幼少期と初期キャリア
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「マイケル・ウィリアム・バルフ」の記事における「幼少期と初期キャリア」の解説
ダブリンに生まれ、幼い頃から音楽の才能を示していた。彼は舞踏指導者兼ヴァイオリニストの父と、作曲家のウィリアム・マイケル・ルークから指導を受ける。彼がまだ少年の頃に、一家はウェクスフォードに移り住んだ。1814年と1815年の間に父の舞踏教室でヴァイオリンを弾き、7歳でポロネーズを作曲している。 1817年、バルフはヴァイオリニストとして公開演奏を行い、同年にはバラードを作曲した。この曲は最初「ヤング・ファニー Young Fanny」と呼ばれており、後にベストリス婦人によってPaul Pryで歌われた際には「恋人達の過ち The Lovers' Mistake」と呼ばれた。1823年に父が他界すると、まもなくロンドンに移り住んで、ドルリー・レーンにある王立劇場の管弦楽団でヴァイオリニストを務めた。その後、彼はその管弦楽団の指揮者に就任している。一方で、彼はロンドンにおいてチャールズ・エドワード・ホーンにヴァイオリンを、1824年からウィンザー城内のセント・ジョージ教会でオルガニストとなっていたチャールズ・フレデリック・ホーンに作曲を師事した。 ヴァイオリン演奏を続ける傍ら、バルフはオペラ歌手としてのキャリアも模索していた。彼はノリッジにおいてウェーバーの「魔弾の射手」でデビューを果たしたが、これは失敗に終わった。1825年、マッザーラ(Mazzara)伯爵が彼を声楽と音楽の修行のためにローマへと連れていき、ケルビーニに紹介した。バルフは作曲の道も推し進めていた。彼はイタリアにおいて、最初の劇作品であるバレエ「La Perouse」を作曲している。彼はロッシーニに弟子入りし、1827年の終わりにはパリのイタリア・オペラに「セビリアの理髪師」のフィガロ役で登場した。 バルフは程なくイタリアに戻り、続く8年間の歌手活動と数曲のオペラ作曲の拠点とした。彼はこの期間にパリのオペラ座で歌っており、そこでマリア・マリブランと出会っている。1829年のボローニャでは、彼は当時18歳だったソプラノ歌手のジュリア・グリジのために、初めてとなるカンタータを作曲した。彼女は、テノールのフランチェスコ・ペドラッツィ(Francesco Pedrazzi)と共にこれを歌い、大きな成功を収めた。バルフはパレルモでの1829年から1830年のシーズンの祭りにおいて、彼にとって最初の完全なオペラ「I rivali di se stessi」を上演した。 1831年頃、オーストリアの血筋でハンガリー生まれの歌手のリーナ・ローゼル(Lina Roser; 1806年-1888年)と結婚した。2人が出会ったのはベルガモであった。2人の間には2男2女が生まれている。下の息子エドワード(Edward)は、生後まもなく死亡した。上の息子のマイケル・ウィリアム・ジュニアは、1915年にこの世を去っている。娘はルイーザ(Louisa; 1832年-1869年)とヴィクトワール(1837年-1871年)であった。バルフはパヴィーアでオペラ「Un avvertimento ai gelosi」を、ミラノでは「Enrico Quarto」を作曲した。ミラノでは1834年にマリブランと共に、スカラ座でロッシーニの「オテロ(英語版)」を歌う契約となっていた。珍しい試みとして、彼はマイアベーアのオペラ「エジプトの十字軍」に自分の音楽を加えて「改良」しようと試みたが、これによってヴェネツィアのフェニーチェ劇場での契約を放棄せざるを得なくなってしまった。
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幼少期と初期キャリア
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「マリアン・アンダーソン」の記事における「幼少期と初期キャリア」の解説
1897年2月27日、フィラデルフィアに生を受けた。父はジョン・バークリー・アンダーソン(1872年頃-1910年)、母はアニー・デリラ・ラッカー(1874年-1964年)であった。父はフィラデルフィア市街地にあるレディング・ターミナル(英語版)で氷と石炭を販売していた人物で、後に小さな酒屋も開いている。母は結婚前にリンチバーグにあるヴァージニア・セミナリー・アンド・カレッジ(英語版)に少々在籍していたことがあり、バージニアで学校教員として働き小さな子供たちの世話をして収入を得ていた。マリアンは一家の3人の子どもの年長であった。2人の妹、アリス(1899年-1965年)とエセル(1902年-1990年)も歌手になっている。エセルはジェームズ・デプリーストと結婚し、その下の子どもであるジェームズ・アンダーソン・デプリーストは著名な指揮者となった。 アンダーソンの両親はいずれも信心深いキリスト教徒であり、一家はサウス・フィラデルフィア(英語版)のユニオン・バプティスト教会で活動していた。とりわけ教会の音楽活動に熱心であったマリアンの父方のおばであるメアリーが姪の才能を見抜き、彼女の説得によりマリアンは6歳の時に教会の児童合唱に加入する。その中で彼女はソロや二重唱を行うようになり、その相手はしばしばメアリーが務めた。また、マリアンはおばに連れられ地元の教会やキリスト教青年会(YMCA)の演奏会、慈善演奏会、その他街中の音楽イベントに出かけていた。彼女は自らが歌手としてのキャリアを追求した理由におばの影響を認めている。まだ6歳の頃からおばはマリアンが地元の行事で歌えるように手はずを整え、数曲の歌唱で25セントから50セントを受け取ることができた。10代になった時分には歌で4ドルから5ドルを稼ぐようになっていたが、これは20世紀初頭にあっては大きな金額であった。10歳で歌手のエマ・アザリア・ハックリー(英語版)率いる合唱団体に参加し、しばしば独唱を任されている。1919年3月21日にフィラデルフィアのジョン・ワナメイカー百貨店のエジプト・ホールで行われた3月音楽祭では、ロバート・カーティス・オグデン(英語版)・バンドと合唱協会による演奏会で主演歌手を務めた。 アンダーソンが12歳だった1909年のクリスマスの数週間前、父がレディング・ターミナルでの作業中に頭を打つ事故に遭った。彼は1か月後に心不全で34年の生涯を閉じる。残されたマリアンと一家は父方の祖父ベンジャミンと祖母イザベラの家に身を寄せることになった。祖父は奴隷に生まれて1860年代に奴隷解放を経験しており、アンダーソン一族で最初にサウス・フィラデルフィアに居を構えた人物であった。その家で暮らすこととなったマリアンは祖父と非常に仲良く暮らすようになるが、彼は一家が移り住んだちょうど1年後にこの世を去った。 アンダーソンはスタントン・グラマー・スクールに通い1912年の夏に卒業した。しかし、彼女の家庭では高校の授業料は賄えず、音楽レッスンに資金を出すこともできなかった。それでもアンダーソンは可能な場合はいつでも歌うことを続けていき、教えてくれようとする人からは誰からでも学んでいった。10代の時期は教会での音楽活動に精を出し続けたが、もはや成人の合唱隊に深く関わっていた。バプティスト若年者ユニオンとキャンプ・ファイヤーに加盟するが、得られる音楽活動の機会は限られたものだった。最終的にはピープルズ・コーラスと教会の牧師であるレヴェレンド・ウェズリー・パークス、そして黒人コミュニティの長たちが必要な資金を用立てし、彼女はメアリー・ソーンダーズ・パターソンに歌の指導を受けるとともにサウス・フィラデルフィア高校(英語版)にも通えるようになり、同校を1921年に卒業した[要出典]。 白人専門の音楽学校であったフィラデルフィア音楽アカデミー(現フィラデルフィア芸術大学(英語版))に応募したアンダーソンは、肌の色を理由に門前払いを受ける。彼女が応募しようとした際に、窓口の女性は「有色人種は受け入れていない」と応じたという。これにくじけなかったアンダーソンはフィラデルフィアの黒人コミュニティーからの継続的援助を頼って地元で私的に特訓できる道を模索し、はじめはアグネス・レイフスナイダー、次いでジュゼッペ・ボゲッティ(英語版)の薫陶を受けた。ボゲッティとは高校で主役を獲得したことをきっかけに知り合った。彼のオーディションに臨んだアンダーソンが『深き河』を歌うと、ほどなくボゲッティは涙を流したのであった。ボゲッティはニューヨークのタウン・ホール(英語版)で英語、ロシア語、イタリア語、ドイツ語の音楽による演奏会を企画したが、1924年4月に行われたこのリサイタルにはほとんど客が入らず演奏評も芳しくなかった。1925年にニューヨーク・フィルハーモニックの後援で開催された歌唱コンテストで1等賞を獲得し、アンダーソンに最初の大きな転機が訪れた。優勝者として掴んだ1925年8月26日の同オーケストラとの共演によるコンサートは、たちまち聴衆と評論家の双方からの賛辞で迎えられることになる。アンダーソンはニューヨークに留まり、フランク・ラ・フォージ(英語版)の下で更なる研鑽を積んだ。この頃、ニューヨーク・フィルハーモニックを通じて面識を得たアーサー・ジャドソン(英語版)が彼女のマネージャーに就いている。これ以降の数年間にアメリカ国内で多数のコンサートに出演するも、人種に関する偏見によりキャリアに大きな弾みをつけるには至らなかった。1928年には初めてカーネギー・ホールの舞台に立っている。ついにヨーロッパに赴くことを決意したアンダーソンはサラ・カイエ(英語版)について何か月も特訓を行い、その後ヨーロッパツアーを成功させることとなる[要出典]。
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