伝承者
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昭和初期まで1923年(大正12年)刊行の『与謝郡誌』によると、当時の世屋村では、農家の副業として63戸83人が藤織りを行い、295反を製織して590円を得たとある。 「藤織り最後の伝承者」と呼ばれる故・光野タメによれば、小学校卒業後、未婚のうちは奉公に出て子守りなどをした後、14歳から加悦谷の丹後ちりめんの機屋に奉公に出て「くだまき」や機織りを習った。19歳の節句に嫁入りした当時は、冬の生業が男は炭焼きで女は藤織りであったという。藤織りは母も姑も行い、見よう見まねで伝承された。 1960~70年代「丹後古代織布技術保存会」(与謝郡与謝野町算所) 1962年(昭和37年)に下世屋での藤織り発見を受けて、土田俊治が地元有志を募って結成した藤布の保存育成団体。梅本スガの織った藤布を裁断し、標本台紙に貼り付けて会員15名に配り、身近で手に触れて理解することから活動の第一歩とした。後年、その活動は甥の土田耕三に引き継がれ、かつて丹後地方にあった地織縞木綿の資料収集や江戸期の技法の復元に活動の軸を移している。 「世屋藤布保存会」(宮津市世屋地区) 保存目的ではなく、昔ながらの農家の副業としての藤布の生産・販売が藤織りの伝承につながるという考えのもと、藤伐りから藤織りまでのなんらかの工程に携わることができる地元集落の22名で発足した。1969年(昭和44年)に丹後地方出身の京友禅の染匠と契約、宮津農協下世屋支所を経由して茶室の座布団用の藤布を生産・出荷し、1971年(昭和46年)には年間18反を生産して1反10万円で取引されて、活気づいた。しかし生産意欲が高まり、わずか2年後の1973年(昭和48年)に17名で織りあげた藤布が年間50反を記録すると価格は急落、1反6万円にまで値崩れした。1976年(昭和51年)には19反、1977年(昭和52年)には7反と、商業活動はそのまま低迷し、1981年(昭和56年)には農協を経由した販売は幕を閉じた。 1975年(昭和50年)前後、藤織りを行っていたのは丹後地方全体で13~16名ほどだった。 1980年代1980年(昭和56年)頃、藤織りができた人は7~8人、いずれも70~80歳代の高齢者で、江宮てふ及び小川ツヤが一番の経験者だった。 1990~2000年代「丹後藤布振興会」 丹後の藤織りに京都府の伝統工芸品の指定を受けるため、2000年(平成12年)に発足する。約30名が会員となり、現代の感覚で藤織りの商品化をすすめている。 2018年現在 「丹後藤織り保存会」(宮津市上世屋) 1989年(平成元年)発足。代表は、元京都府立丹後郷土資料館学芸員で藤織りの調査研究にも携わった井之本泰。わずか数人にまで織り手を減らしていた「丹後の藤織り」の保護団体として、1泊2日で年7度の実習で藤織りの全工程を学ぶ講習会などを通して伝承活動を行う。第1回目の講習会は、保存会発足前の1985年(昭和60年)6月に、藤織りを生活の一部として行っていた最後の世代である小川ツヤ及び光野タメを指導者として、京都府立丹後郷土資料館の主催で開催された。講習は10回頃までは世屋の藤織り世代のおばあさん達が指導できたが、その後は初期から参加している保存会会員が講師を務める。2010年(平成22年)に廃校となっていた旧日置中学校世屋上分校を「藤織り伝承交流館」として再生し、講習会場や作品展示会場として活用するほか、にほんの里100選に数えられる上世屋の棚田などの見学者の交流の場、地域文化の発信拠点として活用している(毎週土曜日の午前9時~12時及び午後1時~4時に開館)。2013年(平成25年)サントリー地域文化賞受賞。 「芙留庵」(与謝郡与謝野町明石) 与謝野町で唯一、藤織りの技術継承と藤布の商品化に取り組む工房。代表の加畑兼四郎は、1972年(昭和47年)頃から、当時世屋で藤織りをしていた10名ほどから売れなくなった藤布や藤糸を毎年買い取ることで世屋の藤織り存続に尽力し、同時に自らも技術を継承する。1979年(昭和54年)頃から創作性を加えた新たな藤布を発表、さらにインテリアなどの新たな分野の開拓を進めた現代藤布の第一人者。丹後藤布振興会会長。その他の職人に小西暢子。 「遊絲舎」(京丹後市網野町下岡) 京丹後市で唯一、藤織りの技術継承と藤布の商品化に取り組む工房。代表の小石原将夫が1980年代に上世屋から技術を継承、「丹後藤織り保存会」にも関わる。丹後藤織り保存会、丹後藤布振興会副会長。海外等への藤織りの紹介や、藤織りの体験ワークショップ(要予約)などの普及活動を行っている。藤織り製品としては能衣装などを製作。経糸に絹と金糸、緯糸に藤糸や藤の葉で染めた紬糸を用いた創作帯地「布爾織里(ふじおり)」は、他産地に類のないものと高く評価され、丹後帯地第一号に認定されている。その他の職人に小石原充保、白岩光子。 「手織り工房 凪」(宮津市溝尻) 丹後の藤織り保存会の主要メンバーの1人である坂根博子が、藤織りの継承を目的とする製織教室やワークショップのために2018年(平成30年)に立ち上げた。
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伝承者
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山陰地方の近代の藤織りは、まず鳥取県で興り、そののち島根県に伝わったと考えられている。 1964年(昭和39年)に発表された石塚尊俊の「山陰における藤布の技術伝承」によれば、この時点で健在だった藤織りの経験者は、鳥取・島根両県あわせて11名、慶応3年~明治33年生まれまでの老婆だった。 1967年(昭和42年)8月時点で、藤織りの経験者は、4名にまで数を減らしている。ただ、農家の仕事は家族ぐるみで分担するのがふつうであるから、藤織りの全工程を一貫して成し遂げる技術はもたなくとも、部分的な作業を行える人は、この時点ではまだ大勢いたと思われる。
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伝承者
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著名な伝承者として長男の程有龍、次男の程有信、甥の程有功、孫家拳を開いた孫禄堂、李文彪などがいる。
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伝承者
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著名な伝承者として、馬貴、宮宝田、門宝珍、何金奎、尹玉章(息子)などの名が知られている。
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伝承者
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17代目 陳発科(ちん はっか、陳 發科、1887年 - 1957年)達人。 陳氏太極拳正宗の家系で、陳長興の曾孫。清国河南省温県陳家溝の出身。 1928年に、請われて北平(北京)に出向き陳家溝の武術(陳氏太極拳の大架系統)を指導する。 18代目 陳照旭(ちん・しょうきょく、1909年-1960年) 父は陳発科。息子は陳小旺。河南省温県陳家溝の出身。最後の第五層功夫と言われる。 1960年に反右派闘争で、収容施設を脱走しようとして射殺されている。
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