公民権運動時代とコールドケース
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/13 20:57 UTC 版)
「ナチェズ (ミシシッピ州)」の記事における「公民権運動時代とコールドケース」の解説
1960年代初期、公民権運動が幾らかの成功を収めて、ジェームズ・メレディスが黒人として初めてミシシッピ大学入学を認められたが、ナチェズは人種統合に反対するクー・クラックス・クラン活動の中心となり、1965年に最大のクラン組織となったユナイテッド・クランズ・オブ・アメリカのグランド・ドラゴンであるE・L・マクダニエルが、ナチェズのメインストリート114に事務所を開いた。1964年8月、マクダニエルはナチェズでユナイテッド・クランズ・オブ・アメリカの支部を設立し、アダムズ郡市民改善協会の名前の影に活動していた。 フォレスト・A・ジョンソン・シニアは暴力行為があったにも拘わらず、ナチェズで尊敬される白人弁護士であり、クランに対して反対する発言をし、記事を書き始めた。1964年から1965年、「ミス・ルー・オブザーバー」と呼ぶ新機軸の新聞を出版し、毎週クランについて取り上げた。クラン会員やその支持者はジョンソンの法律実務に対して経済的ボイコットを行い、財政的に破綻に近いものにさせた。 . ミシシッピ州主権委員会の調査員で住民の行動を見張っていたA・E・ホプキンスは、1964年10月の報告書で、連邦捜査局がアダムズ郡に大挙入ってきたと記しており、それは次の理由だった。。 この地域で幾つかの教会を焼いたとされ、また幾つかの爆破事件や数人のニグロを鞭で叩いた事件があったので、さらにミードビルのニグロ2人が殺されてミシシッピ川で発見されたこと、ミシシッピ州フィラデルフィアからの公民権運動活動家3人が殺され、連邦、州、地方の警察が捜査していること。 この時までに100人以上のFBIエージェントがフィラデルフィア捜査の一部として地域に居り、不明になっていた公民権運動家3人は殺されてダムに埋められていた。 FBIは人種間暴力を統制下に置こうとした。この時期2年間、ナチェズのFBIエージェントであるビル・ウィリアムズは、2005年のインタビューで、「地域の人種戦争は『決して語られない話』であり、1864年のナチェズは『州にとって、次の数年間のために人種問題と反公民権運動の焦点に』なっていた」と語った。 1965年、教育委員会が人種統合を奨励してから2週間後、ナチェズの全米黒人地位向上協会役人ジョージ・メトカーフが、自動車爆弾で重傷を負った。1967年2月27日、ワーレスト・ジャクソン・シニアが、アームストロング・ゴム会社で働いてから帰宅する途中で、運転していたトラックの自動車爆弾が破裂して殺された。ジャクソンは最近昇進したばかりであり、以前は白人のために「保留」された地位に就いていた。ジャクソンは朝鮮戦争の退役兵であり、結婚し、5人の子供の父であり、黒人地位向上協会では財務官も務めていた。その殺人事件が解決されることはなく、誰も告発されなかった。 1966年、アメリカ合衆国議会下院非米活動委員会が、現在あるいは元クー・クラックス・クランのメンバーだったナチェズ市民のリストを公刊した。それにはインターナショナル製紙工場の従業員70人や、ナチェズ警察署とアダムズ郡保安官部のメンバーも含まれていた。アメリカ合衆国議会下院行動委員会は、ミシシッピ・ホワイト・キャップスなど少なくとも4つの白人至上主義者テロリスト・グループが1960年代にナチェズで活動していたと報告した。ミシシッピ・ホワイト・キャップスは市中に匿名のチラシを配布し、「悪党と雑種」を脅していた。「白人種保存のためのアメリカ人」は1963年5月に、ナチェズ住民9人によって設立されていた。 コットンマウス・モカシン・ギャングはクロード・フラー、ナチェズのクランであるアーネスト・アバンツおよびジェイムズ・ロイド・ジョーンズによって設立された。1966年6月、彼等はナチェズ住民ベン・チェスター・ホワイトを殺害しており、これはマーティン・ルーサー・キング・ジュニア博士を暗殺するためにナチェズに誘き出す計略の一部だったとされている。クラン会員3人が殺人容疑で逮捕され、州によって告発された。それぞれの事件では、圧倒的な証拠があり、ジョーンズの事件では自白まであったが、どの告発も取り消されるか、全てが白人の陪審員団によって無罪とされた。黒人は1890年以来州法によって選挙権を剥奪されており、投票できなかったので、陪審員からは排除されていた。 1964年、ディーとムーアの誘拐と殺人容疑で逮捕されたジェイムズ・フォード・シールは、州地区検察官がこの事件を送付しないと決めた時に釈放された。この事件が2000年以降に蒸し返され、FBIが捜査した。シールは司法省によって逮捕され告発された。2007年に連符裁判所で裁かれ、有罪となった。2011年、76歳の時に連邦刑務所で死んだ。 FBIはナチェズのホモチット国有林にあるプリティ・クリーク近くの国有地でベン・チェスター・ホワイトが殺害されたことがわかり、そのことで管轄権がFBIにあることになった。1999年、事件の捜査を再開し、2000年にアーネスト・アバンツを告発した。2003年にアバンツは有罪となり、終身刑を宣告された。アバンツは2004年に72歳で刑務所の中で死んだ。 2011年2月、インベスティゲーション・ディスカバリー・チャンネルの『不正ファイル』が、公民権運動時代に関わるコールドケース殺人を3回にわたって報道した。第1話は1967年に殺されたワーレスト・ジャクソン・シニアの話だった。これはFBIとの協業の一部であり、2007年の発案で公民権運動の事件を捜査し告発するために始まっていた。
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