公民権運動およびそれ以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 18:23 UTC 版)
「ヴァンダービルト大学」の記事における「公民権運動およびそれ以降」の解説
1950年代後期、ヴァンダービルト大学神学校でも公民権運動が騒がれるようになり、改革のリーダーの1人ジェイムス・ロウソンが退学させられた。2005年、ロウソンは2006年から2007年の年度に殊勲教授として雇用され、彼の功績を称え殊勲卒業生に名を連ねることとなった。 1966年、南東カンファレンスで初のアフリカ系アメリカ人選手ペリー・ウォレスを入学させたことで全米の注目を集めた。ナッシュビル出身のウォレスは1967年から1970年の間、ヴァンダービルト大学のバスケットボール・チームで活躍したが、南東カンファレンスの他のチームとの対戦では人種差別に直面した。2004年、学生主導でウォレスのジャージを手に入れることができた。大学内で人種の統合が課題となっていた1955年から1968年、ハロルド・スターリング・ヴァンダービルトが評議会長を務めていた。現在、彼の功績を称え、彼の彫像がバトリック・ホール前に立っている。 1966年、オーバリン大学神学部大学院がオハイオ州からナッシュビルに移転し、ヴァンダービルト大学神学校と合併した。1979年、近隣にあったピーボディ大学を吸収合併。 2002年、ピーボディのキャンパス内にある記念的建物である学生寮のコンフェデレイト・メモリアル・ホール(南部連合記念館の意)の名称変更を決定した際、ヴァンダービルト大学の歴史、人種、公民権運動を思い起こさせる問題が最前線に浮上した。1933年にこのホールの建設のために5万ドルを寄付した、南部連合関係者、その家族や子孫の女性で構成されるUnited Daughters of the Confederacy のテネシー支部が起こした裁判によって全米の注目を浴びた。 2003年、デイヴィッドソン郡衡平法裁判所はこれを退けたが、2005年5月、テネシー高等裁判所は、コンフェデレイト・メモリアル・ホールの名を示すものがこの建物から取り除かれたり変更されたりしようとも、大学はDaughters of the Confederacy が寄付した金額を現在の貨幣価値に換算して損害賠償を支払うべきだとした。 2005年7月、大学は公式にこのホールの名称を変更し、大学の全ての出版物や事務所などでも単に『メモリアル・ホール』とすることを発表したが、これを大ごとにすることも、既に印字された名称を取り除くことも損害賠償を支払うこともない、とした。
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