公民権運動組織
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「アメリカ合衆国の歴史 (1945-1964)」の記事における「公民権運動組織」の解説
公民権運動は白人の支持者や同調者もいたが、アフリカ系アメリカ人によって考案され、導かれ、組織化され、参加された。彼らは自らとその家族を自由への闘争の前線に置いた。その英雄的行動は新聞そして後にはテレビを通じてアメリカ中に報道され、平和的な行進やデモが警官に暴力を使って攻撃される様子が流れた。警官は警棒、鞭、消防ホース、警察犬を用い、抗議者を脅すために大量の逮捕が行われた。この運動の第2の側面は1人ないし2人の男に導かれるような、一枚岩のものではなかったことだった。むしろ分散した草の根運動であり、多くの異なる戦術を使って多くの場所で人種差別を攻撃したことだった。 公民権運動の中でマルコムXのような特定集団や個人はブラックパワー、黒人の分離主義あるいは武装抵抗ですら唱導した者がいたが、運動参加者の大半は政治的利点を得るために暴力を控えることを虐げられた少数派の慎重な決断であるとした非暴力の原則に徹したままだった。公民権運動家は非暴力戦略を使って、当時普及しつつあった全国ネットワークの報道、特にテレビを味方に付け、国民の注意を惹きつけ、合衆国議会とホワイトハウスの関心を呼んだ。 この運動の中で黒人教会の指導的役割はその組織構造と機能の自然な拡張に繋がった。彼らは社会で否定されている役割を行使する機会を教会員に提案した。黒人教会はその歴史を通じて礼拝の為の場所として機能し、さらには地域社会の「掲示板」、信用組合、論争を裁く「人民裁判所」、支援集団、および政治活動の中心としても機能していた。これらの機能が牧師の重要性を高めた。公民権運動の中で最も著名な牧師がマーティン・ルーサー・キング・ジュニアだった。キングは雑誌「タイム」で1963年の「パーソン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれた。黒人の自由のために疲れを知らぬ行動と強い指導力で世界的な評価を得、1964年のノーベル平和賞まで勝ち取った。 南部でも北部でも学生や生徒が公民権運動のあらゆる段階で重要な役割を担った。教会と学生に指導された運動はその組織と持ち堪えさせる構造を発展させた。1957年に設立された南部クリスチャン指導者会議が大半は北部からの資金集めを行い、地方での抗議と黒人指導者の養成に宛てた。同じく1957年に設立された学生非暴力調整委員会は「ジェイル・ノー・ベイル(刑務所、保釈金無し)」戦略を発展させた。学生非暴力調整委員会の役割はシットイン運動を発展させ互いを結びつけること、フリーダムライド、有権者登録運動などの抗議運動の組織化を援けることだった。これら新しい組織は既存の組織、例えば1909年設立の全米黒人地位向上協会、1942年設立の人種平等の会議および全国都市同盟などと共同行動を採ることが多かった。全米黒人地位向上協会とその指導者ロイ・ウィルキンスは投獄されたデモ参加者の法律上の相談に乗り、保釈金を集めることに貢献し、その前の半世紀間続けていたような裁判所での人種差別と人種分離に対する判断を仰ぐ動きを続けた。人種平等の会議は1961年のフリーダムライドを始めさせて、それに学生非暴力調整委員会のメンバーを巻き込んだ。その指導者ジェイムズ・L・ファーマーは後に学生非暴力調整委員会の事務総長になった。 ジョン・F・ケネディ大統領の政権は学校や公共施設における人種分離撤廃の強制を支持した。司法長官のロバート・ケネディは黒人系アメリカ人の選挙権を確保するために4つの州で50以上の訴訟を起こした。しかしFBI長官のジョン・エドガー・フーヴァーは公民権運動の中に共産主義者の影響がある可能性を心配し、個人的にはキングに敵対していたので、キングや他の公民権運動指導者の信用を落とすようFBIに仕向けた。フーヴァーのCOINTELPRO計画は情報宣伝、潜入者、暗殺および逮捕という手段で反体制派政治組織を妨害することを目しており、公民権運動はその主要な標的にされた。
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