幼少期から黎明期
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1920年、江蘇省常州の知識人家庭に生まれる。父親の蘇調夫は金陵大学卒業後、前後して牧師と教師を務め、常州ではとても有名な人物であった。母親の顧美珍は金陵女子大学(中国語版、英語版)を卒業している。周璇は幼少期にアヘン常用者だった素行の悪い母方のおじによって金壇県に売り飛ばされ、以後、実の両親とは離別することになった。6歳の時、上海の周家に養子にもらわれ、“周 小紅” と改名することになる。養父は周文鼎、養母は葉鳳妹であった。養子になって以降は貧しい生活を強いられるが、養母は教育熱心で寧波同郷會が設立した第八小学校へ入学。そうしたことから〝文盲にはならずにきたことを養母に感謝し、恩に思う〟と周璇は述懐している。 1931年、ピアノ教師である章錦文の紹介で周小紅は黎錦睴(中国語版、英語版、フランス語版、ノルウェー語版)が設立した明月歌舞団(別名:聯華歌舞班)に参加した。初めて舞台に立った周小紅は「民族之光(民族の光)」という曲の中の〝與敵人周旋於沙場之上(敵と砂原においてわたり合う)〟という歌詞の一節を唄うと聴衆から熱烈に称賛された。このことで黎錦睴は “周小紅” に替えて “周 璇” という芸名を与えている。芸名の由来は「民族之光」の歌詞《興敵人周旋於沙場之上(敵の奴等を戦場でもてなそう)》という一節に因み、更に “旋” に “王” 偏が付け加えられたものである。 明月歌舞団に入団後、周璇は歌や舞踊、ピアノ等を熱心に学び、同時に國語を重視する歌舞団の方針もあり北京語を学ぶこととなる。それまで彼女は上海語しか話せなかった。その時の個人教師役を買って出た者こそ後の夫の嚴華(中国語版)である。嚴華は黎錦光と共に黎錦睴の補佐的な立場にいた。やがて周璇は看板女優だった王人美の不在の穴埋めとして『特別快車』で初舞台を踏み歌唱、評判を得るがそれも束の間、明月歌舞団が解散を余儀なくされる。その後は嚴華により新結成された新華歌舞社に参加、舞台でも歌舞劇を演じると同時にラジオへも積極的に出演するようになる。当時、上海で生まれた “新歌” にとって、歌舞団の公演やダンスホールなどにまして最も重要な媒体はラジオだったが、周璇も “無敵牌牙粉(無敵印の歯磨き粉)” のプロモーションのためのテストで唄ったところ、聴取者の反響を呼び歌手として見出されたという。同年、新聞社 “大晩報” 主催の《播音歌星競選》というラジオ歌手コンテストに出場、白虹(中国語版、英語版、ロシア語版)の9130票に次ぐ8876票を獲得して第2位に入選している。以降、嚴華と共に上海の各ラジオ局を巡り歩き、歌手としての活動を主軸とするようになる。 周璇はラジオ局で歌を披露する以外にレコードも多数録音している。同時に映画会社の芸華に誘われた縁から映画女優としての活動も始めた。1935年に『風雲兒女』で踊り子の1人として出演し、同年『美人恩』にも端役で出演。1936年には映画女優としての本格的キャリアの幕開けとなる『花燭之夜』を皮切りに計6作品に出演し、その中の『喜臨鬥』では主演を務めた。1937年、周璇は明星影片公司制作による袁牧之監督作品『街角の天使』(中国語原題:『马路天使』)に主演して大好評を博し、劇中にて歌唱した「天涯歌女」「四季歌」が大ヒット。上海のスターダムへと昇り詰めることとなる。同年「何日君再來」も大ヒット、名実共に大スターとなる。その後彼女が主演した『孟姜女』、『李三娘』、『董小宛』、『西廂記』など20本にも及ぶ映画作品は中国全土で広く流行し、彼女が歌唱した当時の時代歌謡や映画挿入歌も津々浦々にまで知られるようになり、愛くるしいその節回しは一世を風靡した。1943年には中華電影聯合股份有限公司にて『漁家女《漁師の娘》』、『紅楼夢』等の映画作品にも主演している。1945年に開催された2回のコンサートでは、3月の金都大劇院での第三幕と6月の大光明劇院の第一幕ではチケットが高額だったにも関わらず販売開始と共に完売してしまい、上海中にセンセーションを巻き起こしたこともあった。1946年には「夜上海」が大ヒットしている。
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