山林下戻
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明治維新後、政府は地租改正を行い、青森県では明治8年(1875年)から同9年の2年間行われた。藩政時代の制度を無視し、私有・共有の証文のない山をことごとく官林(国有林)に編入した。これは国の財産として山林を多く持とうと企図したことによる。当時、「白河以北一山百文」と言われ、薩長土肥で占められた藩閥政治家は奥羽の山林に目を付けたのであった。 青森県では、津軽藩が何百年と時を掛けて保護育成した見継林の美林は、全て官有となり、財産的価値のない裸山や原野が僅かに民間の所有とされたのみであった。これは現在でもほとんど変わらず、青森県の森林面積の7割が国有林で有り、北海道を除くと全国一である。 明治9年(1876年)の林野丈量調査で青森県の官有地は112万町歩と算出されたが、青森県全体の面積は96万町歩であり、杜撰な調査により台帳が作成された。 こうした事が明るみに出たのは明治10年代になってからで、従来通り柴刈りの為に入山すると警察に取り締まられるという事態が起こってからであった。 農民の不平不満が大きくなり、政府はやむなく明治32年(1899年)、国有土地森林原野下戻法を施行した。これを受けて、青森県からは全国最多の2910件にも及ぶ申請が出された(許可されたのは79件)。 荒川村と隣接する高田村は、八甲田山に広大な林地を持っていて、貞享年間(1684~1688)以来、約200年の間、民有として利用し、廃藩置県後も部落共有林としていたが、明治9年に突然官有地に編入された。 10年後にはじめて官有地編入が誤りであることが分かったものの、どうにも出来ない状況であった。 明治29年(1896年)1月から荒川村の村長を務めていた白鳥鴻彰(当時は鴻幹)は、国有土地森林原野下戻法(山林下戻法)が国会で議論になると、早速9月4日から山林下戻の調査を開始した。藩政時代から村民の共有地であると言う証拠書類や絵図面などを集めて、これによって裏付けようとした。その結果、「明和年間の荒川村外十五ヵ村馬飼料場及薪取山の書類一冊」「貞享年間調製の野沢村絵図面一枚」「天和年間の小畑沢村絵図面一枚」「野沢村御検地水帳一冊」などを見つけることが出来た。 これらの書類を整えた白鳥は、荒川・高田村共同で明治31年(1898年)11月に、農商務大臣に山林下戻の申請書を提出した。 明治30年(1897年) 8月に国有土地森林原野下戻法が決議されて以来、全国各地から申請が殺到し、農商務省山林整理局の技手が現地調査に現れたのは、明治33年(1890年)9月であった。この時、白鳥は荒川村長を退任していたので、後任の村長・櫻田文吉と高田村の奥崎義郎村長と白鳥の3人で幕田繁治技手を案内した。 村長を退任した白鳥は、再三上京して関係当局を訪ね陳情を繰り返していた。また、その頃政界を引退していた父・慶一も明治36年(1893年)1月に「東奥の野民慶一謹て明公閣下に言す」で始まる建白書を内閣総理大臣伯爵桂太郎に呈した(『荒川高田山林勝訴録』)。そして再び同年6月に2度目の村長に就任した。 2度目の調査は白鳥が村長に就任した翌月29日に農商務省山林局の役人2人(小木利金太、柳沢鹿之助)と青森大林区署員ら10名程が4日間に渡って行われた。この調査の結果を白鳥らは大いに期待した。また、8月5日、父・慶一は、内務大臣児玉源太郎と面談し、「今日ノ所謂模範町村ハ山林原野ヲ所有シ克ク之ヲ利用スルモノナレバ速ニ山林原野ノ下戻等々励行セザルヲ得ザルヲ述ベ又将来文化ノ進歩ニ連レ公有林造成ノ必要ナル所以ヲ説」いたところ、児玉は大いに同感したと言う(『荒川高田山林勝訴録』)。期待の膨らむ中、12月19日、農商務大臣男爵清浦奎吾の署名で山林下戻不許可の指令が伝達された。 白鳥はその時の心情を自著『荒川高田山林勝訴録』(明治44年(1911年)1月)で次のように記している。 「此ノ紙一枚ハ如何ニ我両村民ヲ嘆息セシムルヤ 如何ニ我々両村長ヲ煩悶セシム可キヤ 如何ニ余ヲシテ多年ノ日月ヲ消シテ発憤奔走憤慨長息セシムルヤ 如何ニ民業ノ発展ヲ害シ東奥ノ山河ヲシテ長ク不毛地タラシムルヤ」 「官衙ノ取扱ヤ官吏ノ執務振ハ何レモ民人ノ利便ヲ第二トシテ官海ノ便ヲ第一トシ 民界ノ公利ヲ顧ルヲ第二トシテ官辺ノ利ヲ第一トシ 躊躇逡巡曖昧不問シ 名ヲ官令法規ニ仮リテ徒ニ長日月ヲ消シ 下戻法案等ノ精神ヲ没却スルヤ久シ 其一回誤リテ官有トナルモノハ数十年間ニ渉ルモ容易ニ民間ニ復帰セザルノミナラズ 今ノ立憲文明ノ民人ヲシテ封建時代未開ノ時ヨリモ不幸ニ沈マシメントスル処ナキニアラザルナリ」 白鳥は、苦心して集めた証拠書類から推察しても申請却下に納得出来ず、清浦農商務相を相手取って行政訴訟を起こす事を高田村長と相談して決めた。 荒川村会と高田村会は白鳥を訴訟代理人に決定する議決をするものの、提訴に踏み切ることが出来なかった。問題解決まで長期化が予想される事、山林下戻の裁判での弁護士費用の相場が山林全体の半分と非常に高額である事などがその理由であった。実際、同様の訴訟で蓬田村の八戸弥太郎村長が身代を潰した。 その様な巨額の訴訟費用を捻出できない荒川村と高田村は、白鳥に義侠をもって訴訟費用の一切を負担する様に依頼した。条件として勝訴の暁には両村ともそれぞれ10分の1の山林を、その代償として白鳥に与えることを議決した。 白鳥は、訴訟代理人を引き受け、代理人となった以上訴訟費用を最小限に止める為、弁護士への依頼を止め、一切を自身で当たる覚悟を決めた。白鳥は一切の費用を自弁し、書類の作成も自らが行った。 こうして明治37年(1904年)4月8日、行政裁判所に提訴した。 白鳥は、津軽藩統治時代から薪炭を取る山は村民の共有として検地水帳に記されていること、検地水帳は民有地を定めており藩の管理するものは一切記載がないこと、貞享の絵図面は薪炭を取る山がどこにあるかが記されていること、国有土地森林原野下戻法第2条に公簿や公書に記載のあるものは下戻すべきと明記しており、検地水帳は津軽藩の台帳であり、現在青森県の公簿であること、その公簿に絵図面も付帯してあること、にもかかわらず下戻が許されないのは地方自治のため、国家のために悲しいことだと述べた。 訴訟に踏み切った頃、県会議員になっていた白鳥は県会に諮り、山林払下げに関する建議書を県知事から農商務大臣に提出させた。その内容は、青森県の林業を奨励し、町村基本財産を造成させるため、管内官有林野の下戻や払下げの必要を説いたものだ。このことは、白鳥が単に荒川・高田両村の問題としてのみならず、青森県全体の問題として捕えていたことを物語っている。 明治40年(1907年)10月、白鳥は東京行政裁判所から口頭審問の呼び出しを受けた。『荒川高田山林勝訴録』にはその時の陳述の模様が述懐されている。 「青森県就中私ノ東津軽郡ハ官林反別最モ広大ニシテ凡ソ二十五万二三千町歩アリ 此内旧藩時代ヨリ民有ノモノアルモ明治九年山林原野ノ丈量ノ際ニ不注意ニモ当時ノ検査吏ニ任セタリ 然レドモ人民ハ漫然放任シタルニアラズ 丈量検査後ノ五ヶ年毎ニ改正アルベシトノ語ヲ信ジ且ツ地税ヲ恐レタルニ因れり 而シテ我県ハ最モ粗漏ニ最モ迅速ヲ極メ僅カ一ヶ年ニ測量ヲ済シタリ 他県ハ二年三年ヲ要シタリト聞ク 是等ハ今日地方人民疾苦ノ原因ニシテ誠ニ憫諒スベキモノナリ 之ヲ以テ我郡ノ官林ハ単ニ一郡ノミニテモ中国五県ノ官林ニ匹敵セリト」 次いで12月に第2回の口頭審問が開かれ、白鳥は病中であったが新発見の証拠書類を持って上京した。翌41年2月に第3回の口頭審問の呼び出しがあった。この時に問題になったのは野沢村御検地水帳だった。白鳥は1時間にわたり疑義を解くべく陳述した。問題になったのは酸ケ湯付近の山だったが、白鳥は、温泉は現に民有であり、粗末だが客舎を設けて営業し、税金を納めていることをたてに陳述した。この時の行政裁判所長官山脇玄の模様を『荒川高田山林勝訴録』に白鳥は記している。 「長官ハ余ヨリ水帳ヲ更ニ取上ゲ一見シテ曰ク 成程………成程此ノ出湯所ハ民有ナル可シトテ大ニ首肯セラル」 その結果、2月27日に宣告が行われ、勝訴となった。3月6日には書面が送達された。これによって荒川・高田両村民は、寒水沢・矢別沢など15,065町歩を取り返したのである。4月18日に高田村会は村長・奥崎義郎名で白鳥に感謝状を贈って勝訴を喜んだ。ところがこの面積は、先述の杜撰な調査によるもので、実際は2千町歩強であった。この取り返した山林は、現在では荒川地区・高田地区の財産区として管理されている。 また、下湯ダムには白鳥の顕彰碑が、青森市立荒川小学校には胸像が建てられている。
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