上杉謙信との戦い
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永禄2年(1559年)、氏康は次男で長嫡子の氏政に家督を譲って隠居した。「永禄の飢饉」という大飢饉が発生していたため、その責を取るという形で代替わりによる徳政令の実施を目的としていた。しかし隠居後も小田原城本丸に留まって「御本城様」として政治・軍事の実権を掌握しながら、氏政を後見するという、「ニ御屋形」「御両殿」と称される形体に移行した。 この頃、上野国内の上杉方(横瀬(由良)氏・上野斎藤氏・沼田氏など)をほぼ降伏させ、この時点では上野国の領国化に成功している。越後に対しては越後から上野への出入口・沼田に北条康元を置いて対抗した。 永禄3年(1560年)5月、今川義元が桶狭間の戦いにおいて織田信長に討たれたため、今川氏の勢力が衰退する。 同年、上杉謙信が「永禄の飢饉」の中の関東へ侵攻し、小田原城の戦いとなる。上杉憲政を奉じ、8,000の軍勢を率いて三国峠を越えた謙信は、各地で略奪を繰り広げながら、厩橋城・沼田城・岩下城・那波城など上野国の北条方の諸城を次々と攻略し、関東一円の大名や豪族さらには一部の奥州南部の豪族に動員をかける。これに対し、上総国の里見義堯の本拠地・久留里城を囲んでいた氏康は、包囲を解いて9月に河越に出陣、10月には松山城に入る。ここで主要な城へ籠城指示を出し、その後本拠地の小田原城に入城。籠城の構えをとった。 上杉連合軍には、上野国の白井長尾氏、総社長尾氏、箕輪長野衆、沼田衆、岩下斎藤氏、金山横瀬氏、桐生佐野氏。下野国の足利長尾氏、小山氏、宇都宮氏、佐野氏。下総の簗田氏、小金高城氏。武蔵国の忍成田氏、羽生広田氏、藤田衆、深谷上杉氏、岩付太田氏、勝沼三田氏。常陸国では、小田氏、真壁氏、下妻多賀谷氏、下館水谷氏。安房国の里見氏。上総国の東金酒井氏、飯櫃城山室氏といった『関東幕注文』の面々に加え、遅れて佐竹氏が参陣した。 これに対し、北条氏には上野国の館林赤井氏、武蔵国の松山上田氏。下野国の那須氏。下総の結城氏、下総守護千葉氏、臼井原氏。上総国の土気酒井氏。常陸国の大掾氏が組みし、玉縄城には北条氏繁、滝山城、河越城に北条氏堯、江戸城、小机城、由井城に北条氏照、三崎城に北条綱成、津久井城の内藤康行で等対抗した。 12月初旬、謙信は下総古河御所などを包囲。上野廓橋城にて越年し、永禄4年(1561年)2月に松山城、鎌倉を攻略。最終的に10万余りの連合軍を率い、氏康の本国・相模にまで押し寄せた。連合軍先陣は3月3日までには当麻に着陣。上杉方は14日に中郡大槻にて北条方・大藤氏と交戦。謙信勢も3月下旬ころまでに酒匂川付近に迫り(加藤文書・大藤文書他)、居城・小田原城を包囲した。『関八州古戦録』等の軍伝に於いては上杉軍の太田資正隊が小田原城の蓮池門へ突入するなど攻勢をかけ、対する北条軍は各地で兵站に打撃を与えて抗戦、この間、包囲は一ヶ月に及んだとも伝えられているが、同時代史料では上杉軍による城下への放火等は記されているものの(「上杉家文書」)、詳細は明らかになっておらず、前後の上杉軍や謙信の動きから包囲自体は1週間から10日間ほどであったという。小田原城の防衛は堅く、当時関東では飢饉の続発していたため長期にわたる出兵を維持できず、佐竹氏など諸豪族が撤兵を要求し、一部の豪族は勝手に陣を引き払う事態となっていた(杉原謙氏所蔵文書)。 さらに氏康と同盟を結ぶ信玄が信濃国川中島に海津城を完成させ、信濃北部での支配域を広げることで、謙信を牽制。これらにより、謙信は小田原城から撤退、鎌倉に兵を引き上げ、閏3月に鶴岡八幡宮にて関東管領に就任した。この後、謙信は足利藤氏(義氏の庶兄)を公方として擁立。更に謙信は上杉憲政を関白・近衛前久と共に古河に入れると、武田氏に扇動された一向一揆が越中国で蜂起したこともあり、このときの小田原城の攻略を断念。早くも上杉軍から離反した上田朝直の松山城を再攻略し、各地で略奪・放火を行いながら、6月に越後国へ帰国した。他にも、関宿城等の城が北条氏から離脱したが、玉縄城、滝山城、河越城、江戸城、小机城、由井城、三崎城、津久井城等は攻勢を耐え切った。 以降の永禄年間、上杉謙信は、作物の収穫後にあたる農業の端境期である冬になると関東に侵攻し、氏康は北条氏と上杉氏の間で離脱従属を繰り返す国衆と、戦乱と敵軍の略奪による領国内の荒廃といった、その対応に追われることなる。 永禄4年の謙信帰国の直後には、関東管領就任式時に北条下から離脱していた下総国の千葉氏・高城氏が再帰参したが、氏康は謙信の帰陣前の6月から、既に上杉氏に奪われた勢力域の再攻略を試みていた。9月には武蔵国の三田氏を攻め滅ぼし、その領国は氏照に与えられた。次に氏邦が家督を継いでいた藤田氏の領国のうち、敵に応じていた秩父日尾城、天神城を攻略し、武蔵北部を奪還した。 さらに武蔵国の小田氏・深谷城の上杉憲盛をも再帰参させ、上野国の佐野直綱と下野国の佐野昌綱を寝返らせることに成功したが、昌綱の方はその後まもなく謙信に降伏している。氏康は武蔵国へ軍勢を派遣し、11月27日の生野山の戦いで、第四次川中島合戦直後の上杉勢を破り上野国まで後退させると(内閣文庫所蔵・小幡家文書、出雲桜井文書、相州文書)、そのまま上野武蔵境まで進軍して、秩父高松城を降伏させ、氏邦の領国の回復を成させた。 上杉勢は古河城を、公方宿老の簗田晴助に任せるとの書状を出して軍を引き上げていたが、12月には近衛前久は由良成繁に古河城の苦境を伝えている(『古簡雑纂』)。古河城を追われた義氏は、北条氏によって上総佐貫城に移された。 永禄6年(1563年)には武田氏の援軍を得たこともあって、氏康は松山城や上野厩橋城を攻略。さらに下野の小山氏を寝返らせ、その後は古河城をも攻略し、謙信が古河公方として擁立した足利藤氏を捕らえた。これに対し謙信も反撃、三国峠を越えて上野・武蔵・下野・常陸・下総へ侵攻。厩橋城や古河城を奪還し、成田氏・小山氏・結城氏・小田氏を降伏させる等、北条方の諸城を攻略するが、両軍ともに支配権を安定させるまでには至らず、一進一退の攻防が続いた。 永禄6年頃、弟の北条氏堯を失っている。もう1人の弟である北条為昌も既に天文11年(1542年)に失っており、後世の系譜では氏康の子供と記録されている種徳寺殿(小笠原康広に嫁ぐ)および氏忠・氏光兄弟について、実際にはそれぞれ為昌と氏堯が実の父親で、氏康が養子女として引き取ったものが忘れられたとみられている。
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上杉謙信との戦い
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永禄7年(1564年)4月、佐竹義昭・宇都宮広綱・真壁氏幹が連署して氏治の背信を上杉謙信に訴えたため、氏治は上杉軍の攻撃に晒される。謙信は「八幡(必ず)出馬すべし」と返書するや直ちに陣触れして27日には小田領に侵攻。氏治は謙信が足を速めてこれ程早く攻め寄せるとは思いもよらず油断しており驚きも大きく、兵も急遽集めたため3千余のみであった。28日、氏治率いる小田軍は出て上杉軍を迎え撃つも、山王堂の戦いで大敗を喫し、小田城は落城。氏治は藤沢城へ逃れた。 翌・永禄8年(1565年)12月、佐竹義昭死後の混乱を突いて小田城を守る佐竹義廉を追い、本拠の奪還に成功。しかし翌・永禄9年(1566年)2月には上杉謙信の再度の出兵に遭い、再び小田城から敗走した。永禄10年(1567年)5月、氏治は甲斐の武田信玄に佐竹義重を討つための援助を求めている。永禄11年(1568年)には結城晴朝を通じて謙信に降伏を申し出、小田城の城壁を修復しないという条件で認められ小田城を回復した。このように何度追われても領内では人望があり、地元民の協力を得つつ、土浦城の菅谷勝貞・政貞(子)・範政(孫)の菅谷一門やその他家臣団に支えられながらその後何度も小田城を奪い返した。。
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