公民権運動の拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 02:35 UTC 版)
「エメット・ティル」の記事における「公民権運動の拡大」の解説
ともかくも、「ティルの死と裁判」は、世界中に抗議の炎と火の粉を撒き散らした ... ミシシッピーの人種差別に世界的スポットライトの閃光を投げかけ、全世界に非難の嵐を巻き起こしたのは、殺人に巻き込まれたこの14歳の訪問者だった。 マイリー・エヴァース(英語版) ティルの事件は、常に注目を受ける様になり、南部に於いて、黒人差別に対する正義の象徴となった。1955年、「シカゴ・デフェンダー(英語版)」は、大勢への投票を呼びかけ、無罪判決に反対する様、読者に訴えた。メドガー・エヴァーズの未亡人、マイリー・エヴァーズ(英語版)は、「なぜなら、我々黒人は、たとえそれが子供でも人種差別と偏狭さと死の危険にさらされていると全国的に公表されたので、このティルの事件は、黒人と白人の両方共、特に白人コミュニティーを含むミシシッピーの基盤を震えあがらせるほど強く共鳴している」と述べている。NAACPは、メイミー・ティル・ブラッドレーに、彼女の息子の人生、死と裁判の事実について、全国を回る講演旅行ツアーに参加するよう要請を行った。このツアーは、NAACP のキャンペーン企画の中でも特に成功した物だった。ジャーナリストのルイス・ローマックス(英語版)は、ティルの死が「黒人の反乱」の始まりの時と認識し、また学者クレノラ・ハドソン-ウィームズは、ティルを黒人の公民権獲得の為の「犠牲」として描写している。NAACP責任者、アムジー・ムーア(英語版)は、ティルを、少なくともミシシッピーに於ける公民権運動の始まりと考える。1987年、エミー賞を受賞した14時間のドキュメンタリー「Eyes on the Prize」、とこれに関連する読書資料「Eyes on the Prize」と「Voices of Freedom」は、公民権運動に関する重要人物を詳細に取り上げており、全ての動きは、エメット・ティルの殺人から始まる。さらにスティーブン・ホイッティカーは、ティルの死と裁判の結果起こった事を以下の様に述べている; ミシシッピーは、典型的な人種差別と白人優越論の砦として国中の視線が集まった。この時以降、僅かな人種問題に起因する事件は、国中のどこでもスポットライトを照てられ、広く知らしめられる様になった。南部及び国内周辺の黒人にとって、この評決は、ノブレス・オブリージュの終焉を意味した。白人権力側に対する信頼は、急速に弱まって行った。 法規主義に対する黒人の信頼は弱まり、そして、アラバマ州モンゴメリーの「バス・ボイコット事件」を期に、黒人の反乱は1955年12月1日に公式に始まった。 モンゴメリーに於いて、ローザ・パークスは、白人のバス乗客に彼女の席を譲る運転手の要求を拒否し、「バス・ボイコット運動」において一年間に渡る草の根運動を展開し、最終的に市側の人種隔離政策を撤廃させる事に成功した。後にパークスは、立ち上がって後部に移動するのを拒否した時「私はエメット・ティルについて考えました。その時、私は後ろに下がる事が出来ませんでした」と語っている。歴史家クレイボーン・カーソン(英語版)によれば、ティルの死と1957年のリトルロック高校事件を期に、特に若い黒人層の中にある不満を表明する、初期の単独の抗議と言う形で、1960年代の座り込みと言うデモンストレーションが生まれて行った。 ティルのひどく損壊された遺体の写真を見た後、ケンタッキー州ルイビルにいた若き頃のカシアス・クレイ(後の有名なボクサーモハメド・アリ)と友人らは、彼らの欲求不満のはけ口に、地元の列車車両庫を破壊し、機関車エンジンを走行不可能にした。 1963年、サンフラワー郡の住民(小作人)だったファニー・ルー・ヘイマーは、選挙のために登録しようとして投獄され、警察から拷問を受けた。翌年、彼女は「フリーダム・サマー・キャンペーン(英語版)」を主催し、積極的にデルタ地域を回り、黒人住民に対し選挙登録への推進運動を行った。1954年以前は、デルタ地域に於ける黒人の人口が40パーセントを占めていたにもかかわらず、僅か265人の黒人が選挙登録していたのみだった。エメットが殺害された年の夏は、デルタ地区の黒人は一人も選挙登録をしていなかった。 1964年、「フリーダム・サマー」は、63,000人の黒人の有権者を登録するに至った。だがミシシッピー州内の既成政党に加わる事は禁じられていたので、彼らは自身の政党を設立する必要性が生じた。 エメット・ティルの物語は、20世紀後半で最も重要な出来事の1つです。 そして、重要な要素は、棺でした .... それは、我々が痛みを感じて、失われたものを理解して、物語を語ることができる対象です。私がそう感じたように、人々にも感じて欲しい。 人々に感情の複雑さを感じて欲しいと思います。 ロニー・バンチ3世(スミソニアン・アフリカ系アメリカ人歴史博物館(英語版)) ティルは、今もなお、文学芸術において、そして様々な形の祈念として、人々の注目を集めている。1976年、エメットを記念する銅像の除幕式がデンバーで行われ(像は、その後プエブロ (コロラド州)に移された)、ティルとマーティン・ルーサー・キング・ジュニアが共に歩く姿を見る事が出来る。ティルの名は、公民権運動に命を捧げた40人の内の一人に加えられ(殉教者とみなされ)、1989年に完成した、アラバマ州モンゴメリーの公民権運動記念碑(英語版)にその名前が刻まれている。1991年には、シカゴ市内71番通りの7-マイル (11 km)に渡り、「エメット・ティル通り」と命名された。メイミー・ティル・ブラッドレーは、血の日曜日事件の35周年祈念式典を含む様々な祈念イベントに出席した。後にメイミーは、彼女自身の思い出を書いている;「エメットが生きている間に出来なかった重要な事を、死において成し遂げたと、私は理解します。それでも、私はエメットに殉教者であって欲しいと思いませんでした。ただ、良い息子であって欲しいだけでした。それほど多くの人々の犠牲によって成し遂げられ、成し得たすべての大きな成果を私自身は理解しましたが、本当はもっと別の方法でそれを成し遂げる事が出来たら(良かった)と言う事を、私自身は願っていた事に気が付きました」 ティル・モブリーは、2003年に死去し、同じ年、彼女の回顧録が出版された。 かつてティルが在籍したシカゴの「ジェームズ・マッコッシュ小学校」は、2005年に「エメット・ルイス・ティル数理アカデミー」(Emmett Louis Till Math And Science Academy)と名前が変更された。「エメット・ティル記念ハイウェー」は、ミシシッピーのグリーンウッドとタトワイラー(英語版)の間、ティルの遺体がシカゴに向かう駅まで通じるルートに開通した。そしてそれは、「クラレンス・ストライダー・記念ハイウェイ」と交差している。 2007年、タラハシー郡は、ティルの家族に対し、公式な謝罪を行ない、次の様に宣言した; 「我々タラハシー郡の住民は、エメット・ティルの裁判が、大変な誤審であった事を認めます。我々は、正しく正義を追求する事が出来なかった事について、申し訳なく思います。」 同じ年、ジョージア州議員で、1965年のセルマの行進の際に殴られ、頭蓋骨を骨折したジョン・ルイスは、公民権闘争時代の未解決の殺人事件を調査し、遂行するための計画を後援する為のスポンサーとなった。「2007年エメット・ティル、未解決の市民権犯罪行為に関する法律」は2008年に成立した。 2009年7月9日、バー・オーク墓地の遺体を掘り起こし、遠方地域に投棄した後、墓地区画を再販する計画を立てたとして、墓地のマネージャーと3人の労働者が告発された。ティルの墓に被害は無かったが、ティルの以前のガラスの蓋が付いた棺が倉庫で荒れ果てて放置されているのが発見された。ティルが2005年に新しい棺で再度埋葬された時、(既に)エメット・ティル記念博物館の構想が上がっており、そこに彼の元の棺が設置される予定であった。その記念博物館の為の募金の管理をしていた墓地マネージャは、その寄付金を横領した。どの位の寄付金が横領されたかは不明である。変色した棺、破れた棺内装の生地、その中でうごめいている生物、それらの確認を墓地管理局も怠ったが、ガラスのふたは無傷だった。その1ヵ月後、ワシントンD.C.のスミソニアン・アフリカ系アメリカ人歴史博物館(英語版)は、ティルの棺を入手した。館長のロニー・バンチ3世(Lonnie Bunch III)は、「それは将来、来訪者を(その前に)立ち止まらせ、考えさせる重要な展示物になるだろう」と述べている。
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