中央アメリカの独立
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「コスタリカの歴史」の記事における「中央アメリカの独立」の解説
「近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立」および「中米連邦」も参照 1812年、ナポレオン・ボナパルトのスペイン独立戦争を契機としてカディス憲法が制定された。この憲法の制定により、アメリカ大陸の至る場所にカビルドが誕生した。コスタリカにおいても同様で、各地に誕生したカビルドにより地域の独自性が強化されることとなった。また、1822年のメキシコ独立はコスタリカ住民に少なからぬ衝撃を与え、植民地からの解放が叫ばれるようになった。 このとき、コスタリカはひとつの国家というよりも、カルタゴ、エレディア、サンホセ、アラフエラという4つの都市の集まりであったと言える。これらの都市はそれぞれのカビルドで独自に新しい世界情勢に対応するための対策が検討された。カルタゴとエレディアはメキシコ帝国との合併を提唱し、サンホセとアラフエラは独立共和国の設立を叫んだ。 この対立は1823年4月5日オチョモゴの会戦へと発展した。コスタリカにおける最初の内戦はサンホセがカルタゴを下し、サンホセが新しい首都となった。 一方、メキシコ帝国は1823年に崩壊を喫し、中米連邦として新しいスタートがきられた。コスタリカもこれに参加し、グアテマラ市の議会へ代表を送るなどしたが、フランシスコ・モラサン率いるエルサルバドルの自由主義者とラファエル・カレーラ率いるグアテマラの保守主義者の対立紛争が興り、議会は混沌とし、コスタリカにとっては有意なものとは言えなかった。やがて1835年に発生した同盟戦争により、サンホセがカルタゴ、エレディア、アラフエラを撃破すると、その地位は確固たるものとなり、資本主義農業の中心として発展を見ることとなった。1838年にホンジュラスが中米連邦から離脱すると、他の地域と同じくして、コスタリカもそれに続き、コスタリカ共和国として独立を果たした。中米連邦は1841年のエルサルバドルの離脱を以って、完全に瓦解した。 コスタリカを含む中米諸国が統合、連合政府樹立への動きを見せたにも関わらずそのことごとくが瓦解し、細分化・分離していった理由のひとつとして中米地峡の地理的な問題が指摘されている。例えば、グアテマラの総督府からコスタリカの首都カルタゴまでは距離にして1400kmであるが、道路事情が悪く、乾季にしか通行ができない上、急勾配の山岳地帯を通過する必要があるなど、連合政府としてその行政権の影響が行き届かなかった。こうした地理事情が各地方の独特の社会形成を育み、小国家群が誕生した要因となった。 中米地峡での政治不安のさなか、ブラウリオ・カリーリョがコスタリカを統治し始め、最初の独裁政権が誕生した。目的なく旅をすることを禁じるなど、独裁色の強い政治を行った。また、1779年よりサンボ・モスキート族へ支払っていた資金を1841年に停止した。その後、1842年4月にフランシスコ・モラサンが軍隊を率いてカルデラに上陸、カリーリョは国外逃亡せざるを得ない状況となった。暫定大統領となったモラサンはコスタリカを新たな中米統合運動の政治拠点にしようと画策したが、同年9月、サンホセ市民による武力蜂起によって計画は失敗に終わった。モラサンは捕らえられ、現サンホセ中央公園に位置する場所で銃殺処刑された。その後1844年には直接選挙制を盛り込んだ新憲法が制定され、資産200ペソ以上を持つ人に市民権が与えられた。しかし、この制度は失敗に終わり、1847年には間接選挙制に戻されている。 中米連邦を離れて以降、政治勢力間の争いに端を発する内戦に見舞われたが、他の中米諸国と違い、長期に渡り経済が停滞するようなことは無かった。これは中米連邦結成時に散発的に起こった都市間の武力抗争により、軍部が強固な力を持つことが出来なかったことが大きな要因であるとされている。 このころのコスタリカの経済基盤を根底で支えたものに、コーヒーがあった。17世紀ごろよりサンホセとその周辺で局所的にはじまったこの「黄金の豆」の栽培は、1830年ごろよりイギリスのコーヒーブームを受けて、劇的な拡張を遂げた。1850年に入ると産地はカルタゴ、エレディア、アラフエラへと広がり、さらに奥地のサンラモンまで拡大した。コーヒーの輸出で得られた富により、新しい技術や流行の商品がコスタリカ国内を賑わせた。 1854年、内戦の只中にあったニカラグアのひとつの勢力が、アメリカの傭兵ウィリアム・ウォーカーを雇用した。ウォーカーはニカラグアに到着するやニカラグア南部を占領した。当時のコスタリカ大統領フアン=ラファエル・モーラはこの事態を受け、中米諸国の政府と国民、及び反ウォーカーだったイギリス、アメリカ合衆国のコーネリアス・ヴァンダービルトなどの支援を受け、ウォーカー撃退に乗り出した。 1856年3月、グアナカステ地方のサンタロサの戦いで勝利を飾ったコスタリカ軍は続けざまに4月11日、リバスにてウォーカーの主力部隊を撃破、12月末にはサンファン川を支配、1857年5月1日、アメリカ人侵略者はついに降伏した。しかしこの戦争の影響により、軍隊によって持ち込まれたコレラが一般市民を襲い、人口の約10%を失うこととなった。労働力不足と、戦争の莫大な経費によってコスタリカは経済不況に陥り、回復に約3年を要した。 このウォーカーとの一連の戦いは国民戦争と呼ばれ、コスタリカ人が若い国を守るために莫大な対価を支払った戦争として歴史にその名が刻まれている。しかし、そんなモーラも1859年のクーデターで国外へと追放されるなど、政治情勢は不安定であった。1840年から70年にかけて、コーヒー産業の派閥対立などを背景とした、軍事力による権力者の追放と交代が断続的に行われた。 1870年、トマス・グアルディア=グティエレス将軍が政権を握ると、政治に変化が見られ始めた。近代国家と近代社会の創造という明確な目標と革命計画を携え、その自由主義的な改革は1890年ごろまで続いた。新しい民法と刑法が制定され、出生や死亡、婚姻を国が管理し始め、教会の影響を排除した国が管理する義務教育制度を策定した。 これらの努力により国民の識字率は驚異的に上昇するなど、生活水準は大幅に引き上げられた。しかし一方で、闘鶏の非合法化や、安価な薬品の使用禁止、義務教育化による児童労働の禁止といった、より厳しくなった管理行政に国民は少なからず不満を持っていた。 グアルディアの意思を次ぐベルナルド・ソトは、1889年の大統領選挙において、カトリック教会の支援を受けたホセ=ホアキン・ロドリゲスに敗れた。しかし、ホセの得票は不正選挙であるとし、政権の維持を図ろうとしたことが市民の逆鱗に触れ、1889年11月7日、聖職者に煽られた農民や職人が武装蜂起し、首都を包囲した。ソトはホセを大統領に認める旨の声明を出し、内戦は回避された。 この1889年11月7日は、本当の意味でコスタリカ民主主義の原点であるとして伝えられる。以降、コスタリカの政治は公正な選挙による民主主義へと動き始めた。
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