幼少期と家庭環境
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「エリザベス・キャディ・スタントン」の記事における「幼少期と家庭環境」の解説
11人きょうだいの8番目に生まれたエリザベス・キャディの生地はニューヨーク州ジョンズタウン市 Johnstown で、父はダニエル・キャディ、母はマーガレット・リビングストン・キャディである。きょうだいのうち5人は乳児もしくは幼児のうちに死去しており、ニューヨーク州スケネクタディのユニオンカレッジに進んだ6番目ですぐ上の兄エリーザーも20歳で亡くなる。スタントンを含む娘5人が成人し老年期まで生きた。スタントンは実姉妹2人から名前をもらうと、自分の娘2人にマーガレットとハリオットと名付けている。 スタントンの父ダニエル・キャディはアメリカ連邦議会議員を1期務めた弁護士として名声があり、その後、ニューヨーク最高裁判所判事 (1814年から1817年) および巡回裁判所裁判官に任命される(1847年)。キャディ裁判官は幼い頃から法律を教えた娘エリザベスと、長女の夫エドワード・ベイヤードに法および社会活動の芽を植え付けた。若く女性という身でもスタントンは父の法律の蔵書を読んでは、法律の問題を父の法律書記官と議論するのを楽しんでいたという。こうして未成年のうちに法律に触れたことが、ある意味で法律はどれほど不釣り合いに女性、わけても既婚女性よりも男性を好むか、スタントンに認識を抱かせたのである。既婚女性には事実上、自分の子どもなのに監護権を認められず、あるいは財産も収入も雇用の権利さえないという認識があり、そのことから、これらの不公平を変える道のりを設定する。 スタントンの母マーガレット・リビングストン・キャディは初期のオランダ人開拓者の血筋で、そのまた父はジェームズ・リビングストン大佐といい、アメリカ独立戦争中の大陸軍の将校である。 祖父リビングトストンはサラトガとケベックで戦った後、ニューヨークのウェストポイントでジョン・アンドレ少佐の捕縛を支援した。現場でアンドレと共犯でバルチャー号に乗って逃げたベネディクト・アーノルドは、ウェストポイントをイギリスに引き渡そうと計画していたのである。スタントンの母は当時の女性にしては異例の長身だったため存在感が圧倒的であったことから、祖父は日常的に自分の娘を「女王様」呼ばわりしていたという。スタントンの娘ハリオット・スタントン・ブラッチの記憶では祖母マーガレットは楽しくて愛情深く、いきいきとした女性だったというが、スタントン自身の思い出とは異なるようだ。マーガレット・キャディは非常に多くの子どもを喪ったため感情的に失調をきたし、うつ状態に陥った。 母のうつ病と、仕事に没頭する父は長男エリーザーを含む子ども数人との死別と闘ったことから、子育ての責任の大部分をスタントンの11歳離れた姉トリフェナとその夫のエドワード・ベイヤードが担うこととなった。エドワードはユニオンカレッジで兄エリーザーと同級で、その父はデラウェア州ウィルミントン出身のジェームズ・A・ベイヤード・シニア上院議員である。姉トリフェナと婚約した当時、後の義父となるダニエル・キャディの法律事務所の見習いを務めた義兄を介し、スタントンは法制度に存在する明示的および暗黙の性別階層について理解を深めた。 ニューヨーク州の奴隷制度は1827年7月4日まで続き、多くの男性と同様にスタントンの父も奴隷を所有した。キャディ家の元奴隷で後にジョンズタウンで解放されたピーター・テアバウトは、スタントンと妹のマーガレットの面倒を見た。スタントン自身はテアバウトが自分たちの奴隷だったことについて特に講演などでは言及しておらず、自叙伝『Eighty Years & More』(仮題:回顧録『八十歳とそれから』)にはスタントンが特に親愛の情を寄せた相手として登場させる。とりわけテアバウトと一緒にエピスコパル教会の礼拝に参列した喜びを書き留め、姉妹は前列の白人席に座るのではなく、教会の後方の席にテアバウトと一緒に座ったという。しかしながら少なくともきっかけは奴隷をひとり所有したことよりも、いとこに当たるゲリット・スミス (ニューヨーク州ピーターボロ) を訪れたときに奴隷廃止運動に触れ、若い女性の感性から奴隷制度廃止論者として筋を曲げない活動家に育ったようである。
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