幼少期と小学教師時代(1896-1917)
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1896年(明治29年)3月26日、香川県鵜足郡飯野村(現:綾歌郡宇多津町)東分にて、父・勘次、母・トメの三男として出生する。大浦家は農家であったが、「三反百姓」と呼ばれる零細経営であったため、勘次は行商を兼ねることで生計を立てていた。大浦少年も草履作りや松葉掻きなどできることなら何でもやったといい、この経験は後の生活に役立ったと述懐している。1902年(明治35年)に飯野尋常小学校(現・丸亀市立飯野小学校)へ入学、当時は4年制であったため1906年(明治39年)3月に卒業する。そのまま飯野高等小学校へ進み、1910年(明治43年)3月に卒業する。大浦家の家庭事情では進学の余裕はなかったが、大浦の才能を買っていた教師の熱心な勧めによって飯山教員講習所への進学が叶った。飯山教員講習所への通学距離は往復5里(≒20 km)あり、大浦はここで先生になる自覚が芽生えたという。 飯山教員講習所は1年制の教育機関であったため1911年(明治44年)3月に卒業し、翌4月に香川県師範学校(現・香川大学教育学部)本科第一部に進学する。この年、羽田運動場で開催された1912年ストックホルムオリンピックの予選会で、金栗四三が下馬評を覆して佐々木正清(小樽水産)を破って優勝したという報道に接し、「人ができるなら自分にも」と思い、陸上競技を志す。しかし1914年(大正3年)2月14日に開かれた、国分寺-香川師範間の3里4町(≒15 km)師範生長距離競走に出場し30位(289人中)と振るわなかった。このため高松-牟礼間往復山野横断競走への出場ができなかったが、「選手ではなかったが、私自身もスポーツに目覚めた」と語っている。1915年(大正4年)3月、香川師範本科を卒業し、高松市立尋常高等小学校の訓導に着任する。ここで2年教師を務めた後、退職して東京高等師範学校(東京高師)へ進学する。
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