている。アルフォンソ・ミラーは1939年の伝記で、スティーブンスが正義に対する願望で動機づけられたことを見出した。二人とも近年の著作はスティーブンスを公平に扱っていないと確信していた。リチャード・カレントの1942年の作品は、レコンストラクションを含むアメリカの全歴史を、北東部の工業事業家(スティーブンスがその代表)、南部の農園主、および中西部の農夫という3面の経済闘争と見なす当時のベアード流歴史学を反映していた。カレントは、スティーブンスがレコンストラクション政策において憤懣のある野心、およびその政治的地位を利用して工業資本主義を促進し、共和党を躍進させたいという願望で動機付けられていたと論じた。スティーブンスの平等主義という信念にも拘わらず、実際には「富の集中で、大企業時代に彼がもたらした以上のことを誰もなしえなかった」が故に不平等を推進したと結論付けた。 ラルフ・コーンゴールドによるスティーブンスに関する1955年の伝記では、新奴隷制度廃止主義学派の歴史家がスティーブンスの検討を始めた。これらの歴史家は、戦後にアフリカ系アメリカ人を援助するために南部に行った者達は「高徳なリディーマー」に敗れた「やくざなカーペットバッガー」であるとした以前の見解を否定した。その代わりに、奴隷制度を終わらせ、公民権運動を推進した者達を称賛し、ジョンソンを何でも妨害する人と酷評した。アフリカ系アメリカ人がレコンストラクションの中心であり、議会の計画で間違った唯一つのことはそれ以上進まずにあまりに早く停止したことという見解を採った。ブロディの1959年の伝記はこの学派のものである。この結論に議論を吹っ掛けたのが精神分析的伝記学者であり、スティーブンスは「抑圧された者に自己同化した完全な弱者」であり、その知性で成功を掴んだが、内反足という自意識がその社会的発展を遅らせたと考えた。ブロディに拠れば、これも自分の社会的立場にある女性との結婚を好まなくさせたとも言っている。 ブロディに従う学者たちは、議会を自分の方向に向けて支配したスティーブンスを報復的な専制者とする考えをなし崩しにし続けた。1960年、エリック・マッキトリックは、スティーブンスを「絵に描いたように器用な政治家だが、大変限界のある者」だったと考え、その経歴は「次から次に彼の顔に爆発し続けた悪魔的考えの長い喜劇の連なりである」と見なした。1970年代半ばからは、フォナーがスティーブンスの役割は急進的な姿勢を確立することにあったが、スティーブンスではなく事件が共和党員をして彼を支持させるようにしたと論じた。1974年のマイケル・レ・ベネディクトは、専制者としてのスティーブンスの評価はその影響力よりも個性に基づいていると述べた。1989年、アラン・ボーグは歳入委員会委員長としてのスティーブンスがその委員会の「完璧な主人には足りない者」だったとしている。 歴史家のハンス・トレフーシーは、1969年の急進派共和党に関する研究で、スティーブンスの「不変の情熱は平等だった」と述べた。1991年、トレフーシーはスティーブンスが「連邦議会に務めた中でも最も影響力を持った議員の一人だ。その機知、議会法の知識、完全な意志力で下院を支配したのであり、完全には支配できないことが多かったとしてもである。」と述べた。しかし1997年に著した伝記では、マッキトリックに似た立場を採っている。スティーブンスは比較的限界のある人物であり、その過激主義によって影響力が制限されたことも多かったとしている。トレフーシーは、ブロディがスティーブンスの内反足をあまりに多くのことの原因にし過ぎていること、スティーブンスとスミスの関係に全面的に信頼を寄せていることで、極論に走りすぎており、どちらの事項も今では確証を持って決められないと考えた。 スティーヴン・スピルバーグの2012年の映画『リンカーン』では、トミー・リー・ジョーンズが演じたスティーブンスが彼に新たな興味をもたらした。ジョーンズの役柄は、急進派の中心人物であり、アメリカ合衆国憲法修正第13条の成立に大きく貢献した者として描かれている。歴史家のマシュー・ピンスカーは、映画の原作になったドリス・カーンズ・グッドウィンの『ライバルのチーム』ではスティーブンスが4回しか言及されておらず、それに基づいた脚本家トニー・クシュナーの書いた脚本では、他の急進派人物がその役柄に取り込まれていると述べた。スティーブンスは常に妥協を繰り返すリンカーンによってそうすることを促されて初めて、憲法修正第13条の成立を得るためにその見解を和らげることができた人物として描かれている。この映画に関して急進派を如何に描いたかというアーロン・バディの記事では、「彼は、彼らが大変愛し過ぎているのでそう言えないとしても誰もが当惑している叔父さんだった。彼は指導者ではなく、重荷であり、その輝かしい英雄的瞬間は、真に信じていることについて黙しているときとなるであろう。」と記していた。この映画はスティーブンスとスミス(英語版)の性的な関係も描いていた。ピンスカーは、「彼らが愛人だったのは十分あり得たことだが、この件を映画に挟むことで、スティーブンスの平等主義が人種の線を超えたロマンスを合法化するという彼の望みであることの「秘密の」理由であると観衆に印象付ける危険性を映画制作者が冒している。」とコメントしていた。
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