幼少期と学生期 (1822年–1842年)
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「セザール・フランク」の記事における「幼少期と学生期 (1822年–1842年)」の解説
フランクはネーデルラント連合王国(現ベルギー、1830年からワロン語圏ベルギーとなっていた)のリエージュで生まれた。元来ドイツ系の家系で、父のニコラ=ジョゼフ・フランク(Nicolas-Joseph)は銀行家でベルギー国境付近の出身、母のマリー=カテリーヌ=バルブ・フランク(Marie-Catherine-Barbe 旧姓フリンクス Frings)はアーヘンの出身であった。セザールは幼い頃から絵画と音楽の才能を示しており、父のニコラ=ジョゼフは息子がフランツ・リストやジギスモント・タールベルクのような若き神童ピアニスト兼作曲家となって、一家に富と名声をもたらすことを夢見ていた。父によってリエージュ王立音楽院に送られたフランクはソルフェージュ、ピアノ、オルガン、和声学をジョゼフ・ドーソワーニュ=メユールら他の下で学んだ。フランクの演奏会デビューは1834年のことで、建国間もないベルギー王国の国王レオポルド1世も臨席していた。 1835年、息子をより広い聴衆の前に出す時が来たと決意した父ニコラ=ジョゼフは、彼と弟のジョゼフを引き連れてパリへと赴き、彼らにアントニーン・レイハによる対位法の、またピエール・ジメルマンによるピアノの個人的なレッスンを受けさせた。レイハとジメルマンはパリ音楽院の教授も務めていた。10か月後にレイハがこの世を去ると、ニコラ=ジョゼフは2人の息子の音楽院入学の方策を模索するようになった。しかしながら音楽院は国外の学生を受け入れていなかったため、ニコラ=ジョゼフはフランス国籍の取得に向けて動くことになり、1837年には帰化が認められた。この間ニコラ=ジョゼフはパリで息子らが単独で、もしくは2人が同時に出演するような演奏会やリサイタルを企画した。こうした場で彼らは主に当時の流行音楽を演奏し、おおむね好評を得ていた。 セザールとジョゼフは1837年10月にパリ音楽院に入学を果たした。セザールはジメルマンの下で引き続きピアノの修行を積むと同時に、エメ・ルボルン(Aimé Leborn)に作曲を師事するようになった。彼は1838年、初年度の終わりにピアノの1等賞を獲得し、以降も高い水準の演奏を維持していった。一方で対位法の成績はそこまで目覚ましいものではなく、1838年から1840年まで1年ごとに3等賞、2等賞、1等賞と順位を伸ばしていった。フランクはフランソワ・ブノワのオルガンの指導も受けるようになり、演奏と即興演奏を学んで1841年には2等賞を獲得した。その翌年には作曲でローマ大賞への出品を目指していたものの、理由は不確かながら1842年4月22日に音楽院を「自主」退学してしまう。 父ニコラ=ジョゼフがフランクに音楽院を去るよう命じたのではないかと考えられる。フランクは学問の習得に励む傍ら、父の要請により個人的な音楽指導を行い演奏会もこなしていた。「それは彼にとっては辛い日々で(中略)気性が荒く執念深くさえあった彼の父の振る舞いにより、毎日が楽になるようなことはなかった(略)」若いフランクが時にヴァイオリンを演奏する弟を伴って、自作曲を交えながら披露する演奏会は最初こそ好意的に受け入れられたものの、次第にニコラ=ジョゼフの商業的な息子の売り出し方がパリの音楽雑誌や批評家の反感を買うようになった。フランクのピアニストとしての技量は認められていたが、この時点では公正に判断するならば彼の作曲家としての腕前は未熟なものだった。状況は、ニコラ=ジョゼフとRevue et Gazette musicale誌で首席評論家を務めるアンリ・ブランシャール(Henri Blanchard)の間で確執が生じたことでさらに悪化した。ブランシャールはニコラ=ジョゼフがひどく気取っていることを酷評し、上の息子の「荘厳な」名前を嘲った。こうした敵意は「疑いなく個人的なもの」であったが、ニコラ=ジョゼフにベルギー帰国が必要だと思わせるには十分だったようで、1842年に「有無を言わせぬ命令」が下されたフランクは音楽院を後にして父に付き従がわざるを得なかったのである。
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