人物・来歴・エピソード等
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「嶋田輝雄」の記事における「人物・来歴・エピソード等」の解説
身長185センチ、体重80キロという恵まれた体格を武器に、幼少時代からスポーツに取り組む。 空手家、プロサッカー選手を経て、実業家に転身という異色の経歴を持つ。座右の銘は「やると決めたらやる!」。
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人物・来歴・エピソード等
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「ミリアム・オット」の記事における「人物・来歴・エピソード等」の解説
ベルンに生まれ、10歳でカーリングをはじめた。国際的な大試合のデビューは1996年にコペンハーゲンで開催されたヨーロッパ選手権で、初の大舞台でいきなりの優勝を果たした。2001年のヨーロッパ選手権(フィンランド、ヴィエルメキ)ではサードとして出場し、3位。2002年ソルトレークシティオリンピックではスキップのルツィア・エプネーター率いるチームでサードを務め、銀メダルに輝いた。 2004年ヨーロッパ選手権(ブルガリア、ソフィア)、2005年ヨーロッパ選手権(ドイツ、ガルミッシュ=パルテンキルヒェン)、2006年トリノオリンピックではスキップとしてスイスチームを2位に導いたが、いずれも決勝で、アネッテ・ノルベリ率いるスウェーデンの前に苦杯を舐めている。オットはこれまでにオリンピックで銀メダル2個を獲得しているが、女子カーリング史上でオリンピックのメダルを2個以上獲得した選手は、2006年時点でスイス国内ではオットただ一人である。このほか、スイス国内チャンピオンにも二度(1997年、2004年)輝いている。 2010年のバンクーバーオリンピックでも再びスキップとして出場。前回のトリノ大会では決勝のラストストーンでスウェーデンのノルベリにダブルテイクアウトを決められて惜しくも破れ、表彰式では涙を流したオットは三度目の正直で金メダルを狙った。予選リーグでは最初の3試合でカナダ・スウェーデン・中国といういずれも金メダル候補に挙げられる強豪に3連敗を喫したが、その後は地力を発揮して6連勝で予選リーグ突破を果たした。特に7戦目の日本戦は共に3勝3敗で迎え、準決勝進出のためにはお互い負けられない状況であったが、スキのないショットを立て続けに決めて日本のミスを誘って徐々に点差を広げ、最後は10-4でコンシード勝ち。この大会でカーリング競技への注目度が急激に高まっていた日本のファンにもその実力を知らしめた。NHKのテレビ中継で実況放送の解説を務めていた小林宏にも「(日本側が)完璧に決めないと許してくれない(得点させてもらえない)」と言わしめた。迎えた準決勝では予選リーグの初戦で敗れた開催国のカナダと再び激突。完全アウェーの状況で序盤はカナダが有利に試合を進めるも徐々にスイスもカナダに迫り、第9エンドを終えた時点で6-4、しかも第10エンドはスイスのラストストーンという逆転勝利の可能性もある状態であった。第6投が終わった時点でハウスの前方をカナダのガードストーンが道を塞いでいたが、第7投目でオットがカナダのガードの間のわずかな隙にスウィーピングなしでストーンを通してハウス中央付近のカナダストーンを弾いて形勢逆転、解説の小林宏が思わず英語で"This is curling!"と絶叫するほどのスーパーショットを決めた。同点はおろか逆転負けの可能性さえ出てきたカナダはスキップのシェリル・バーナードがなんとかハウス中央付近にあった2つのスイスストーンのうちの1つをテイクアウトして逆転負けの可能性はなくなったが、それでもオットの実力を考えればスイスが2点をとって同点になることは確実とカナダ選手も地元カナダの観客もエキストラエンド(延長戦)突入を覚悟した。しかしオットの投じたラストストーンはほんの僅かにコースがずれ、カナダのストーンをはじき出したものの、そのままハウス内に留まる予定だった自らのストーンもロールアウト。結局1点とどかずにカナダに敗れた。3位決定戦の中国戦では前日の敗戦で力を使い切ったのか、序盤から中国の得点を許して大量失点、8エンド終了時点でコンシードして3大会連続のメダル獲得はならなかった。 2014年のソチオリンピックでもスキップとして出場し、2大会ぶりのメダル獲得を目指した。予選リーグでは、リード・セカンドが固定できず苦戦を強いられたことに加え、オット自身もショットが安定せず格下の日本に敗れるなど安定さを欠く場面もあった。決勝トーナメント準決勝で予選リーグ2位通過のスウェーデンと戦い5-7で敗れ、3位決定戦のイギリス戦に歩を進めることになった。3位決定戦では序盤から立て続けにダブルテイクアウトショットを決めるなどオットのショットが冴え、試合の前半は有利に試合を展開していった。しかしオットを含めスイスに些細なミスが出始め、その隙にイギリスが調子を取り戻し形勢が逆転。終盤はスイスも必死の追い上げを見せるも、調子づいたイギリスを止めることまではできず、5-6でイギリスに敗北を喫し2大会連続でメダルを逃した。10エンド目、敗戦を予期し肩を落とす同チーム、サードのカルメン・シェーファー(彼女は2010年のバンクーバーオリンピックでもサードを務めていた)を気遣い声をかけるなど優しい一面も覗かせた。 オットは経営学を専攻しており、2003年8月にはチームメイトのビニア・ベーリとともにイベント代理店(Beeli & Ott Marketing Event)を開業している。
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人物・来歴・エピソード等
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「中丸三千繪」の記事における「人物・来歴・エピソード等」の解説
1986年、小澤征爾指揮、「エレクトラ」で日本デビュー。 1987年、イタリアに渡る。 1988年、第3回「ルチアーノ・パヴァロッティ・コンクール」で優勝し、ヨーロッパデビューを果たす。第4回「マリア・カニリア・コンクール」優勝、第27回「フランチェスコ・パオロ・ネリア・コンクール」優勝。これを機にミラノ・スカラ座と出演契約を結ぶ。 1989年、『愛の妙薬』でルチアーノ・パヴァロッティと共演し、アメリカ・デビュー。 1990年、イタリア国営放送RAI主催「マリア・カラス・コンクール」に優勝し、欧米各国より出演依頼が殺到。 1994年、ベルサイユ宮殿での英仏チャリティ神前コンサートに、故ダイアナ妃臨席の下、フランス代表として出演。 1995年、MODA(イタリア貿易振興会)Made in Italy賞を受賞。 1997年、歌舞伎座にて史上初めてとなるソロ・リサイタルを行い、大きな話題となる。 1998年より、日本各地で小児がんの子供を支援するチャリティー・コンサートを行っており、天皇・皇后臨席のチャリティコンサートにも出演するなど、社会活動においても高い評価を受けている。 2001年、ポーランド国立歌劇場日本公演「椿姫」ヴィオレッタ役で出演。 2006年、イタリア文化への貢献でイタリア連帯の星勲章コンメンダトーレ章(Commendatore dell’Ordine della Stella della Solidarietà Italiana)をイタリア大統領より授与。ニューヨークでリサイタル/ライブCDを制作。 2007年、パリ、モナコ(モンテカルロ劇場)でリサイタル。 2008年、アーノルド・ウェスカー原作、三枝成彰作曲モノオペラ「悲嘆」を初演。 2009年、パリ、ボルドー等のオペラハウスに出演。同年12月に演劇界の巨匠、鈴木忠志演出によるオペラ「椿姫」(飯森範親指揮)ヴィオレッタ役で出演。 2010年、トルコにおける日本イヤーでは日本代表アーチストに選ばれ、大統領臨席の下にコンサートを行う。秋には、ミラノの大聖堂、ローマのバチカンでもコンサートを開催。 2011年、9月に三枝成彰作曲「悲嘆」、プーランク作曲、ジャン・コクトー原作「人間の声」と一晩で2つのモノオペラ(奥田瑛二演出)を一人で演じ、歌い切り、3夜にわたりTV放送される。 2015年、プラハ国立歌劇場日本公演「椿姫」にヴィオレッタ役で出演。 2018年、エジプト、カイロオペラハウスで歌劇「アイーダ」に出演。 茨城県下館市稲荷町(現在の筑西市)出身。栃木県の宇都宮短期大学附属高等学校(音楽科)を経て、桐朋学園大学声楽科卒業。同大学研究科修了。在学中よりニューヨーク、ザルツブルクに留学。東芝EMIより20タイトルのCDをリリース。ミラノ・スカラ座にデビュー。以来、世界各国の歌劇場で、プラシド・ドミンゴ、ホセ・クーラ、リッカルド・ムーティ、ロリン・マゼール、ケント・ナガノをはじめとする当代一流の音楽家と共演。クーラ、ダニエル・デッシーらとローマ国立歌劇場のオペラ全曲版、ベルリン・フィルとの共演などがある。ホセ・クーラ、ダニエル・デッシーらとローマ国立歌劇場のマスカーニ「イリス」、ベルリンフィル12人のチェリストとの録音にも参加。日本国内においてもリサイタル・ツアーの他、フィルハーモニア管弦楽団、ハンガリー放送交響楽団、スロヴァキア国立放送交響楽団などのソリストとして出演。また、メジャーリーグ開幕戦開会式、ワシントンでのサンフランシスコ講和条約締結50周年記念式典、日本ダービー、サッカー国際試合などの国際的イベントにおいて日米両国国歌を斉唱。 日伊文化交流組織委員、桐朋学園大学特任教授。
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