制度の沿革(日本)
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日本で明治31年(1898年)に施行された民法(明治民法)の相続編の下では、家督相続が相続法制の主役であった。家督相続とは、西欧の家父に相当する「戸主」が家庭の財産を一手に所有することを前提に、戸主の地位及び財産を家督相続人が包括的に承継するという方式である。家督相続人は親族関係のない他人から選定することも可能であったため(982条)、家督相続人となるべき者が見当たらないという事態は生じにくかった。戸主以外の者の財産が承継される遺産相続でも、他に相続人がいないときは戸主が相続人となったため(996条)、相続人が見当たらないという事態も生じにくかった。 それでも相続人の不存在は生じ得るので、臨時法制審議会は昭和2年(1927年)の「民法相続編中改正ノ要綱」において、相続財産管理人が家事審判所の許可を得て前戸主と特別の縁故のあった者又は神社・寺院に対して相当の贈与をする制度の創設を提案した。昭和15年(1940年)に整理された「人事法案(仮称)第二編相続編」344条は、この要綱に沿って立案された。しかし、これらの提案は戦局の悪化により立法されなかった。 終戦後に改正された日本民法の相続編は戸主制度を廃止し、相続人の範囲を比較的狭い範囲に限定したため、旧規定に比べれば相続人の不存在が多く生じ得ることになり、戦前の提案が具体的に立法された。被相続人と生計を同じくしていた者、被相続人の療養看護に努めた者、その他被相続人と特別の縁故があった者が請求し、家庭裁判所が相当と認めるときが対象となる。 日本における相続財産分与の年間申立件数は、昭和40年(1965年)には189件、昭和60年(1985年)でも369件にとどまっていた。しかし、遺言やその代替としての民事信託の普及が遅いことと、少子高齢化の急速な進展(少子高齢化により、子も配偶者も親きょうだいもいない死亡者が増加する。)とに伴って、相続人のいない無遺言相続が急激に増加した。相続財産分与の年間申立件数も、平成17年(2005年)には822件となり、平成27年(2015年)には1,043件に増加した。
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制度の沿革(韓国)
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韓国における経過も日本と似ている。すなわち、日本の植民地時代の韓国では、朝鮮民事令1条により日本民法が「依用」されていたため、日本と同様の相続制度が行われていた。 韓国は1945年に独立を回復し、1960年に民法を制定したが、戸主制度は血統を重視する韓国人の価値観と整合的であったために維持され、戸主となる相続人を他の相続人より優遇することにしたほか、8親等内という非常に広い範囲の親族に相続権を認めていた。 しかし、1990年の民法改正により戸主の優遇は廃止され、相続権を有する親族の範囲が4親等内に縮小され、同時に特別縁故者の制度が導入された。
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制度の沿革
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1981年(昭和56年)商法改正では、株式の出資単位を5万円に引き上げた(単位株)。同改正前は出資単位が500円であったため、一株に満たない端数の価値は微々たるものであったが、同改正により端数の経済的価値も無視できないものとなった。そこで同改正では、同時に端株制度についても規定し、一株に満たない端数で、一株の100分の1の整数倍に当たるものに限り、端株として一定の保護を与えることにした。つまり、端株制度は出資単位引き上げによる株主管理コストの軽減と端株主の保護の調整のための制度である。 2001年(平成13年)6月の商法改正では、株式の出資単位を法が強制することをやめたため(単元株)、端株制度を採用するかどうか、採用する場合に端株として認める端数をどう定めるかは会社ごとの判断(定款自治)に委ねられることになった。 さらに、2005年(平成17年)の商法改正では、端株制度を廃止することにした。これは、制度趣旨が単元株制度と共通していることから、現実に多く使われている単元株制度に一本化したものである。従って、会社法に端株についての規定は存在しない。もっとも、会社法234条、235条は一株に満たない端数の処理について規定しているが、制度としての端株は無い。ただし、冒頭でも述べたように、会社法施行前から存在する端株については、会社法施行後においても存在が許され、その処理についてはかつての商法旧会社編の規定が適用されることになる(会社法整備法86条1項)。
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制度の沿革
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家庭裁判所調査官の前身は少年保護司(しょうねんほごし)である。少年保護司は、大日本帝国憲法の下で制定された少年法(旧法)に基づき、少年審判所に置かれていた。日本国憲法の制定に伴う制度改革の一環として家庭裁判所が発足すると、家事調査官、家事調査官補、少年調査官、少年調査官補の職制が設けられた。裁判所法の一部を改正する法律(昭和29年法律第126号、1954年)によりこれらの職制が統合されて、家庭裁判所調査官、家庭裁判所調査官補の職制が設けられた。
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制度の沿革
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「アメリカ合衆国国定歴史建造物」の記事における「制度の沿革」の解説
「歴史地区法」(英語)が議会で可決する以前は、国家が指定すべき価値のある文化遺産の保護をアメリカ合衆国議会が担当し断続的に取り組んでいた。1935年に議会で同法が成立すると、内務長官に権限を与え、歴史遺産の公的記録と整理および「国家の歴史にとって意義がある」ものの指定を許可し、歴史的に重要な連邦所有財産の管理は国立公園局に割り当てた。 その後、数十年にわたり史跡調査などの事業により、アメリカの歴史的建造物調査(英語)を行って文化的あるいは建築史的に特徴のある文化財を選別してきた。この法制により登録された文化財は国定史跡(英語)に指定され、1935年12月20日指定の第1号はミズーリ州セントルイスにある国定記念物(英語)の ジェファーソン・ナショナル・エクスパンション・メモリアル (当時の名称はジェファーソン国定エクスパンション記念公園) である。また国定史跡の第1号はセーラム海事国定史跡(英語)である(1938年3月17日指定)。 法制による調査データの管轄がアメリカ合衆国国立公園局に移管された1960年10月9日から、国定史跡制定事業がさらに正式な手続きを踏むようになる。やがてその事業の一部としてアメリカ合衆国国家歴史登録財の選出規準と指定手続きが1966年10月9日に正式に発効、フレッド・シートン内務長官(英語)により即日92ヶ所が指定された。この最初期の指定対象にはアイオワ州スーシティのルイス・クラーク探検隊フロイド隊員の埋葬地(英語)など、政治的な思わくが反映しており、登録日は同年6月30日だがさまざまな理由により数件のNHL登録は遅れて公表されている。いずれにしても登録 (NHLでも歴史登録財でも) により地域行政の文化財保護条例に影響を与えるため、1980年には登録手順を改訂し、所有者の同意を得ることが義務化された。
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制度の沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/22 09:31 UTC 版)
ほとんどの法域で、相続の開始時に相続人や受遺者となるべき者が見当たらないときは、無遺言で死亡した被相続人の財産を原則として国庫(財産主体としての国家)その他の公共団体に帰属させるという制度が採られている。 日本法(民法959条)及び韓国法(民法1058条1項)も同様の制度を採っているが、日本法は昭和37年(1962年)に、韓国法は1990年にそれぞれ特別縁故者の制度を導入した。これらの法改正は、いずれも相続人の範囲の縮小を契機としている。
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