伝承者とは? わかりやすく解説

伝承者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 10:46 UTC 版)

藤織り」の記事における「伝承者」の解説

昭和初期まで1923年大正12年刊行の『与謝郡誌』によると、当時世屋村では、農家副業として6383人が藤織り行い295反を製織して590円を得たとある。 「藤織り最後の伝承者」と呼ばれる故・光野タメによれば小学校卒業後未婚のうちは奉公出て子守りなどをした後、14歳から加悦谷丹後ちりめん機屋奉公出てくだまき」や機織り習った19歳節句嫁入りした当時は、冬の生業が男は炭焼きで女は藤織りであったという。藤織りは母も姑も行い見よう見まね伝承された。 1960~70年代丹後古代織布技術保存会」(与謝郡与謝野町算所1962年昭和37年)に下世屋での藤織り発見受けて土田俊治が地元有志募って結成した藤布保存育成団体梅本スガ織った藤布裁断し標本台紙貼り付けて会員15名に配り、身近で手に触れて理解することから活動第一歩とした。後年その活動は甥の土田耕三に引き継がれ、かつて丹後地方にあった地織縞木綿資料収集江戸期技法復元活動の軸を移している。 「世屋藤布保存会」(宮津市世屋地区保存目的ではなく昔ながら農家副業としての藤布生産・販売藤織り伝承につながるという考えのもと、伐りから藤織りまでのなんらかの工程携わることができる地元集落22名で発足した1969年昭和44年)に丹後地方出身京友禅染匠契約宮津農協下世屋支所経由して茶室座布団用の藤布生産・出荷し、1971年昭和46年)には年間18反を生産して1反10万円で取引されて、活気づいた。しかし生産意欲高まり、わずか2年後1973年昭和48年)に17名で織りあげた藤布年間50反を記録する価格急落、1反6万円にまで値崩れした1976年昭和51年)には19反、1977年昭和52年)には7反と、商業活動そのまま低迷し1981年昭和56年)には農協経由した販売幕を閉じた1975年昭和50年前後藤織り行っていたのは丹後地方全体1316名ほどだった。 1980年代1980年昭和56年)頃、藤織りができた人は7~8人、いずれも7080歳代の高齢者で、江宮てふ及び小川ツヤが一番の経験者だった。 1990~2000年代丹後藤布振興会」 丹後藤織り京都府伝統工芸品の指定を受けるため、2000年平成12年)に発足する。約30名が会員となり、現代感覚藤織り商品化すすめている。 2018年現在丹後藤織り保存会」(宮津市上世屋1989年平成元年発足。代表は、元京都府立丹後郷土資料館学芸員藤織り調査研究にも携わった井之本泰。わずか数人にまで織り手減らしていた「丹後藤織り」の保護団体として、1泊2日で年7度実習藤織りの全工程を学ぶ講習会などを通して伝承活動を行う。第1回目講習会は、保存会発足前の1985年昭和60年6月に、藤織りを生活の一部として行っていた最後の世代である小川ツヤ及び光野タメ指導者として、京都府立丹後郷土資料館主催開催された。講習10回頃までは世屋藤織り世代おばあさん達が指導できたが、その後初期から参加している保存会会員講師務める。2010年平成22年)に廃校となっていた旧日中学校世屋上分校を「藤織り伝承交流館」として再生し講習会場や作品展示会場として活用するほか、にほんの里100選数えられる上世屋棚田などの見学者交流の場地域文化発信拠点として活用している(毎週土曜日午前9時~12時及び午後1時~4時開館)。2013年平成25年サントリー地域文化賞受賞。 「芙留庵」(与謝郡与謝野町明石与謝野町唯一藤織り技術継承藤布商品化取り組む工房。代表の加畑四郎は、1972年昭和47年)頃から、当時世屋藤織りをしていた10名ほどから売れなくなった藤布糸を毎年買い取ることで世屋藤織り存続尽力し同時に自らも技術継承する1979年昭和54年)頃から創作性加えた新たな藤布発表、さらにインテリアなどの新たな分野開拓進めた現代藤布第一人者丹後藤布振興会長その他の職人小西暢子。 「遊絲舎」(京丹後市網野町下岡京丹後市唯一藤織り技術継承藤布商品化取り組む工房。代表の小石原将夫が1980年代上世屋から技術継承、「丹後藤織り保存会」にも関わる丹後藤織り保存会丹後藤布振興副会長海外等への藤織り紹介や、藤織り体験ワークショップ(要予約)などの普及活動行っている。藤織り製品としては能衣装などを製作。経糸に絹と金糸、緯糸糸や染めた紬糸用いた創作帯地「布爾織里(ふじおり)」は、他産地類のないものと高く評価され丹後帯地第一号に認定されている。その他の職人小石原充保、白岩光子。 「手織り工房 凪」(宮津市溝尻丹後藤織り保存会の主要メンバー1人である坂根博子が、藤織り継承目的とする製織教室ワークショップのために2018年平成30年)に立ち上げた

※この「伝承者」の解説は、「藤織り」の解説の一部です。
「伝承者」を含む「藤織り」の記事については、「藤織り」の概要を参照ください。


伝承者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 10:46 UTC 版)

藤織り」の記事における「伝承者」の解説

山陰地方近代藤織りは、まず鳥取県興りそののち島根県伝わった考えられている。 1964年昭和39年)に発表され石塚尊俊の「山陰における藤布技術伝承によれば、この時点健在だった藤織り経験者は、鳥取島根両県あわせて11名、慶応3年明治33年生まれまでの老婆だった。 1967年昭和42年8月時点で、藤織り経験者は、4名にまで数を減らしている。ただ、農家仕事家族ぐるみ分担するのがふつうであるから藤織りの全工程一貫して成し遂げる技術はもたなくとも、部分的な作業行える人は、この時点ではまだ大勢いたと思われる

※この「伝承者」の解説は、「藤織り」の解説の一部です。
「伝承者」を含む「藤織り」の記事については、「藤織り」の概要を参照ください。


伝承者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/03/21 04:53 UTC 版)

程派八卦掌」の記事における「伝承者」の解説

著名な伝承者として長男の程有龍、次男の程有信、甥の程有功孫家拳を開いた孫禄堂李文彪などがいる。

※この「伝承者」の解説は、「程派八卦掌」の解説の一部です。
「伝承者」を含む「程派八卦掌」の記事については、「程派八卦掌」の概要を参照ください。


伝承者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/19 08:58 UTC 版)

尹派八卦掌」の記事における「伝承者」の解説

著名な伝承者として、馬貴、宮宝田、門宝珍、何金奎、尹玉章息子)などの名が知られている。

※この「伝承者」の解説は、「尹派八卦掌」の解説の一部です。
「伝承者」を含む「尹派八卦掌」の記事については、「尹派八卦掌」の概要を参照ください。


伝承者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/20 10:22 UTC 版)

陳家太極拳」の記事における「伝承者」の解説

17代目 陳発科(ちん はっか、陳 發科1887年 - 1957年達人陳氏太極拳正宗家系で、陳長興曾孫清国河南省温県陳家溝の出身1928年に、請われ北平北京)に出向き陳家溝の武術陳氏太極拳の大系統)を指導する18代目 陳照旭ちん・しょうきょく、1909年-1960年) 父は陳発科息子は陳小旺。河南省温県陳家溝の出身最後第五功夫と言われる1960年反右派闘争で、収容施設脱走しようとして射殺されている。

※この「伝承者」の解説は、「陳家太極拳」の解説の一部です。
「伝承者」を含む「陳家太極拳」の記事については、「陳家太極拳」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「伝承者」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


このページでは「ウィキペディア小見出し辞書」から伝承者を検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書から伝承者を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書から伝承者 を検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「伝承者」の関連用語

伝承者のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



伝承者のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの藤織り (改訂履歴)、程派八卦掌 (改訂履歴)、尹派八卦掌 (改訂履歴)、陳家太極拳 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS