幼少期とストウ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 06:56 UTC 版)
「ランスロット・ブラウン」の記事における「幼少期とストウ」の解説
ブラウンは1716年、スコットランドとの境界に近いイングランド北東部のノーサンバランド、カークハールで土地管理人と女中の間の5人目の子供として生まれ、16歳までカンボの学校で教育を受けた。父ウィリアム・ブラウンはサー・ウィリアム・ロレインの土地管理人であり、母アーシュラ(旧姓ホール )はカークハール・ホールに勤務していた。長兄ジョンは不動産鑑定士となり、後にウィリアム卿の娘と結婚。兄ジョージは石工建築家になった。ランスロットは学業を終えたあと、サー・ウィリアム・ロレインの屋敷であるカークハール・ホールの厨房用菜園で庭師の見習いとして23歳まで働いた。1739年に彼は南へと向かい、リンカンシャーの港町ボストンに滞在した。 そこからさらに内陸部へと足を向け、オックスフォードシャーのキディントン・ホールに人口湖を新設するという初のランドスケープの仕事を手に入れる。彼はサー・リチャード・グレンヴィルの屋敷であるバッキンガムシャーのウットン・アンダーウッド・ハウスに引っ越した。 1741年 バッキンガムシャーのストウ庭園 (Stowe Landscape Gardens)でブラウンは次席の庭師として領主コバム卿の園芸スタッフに加わり 、イギリスの新様式である風景式庭園を創始した造園家ウィリアム・ケントから様々な植物の知識や建築技術、土木工事といった大掛かりな技術までを学び、生来の才能に磨きをかけていく。 1742年26歳の時に彼は25ポンド(2019年の貨幣価値で3900ポンドに相当)年俸で正式に庭師頭に任命され、西ボイコットパビリオンで暮らす。ブラウンはストウで1742年から1750年まで庭師頭を務めた。ストウでは「ギリシャの谷」を作ったが、これは名前と裏腹に、地形と森林を抽象的に構成したものである。コバム卿は、自分の貴族仲間からフリーランスの仕事を受けることをブラウンに許し、おかげでブラウンは風景庭園の造園家として知られるようになった。イギリスの新しい様式である風景庭園の設計の担い手と見られたブラウンは、大地主たちの間で引く手あまたの存在となった。ブラウンの名が知られるようになっていた1751年に、ホレス・ウォルポールはウォリック城でのブラウンの仕事について、いささか軽んじるような筆致でこう記している。 「城はきわめて魅力的です。眺望は言葉に表せないくらい満足できました。敷地の端では、エイヴォン川が滝になって流れ下るようになっています。巧みな設計はブラウンなる者の手によるものですが、その下敷きになったのはケントおよびサウスコート氏が提供したいくつかのアイディアです」 この時期から約十年はブラウンの黄金期ともいうべき時期で、彼は前述のブレナム宮殿やチャッツワース・ハウス、ペットワース・ハウス (Petworth House) などに代表される名庭園を次々と作り出していく。 1760年代には、彼は1件の仕事につき平均500ポンド(2019年の貨幣価値で68,800ポンド)、年収で6,000ポンド(2019年の貨幣価値で826,000ポンド)を稼ぎ出すようになっていた。乗馬の達人であったブラウンは、地所全体を見て大まかなプランを立てるのに1時間程度しか必要とせず、仕事が早かった。1764年、ブラウンはハンプトン・コート宮殿でジョン・グリーニングの後任として国王ジョージ3世の主任庭師に任命され、ウィルダネス・ハウスに暮らした。 1767年に彼はノーサンプトン伯爵からハンティンドンシャーのフェンスタントンで自分のための不動産を購入、1770年にケンブリッジシャーとハンティンドンシャーの名誉長官に任命されたが、実務のほとんどは息子のランスが遂行した。
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