山林下戻とは? わかりやすく解説

山林下戻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 06:47 UTC 版)

白鳥鴻彰」の記事における「山林下戻」の解説

明治維新後、政府地租改正行い青森県では明治8年1875年)から同9年2年間行われた。藩政時代制度無視し私有共有証文のない山ことごとく官林国有林)に編入した。これは国の財産として山林多く持とう企図したことによる当時、「白河以北一山百文」と言われ薩長土肥占められ藩閥政治家は奥羽山林目を付けたであった青森県では、津軽藩が何百年と時を掛けて保護育成した見継美林は、全て官有となり、財産価値のない裸山原野僅かに民間所有とされたのみであった。これは現在でもほとんど変わらず青森県森林面積の7割が国有林有り北海道を除くと全国一である。 明治9年1876年)の林野丈量調査青森県官有地112万町歩と算出されたが、青森県全体面積96万町歩であり、杜撰な調査により台帳作成された。 こうした事が明るみ出たのは明治10年代になってからで、従来通り柴刈り為に入山すると警察取り締まられるという事態が起こってからであった農民不平不満大きくなり、政府やむなく明治32年1899年)、国有土地森林原野下戻法を施行した。これを受けて青森県からは全国最多の2910件にも及ぶ申請出された(許可されたのは79件)。 荒川村隣接する高田村は、八甲田山広大な林地持っていて、貞享年間(1684~1688)以来、約200年の間、民有として利用し廃藩置県後部落共有林としていたが、明治9年に突然官有地編入された。 10年後にはじめて官有地編入誤りであることが分かったものの、どうにも出来ない状況であった明治29年1896年1月から荒川村村長務めていた白鳥鴻彰当時幹)は、国有土地森林原野下戻法(山林下戻法)が国会で議論になると、早速9月4日から山林下戻の調査開始した藩政時代から村民共有地であると言う証拠書類絵図面などを集めて、これによって裏付けようとした。その結果、「明和年間荒川村十五馬飼料場及取山の書類一冊」「貞享年間調製野沢村絵図面一枚」「天和年間小畑沢村絵図面一」「野沢村検地水帳一冊」などを見つけることが出来た。 これらの書類整えた白鳥は、荒川高田村共同明治31年1898年11月に、農商務大臣に山林下戻の申請書提出した明治30年1897年8月国有土地森林原野下戻法が決議され以来全国各地から申請殺到し農商務省山林整理局の技手現地調査現れたのは、明治33年1890年9月であった。この時、白鳥荒川村長を退任していたので、後任村長櫻田文吉高田村奥崎義郎村長白鳥の3人で幕田繁治技手案内した村長退任した白鳥は、再三上京して関係当局訪ね陳情繰り返していた。また、その頃政界引退していた父・慶一も明治36年1893年1月に「東奥の野民慶一謹て明公閣下に言す」で始まる建白書内閣総理大臣伯爵桂太郎呈した(『荒川高田山林勝訴録』)。そして再び同年6月2度目村長就任した2度目調査白鳥村長就任した翌月29日農商務省山林局役人2人小木利金太、柳沢鹿之助)と青森大林区署員ら10名程が4日間に渡って行われた。この調査結果白鳥らは大い期待したまた、8月5日、父・慶一は、内務大臣児玉源太郎面談し、「今日所謂模範町村山林原野所有シ克ク之ヲ利用スルモノナレバ速ニ山林原野ノ下等々励行セザルヲ得ザルヲ述ベ又将来文化進歩ニ連レ公有林造成ノ必要ナル所以ヲ説」いたところ、児玉大い同感したと言う(『荒川高田山林勝訴録』)。期待膨らむ中、12月19日農商務大臣男爵清浦奎吾署名で山林下戻不許可指令伝達された。 白鳥その時心情自著荒川高田山林勝訴録』(明治44年1911年1月)で次のように記している。 「此ノ紙一枚如何ニ我両村民嘆息セシムルヤ 如何ニ我々両村長煩悶セシム可キヤ 如何ニ余ヲシテ多年日月ヲ消シテ発憤奔走憤慨長息セシムルヤ 如何民業発展ヲ害シ東奥山河ヲシテ長ク不毛地タラシムルヤ」 「官衙取扱官吏執務振ハ何レモ民人ノ利便第二トシテ官海ノ便ヲ第一トシ 民界ノ公利ヲ顧ルヲ第二トシテ官辺ノ利ヲ第一トシ 躊躇逡巡曖昧不問シ 名ヲ官令法規ニ仮リテ徒ニ長日月ヲ消シ 下戻法案等精神没却スルヤ久シ 其一回誤リテ官有トナルモノハ数十年間ニ渉ルモ容易ニ民間復帰セザルノミナラズ 今ノ立憲文明ノ民人ヲシテ封建時代未開ノ時ヨリモ不幸ニ沈マシメントスル処ナキニアラザルナリ」 白鳥は、苦心して集めた証拠書類から推察して申請却下納得出来ず清浦商務相を相手取って行政訴訟起こす事を高田村長と相談して決めた荒川村会と高田村会は白鳥訴訟代理人決定する議決をするものの、提訴踏み切ることが出来なかった。問題解決まで長期化予想される事、山林下戻の裁判での弁護士費用相場山林全体半分と非常に高額である事などがその理由であった実際同様の訴訟蓬田村八戸弥太郎村長身代潰したその様巨額訴訟費用捻出できない荒川村高田村は、白鳥義侠をもって訴訟費用一切負担する様に依頼した条件として勝訴暁にはともそれぞれ10分の1山林を、その代償として白鳥与えることを議決した白鳥は、訴訟代理人引き受け代理人となった上訴費用最小限止める為、弁護士への依頼止め一切自身で当たる覚悟決めた白鳥一切費用自弁し、書類作成も自らが行った。 こうして明治37年1904年4月8日行政裁判所提訴した白鳥は、津軽藩統治時代から薪炭を取る山は村民共有として検地水帳記されていること、検地水帳民有地定めており藩の管理するものは一切記載がないこと、貞享絵図面薪炭を取る山がどこにあるかが記されていること、国有土地森林原野下戻法第2条公簿や公書に記載のあるものは下戻すべきと明記しており、検地水帳津軽藩台帳であり、現在青森県公簿であること、その公簿絵図面付帯してあること、にもかかわらず下戻が許されないのは地方自治のため、国家のために悲しいことだと述べた訴訟踏み切った頃、県会議員になっていた白鳥県会に諮り、山林払下げに関する建議書を県知事から農商務大臣提出させた。その内容は、青森県林業奨励し町村基本財産造成させるため、管内官有林野の下戻や払下げの必要を説いたものだ。このことは、白鳥が単に荒川高田問題としてのみならず、青森県全体問題として捕えていたことを物語っている。 明治40年1907年10月白鳥東京行政裁判所から口頭審問呼び出し受けた。『荒川高田山林勝訴録』にはその時陳述模様述懐されている。 「青森県就中私ノ東津軽郡官林反別最モ広大ニシテ凡ソ二十五万二三千町アリ 此内旧藩時代ヨリ民有ノモノアルモ明治九年山林原野丈量ノ際ニ不注意ニモ当時検査吏ニ任セタリ 然レドモ人民漫然放任シタルニアラズ 丈量検査後ノ五ヶ年毎ニ改正アルベシトノ語ヲ信ジ且ツ地税ヲ恐レタルニ因れり 而シテ我県ハ最モ粗漏ニ最モ迅速メ僅カ一ヶ年測量ヲ済シタリ 他県ハ二年三年ヲ要シタリト聞ク 是等今日地方人民疾苦原因ニシテ誠ニ憫諒スベキモノナリ 之ヲ以テ我郡ノ官林ハ単ニ一郡ノミニテモ中国五県ノ官林匹敵セリト」 次いで12月第2回口頭審問開かれ白鳥病中であった新発見証拠書類持って上京した。翌41年2月第3回口頭審問呼び出しがあった。この時に問題になったのは野沢村検地水帳だった。白鳥1時間にわたり疑義を解くべく陳述した問題になったのは酸ケ湯付近の山だったが、白鳥は、温泉は現に民有であり、粗末だ客舎設けて営業し税金納めていることをたてに陳述した。この時の行政裁判所長官山脇玄の模様を『荒川高田山林勝訴録』に白鳥記している。 「長官ハ余ヨリ水帳ヲ更ニ取上一見シテ曰ク 成程………成程此ノ出湯所ハ民有ナル可シトテ大ニ首肯セラル」 その結果2月27日宣告が行われ、勝訴となった3月6日には書面送達された。これによって荒川高田村民は、寒水沢・矢別沢など15,065町歩取り返したのである4月18日高田村会は村長奥崎義郎名で白鳥感謝状贈って勝訴喜んだ。ところがこの面積は、先述杜撰な調査よるもので、実際は2千町歩強であった。この取り返した山林は、現在では荒川地区高田地区財産区として管理されている。 また、下湯ダムには白鳥の顕彰碑が、青森市立荒川小学校には胸像建てられている。

※この「山林下戻」の解説は、「白鳥鴻彰」の解説の一部です。
「山林下戻」を含む「白鳥鴻彰」の記事については、「白鳥鴻彰」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「山林下戻」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「山林下戻」の関連用語

山林下戻のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



山林下戻のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの白鳥鴻彰 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS