黒田長政
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黒田 長政(くろだ ながまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。筑前国福岡藩初代藩主。
注釈
- ^ 不破矢足邸跡は五明稲荷社となっており、現代にいたるまで松寿丸(長政)が匿まわれた時に植えたといわれるイチョウの木が残っていたが、腐食による倒木のおそれから2016年2月に伐採され、新たに若木を育成している。[4][5]
- ^ 身代りとして松寿丸の遊び相手の首を差し出すことにより松寿丸自身の命は助かった。この身代りの親に対し、如水親子は後に扶持を与えている。この信長に対する処刑確認、いわゆる首実検の際、身代りの首を信長の前に届ける使者となったのも不破矢足であった。
- ^ のちに長政は不破矢足を召し抱えようとするが、矢足自身はこれを固辞し、矢足の長男が福岡藩士となる。
- ^ この際、信長は松寿丸の処刑を命じたことを悔やんだと伝えられ、また、松寿丸が生きていたことを知らされて安堵したと伝わる。
- ^ 小豆島の「大坂城石垣石切丁場跡」は、石切丁場としては初めて、国の史跡に指定されている。
- ^ 基次にはこの件以外にも長政の命令を軽視した逸話が数多く残っている。
- ^ 井上庸名(つねな)は井上之房(九郎右衛門)の子でのちに徳川旗本に転身。異母妹達が大名家に嫁いでいるので、不憫に思った長政は遺言で2,000石の化粧領と母・光(菊の祖母)の財産は全て菊に渡すよう命じている。(黒田文書)
- ^ 黒田文書[要ページ番号]によれば、当初、徳姫は徳川家光の正室になる旨、準備されていたという。母・栄姫と家光生母のお江与との交換書簡にその記述が残っているが、何らかの理由で中止になり家光は五摂家の鷹司家から正室を迎えた。
出典
- ^ a b c 『黒田家譜』
- ^ “黒田長政と後藤又兵衛の嫉妬と敵がい心の効用”. 東洋経済オンライン (2020年7月28日). 2020年7月28日閲覧。
- ^ 金子堅太郎『黒田如水伝』博文館、1916年。
- ^ 岐阜県不破郡垂井町文化財アーカイブ
- ^ “さよなら大イチョウ”. 読売新聞. (2016年2月10日)
- ^ 吉永 1997, pp. 258–286.
- ^ 吉永 2000, pp. 276–290.
- ^ 『懲毖録』
- ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年、103頁。
- ^ 福田千鶴「大坂冬の陣開戦までの西国大名の動向―黒田長政・島津家久を中心に―」『九州文化史研究所紀要』59号、2016年。
- ^ ふるさと人物誌18 黒田52万石を救った 「栗山 大膳」(くりやま だいぜん)
- ^ 渡邉 2013.
- ^ 『黒田如水』 - 国立国会図書館デジタルコレクション p216
- ^ 『黒田如水伝』 - 国立国会図書館デジタルコレクションp530-531
- ^ “「やり過ぎたと思うくらい暴れん坊」 岡田准一、ラスト「軍師官兵衛」を語る”. 産経新聞社 (2014年11月25日). 2021年1月4日閲覧。
- ^ 本郷和人「戦国武将のLOE」『週刊文春』1月1日号、2014年。
- ^ “光雲神社公式ホームページ”. 光雲神社. 2022年4月6日閲覧。
- ^ “悪のウルトラマン・ベリアルも登場! “ウルフェス前夜祭”をレポート!!”. 電撃オンライン (2009年7月23日). 2019年5月28日閲覧。
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