中央アメリカの独立とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 中央アメリカの独立の意味・解説 

中央アメリカの独立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 04:48 UTC 版)

コスタリカの歴史」の記事における「中央アメリカの独立」の解説

近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立」および「中米連邦」も参照 1812年ナポレオン・ボナパルトスペイン独立戦争契機としてカディス憲法制定された。この憲法制定により、アメリカ大陸の至る場所にカビルド誕生したコスタリカにおいても同様で、各地誕生したカビルドにより地域独自性強化されることとなったまた、1822年メキシコ独立コスタリカ住民少なからぬ衝撃与え植民地からの解放叫ばれるようになった。 このとき、コスタリカはひとつの国家というよりも、カルタゴエレディアサンホセアラフエラという4つ都市集まりであったと言える。これらの都市それぞれのカビルド独自に新しい世界情勢対応するための対策検討された。カルタゴエレディアメキシコ帝国との合併提唱しサンホセアラフエラ独立共和国の設立叫んだ。 この対立1823年4月5日オチョモゴの会戦へと発展したコスタリカにおける最初内戦サンホセカルタゴ下しサンホセ新し首都となった一方メキシコ帝国1823年崩壊喫し中米連邦として新しスタートがきられた。コスタリカもこれに参加しグアテマラ市議会へ代表を送るなどしたがフランシスコ・モラサン率いエルサルバドル自由主義者ラファエル・カレーラ率いグアテマラ保守主義者対立紛争興り議会混沌とし、コスタリカにとっては有意なものとは言えなかった。やがて1835年発生した同盟戦争により、サンホセカルタゴエレディアアラフエラ撃破すると、その地位確固たるものとなり、資本主義農業中心として発展を見ることとなった1838年ホンジュラス中米連邦から離脱すると、他の地域同じくして、コスタリカもそれに続きコスタリカ共和国として独立果たした中米連邦1841年エルサルバドル離脱以って、完全に瓦解したコスタリカを含む中米諸国統合連合政府樹立への動き見せたにも関わらずそのことごとくが瓦解し細分化分離していった理由ひとつとして中米地峡の地理的な問題指摘されている。例えば、グアテマラ総督府からコスタリカ首都カルタゴまでは距離にして1400kmであるが、道路事情悪く乾季にしか通行できない上、急勾配山岳地帯通過する必要があるなど、連合政府としてその行政権影響が行き届かなかった。こうした地理事情各地方の独特の社会形成育み小国家群が誕生した要因となった中米地峡での政治不安のさなか、ブラウリオ・カリーリョがコスタリカ統治し始め最初独裁政権誕生した目的なく旅をすることを禁じるなど、独裁色の強い政治行ったまた、1779年よりサンボ・モスキート族へ支払っていた資金1841年停止したその後1842年4月フランシスコ・モラサン軍隊率いてカルデラ上陸、カリーリョは国外逃亡せざるを得ない状況となった暫定大統領となったモラサンコスタリカ新たな中米統合運動の政治拠点にしようと画策したが、同年9月サンホセ市民による武力蜂起によって計画失敗終わったモラサン捕らえられ、現サンホセ中央公園位置する場所で銃殺処刑された。その後1844年には直接選挙制を盛り込んだ新憲法制定され資産200ペソ以上を持つ人に市民権与えられた。しかし、この制度失敗終わり1847年には間接選挙制戻されている。 中米連邦離れて以降政治勢力間の争い端を発する内戦見舞われたが、他の中米諸国違い長期渡り経済停滞するようなことは無かった。これは中米連邦結成時散発的に起こった都市間の武力抗争により、軍部強固な力を持つことが出来なかったことが大きな要因であるとされている。 このころコスタリカ経済基盤根底支えたものに、コーヒーがあった。17世紀ごろよりサンホセその周辺局所的にはじまったこの「黄金の豆」の栽培は、1830年ごろよりイギリスのコーヒーブームを受けて劇的な拡張遂げた1850年に入ると産地カルタゴエレディアアラフエラへと広がり、さらに奥地サンラモンまで拡大したコーヒー輸出得られた富により、新し技術流行商品コスタリカ国内賑わせた。 1854年内戦只中にあったニカラグアのひとつの勢力が、アメリカ傭兵ウィリアム・ウォーカー雇用したウォーカーニカラグア到着するニカラグア南部占領した当時コスタリカ大統領フアン=ラファエル・モーラはこの事態を受け、中米諸国政府国民、及び反ウォーカーだったイギリス、アメリカ合衆国コーネリアス・ヴァンダービルトなどの支援を受け、ウォーカー撃退乗り出した1856年3月、グアナカステ地方サンタロサ戦いで勝利を飾ったコスタリカ軍は続けざま4月11日リバスにてウォーカー主力部隊撃破12月末にはサンファン川支配1857年5月1日アメリカ人侵略者はついに降伏した。しかしこの戦争影響により、軍隊によって持ち込まれコレラ一般市民襲い人口の約10%を失うこととなった労働力不足と、戦争莫大な経費によってコスタリカ経済不況に陥り、回復に約3年要した。 このウォーカーとの一連の戦い国民戦争呼ばれコスタリカ人が若い国を守るために莫大な対価支払った戦争として歴史にその名が刻まれている。しかし、そんなモーラ1859年クーデター国外へ追放されるなど、政治情勢は不安定であった1840年から70年にかけて、コーヒー産業派閥対立などを背景とした、軍事力による権力者追放交代断続的に行われた1870年、トマス・グアルディア=グティエレス将軍政権を握ると、政治変化見られ始めた近代国家近代社会創造という明確な目標革命計画携え、その自由主義的な改革1890年ごろまで続いた新し民法刑法制定され出生死亡婚姻を国が管理し始め教会影響排除した国が管理する義務教育制度策定した。 これらの努力により国民識字率驚異的に上昇するなど、生活水準大幅に引き上げられた。しかし一方で闘鶏非合法化や、安価な薬品使用禁止義務教育化による児童労働禁止といった、より厳しくなった管理行政国民少なからず不満を持っていた。 グアルディア意思を次ぐベルナルド・ソトは、1889年大統領選挙において、カトリック教会支援受けたホセ=ホアキン・ロドリゲス敗れた。しかし、ホセ得票不正選挙であるとし、政権維持図ろうとしたことが市民逆鱗触れ1889年11月7日聖職者煽られ農民職人武装蜂起し首都包囲したソトホセ大統領認める旨の声明出し内戦回避された。 この1889年11月7日は、本当の意味コスタリカ民主主義原点であるとして伝えられる以降コスタリカ政治公正な選挙による民主主義へと動き始めた

※この「中央アメリカの独立」の解説は、「コスタリカの歴史」の解説の一部です。
「中央アメリカの独立」を含む「コスタリカの歴史」の記事については、「コスタリカの歴史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「中央アメリカの独立」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「中央アメリカの独立」の関連用語

中央アメリカの独立のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



中央アメリカの独立のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのコスタリカの歴史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS