上杉謙信との戦いとは? わかりやすく解説

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上杉謙信との戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 08:10 UTC 版)

北条氏康」の記事における「上杉謙信との戦い」の解説

永禄2年1559年)、氏康は次男で長嫡子の氏政に家督譲って隠居した。「永禄の飢饉」という大飢饉発生していたため、その責を取るという形で代替わりによる徳政令実施目的としていた。しかし隠居後小田原城本丸に留まって「御本城様」として政治・軍事実権掌握しながら、氏政を後見するという、「ニ御屋形」「御両殿」と称される形体移行したこの頃上野国内の上方(横瀬由良氏・上斎藤氏沼田氏など)をほぼ降伏させ、この時点では上野国領国化に成功している。越後に対して越後から上野への出入口沼田北条康元置いて対抗した永禄3年1560年5月今川義元桶狭間の戦いにおいて織田信長討たれたため、今川氏勢力衰退する同年上杉謙信が「永禄の飢饉」の中の関東侵攻し小田原城の戦いとなる。上杉憲政奉じ、8,000軍勢率いて三国峠越えた謙信は、各地略奪繰り広げながら、厩橋城沼田城岩下城那波城など上野国北条方の諸城次々と攻略し関東一円大名豪族さらには一部奥州南部豪族動員をかける。これに対し上総国里見義堯本拠地久留里城囲んでいた氏康は、包囲解いて9月河越出陣10月には松山城に入る。ここで主要な城へ籠城指示出しその後本拠地小田原城入城籠城構えをとった。 上杉連合軍には、上野国白井長尾氏総社長尾氏箕輪長野衆、沼田衆、岩下斎藤氏金山横瀬氏桐生佐野氏下野国足利長尾氏小山氏宇都宮氏佐野氏下総簗田氏小金高城氏。武蔵国の忍成田氏羽生広田氏、藤田衆、深谷上杉氏、岩付太田氏勝沼三田氏常陸国では、小田氏真壁氏下妻多賀谷氏下館水谷氏安房国里見氏上総国東金酒井氏飯櫃城山室氏といった『関東幕注文』の面々加え遅れて佐竹氏が参陣した。 これに対し北条氏には上野国館林赤井氏武蔵国松山上田氏下野国那須氏下総結城氏下総守千葉氏臼井原氏上総国土気酒井氏常陸国大掾氏組みし、玉縄城には北条氏繁滝山城河越城北条氏堯江戸城小机城由井城北条氏照三崎城北条綱成津久井城内藤康行で等対抗した12月初旬謙信下総古河御所などを包囲上野城にて越年し永禄4年1561年2月松山城鎌倉攻略最終的に10万余り連合軍率い、氏康の本国相模にまで押し寄せた連合軍先陣3月3日までには当麻着陣上杉方は14日中郡大槻にて北条方・大藤氏と交戦謙信勢も3月下旬ころまでに酒匂川付近に迫り加藤文書・大藤文書他)、居城小田原城包囲した。『関八州古戦録』等の軍伝に於いては上杉軍太田資正隊が小田原城蓮池門へ突入するなど攻勢をかけ、対す北条軍各地兵站打撃与えて抗戦この間包囲一ヶ月及んだとも伝えられているが、同時代史料では上杉軍による城下への放火等は記されているものの(「上杉家文書」)、詳細明らかになっておらず、前後の上軍や謙信動きから包囲自体1週間から10日間ほどであったという。小田原城防衛堅く当時関東では飢饉続発していたため長期にわたる出兵維持できず、佐竹氏など諸豪族撤兵要求し一部豪族勝手に陣を引き払う事態となっていた(杉原謙氏所蔵文書)。 さらに氏康と同盟を結ぶ信玄信濃国川中島海津城を完成させ、信濃北部での支配域を広げることで、謙信牽制。これらにより、謙信小田原城から撤退鎌倉に兵を引き上げ、閏3月鶴岡八幡宮にて関東管領就任したこの後謙信足利藤氏(義氏の庶兄)を公方として擁立。更に謙信上杉憲政関白近衛前久と共に古河入れると、武田氏扇動され一向一揆越中国蜂起したこともあり、このときの小田原城攻略断念早くも上杉軍から離反した上田朝直松山城を再攻略し各地略奪放火行いながら、6月越後国帰国した。他にも、関宿城等の城が北条氏から離脱したが、玉縄城滝山城河越城江戸城小机城由井城三崎城津久井城等は攻勢を耐え切った以降永禄年間上杉謙信は、作物収穫後にあたる農業端境期である冬になると関東侵攻し、氏康は北条氏上杉氏の間で離脱従属繰り返す国衆と、戦乱敵軍略奪による領国内の荒廃といった、その対応に追われることなる。 永禄4年謙信帰国直後には、関東管領就任時に北条下から離脱していた下総国千葉氏高城氏が再帰参したが、氏康は謙信帰陣前の6月から、既に上杉氏奪われ勢力域の再攻略試みていた。9月には武蔵国三田氏攻め滅ぼし、その領国は氏照に与えられた。次に氏邦が家督継いでいた藤田氏領国のうち、敵に応じていた秩父日尾城、天神城を攻略し武蔵北部奪還した。 さらに武蔵国小田氏深谷城の上憲盛をも再帰参させ、上野国佐野直綱と下野国佐野昌綱を寝返らせることに成功したが、昌綱の方はその後まもなく謙信降伏している。氏康は武蔵国軍勢派遣し11月27日生野山の戦いで、第四次川中島合戦直後の上勢を破り上野国まで後退させると(内閣文庫所蔵小幡文書出雲桜井文書相州文書)、そのまま上野武蔵境まで進軍して、秩父高松城降伏させ、氏邦の領国回復を成させた。 上杉勢古河城を、公方宿老簗田晴助任せるとの書状出して軍を引き上げていたが、12月には近衛前久由良成繁古河城苦境伝えている(『古簡雑纂』)。古河城追われた義氏は、北条氏によって上総佐貫城移された。 永禄6年1563年)には武田氏援軍得たこともあって、氏康は松山城上野厩橋城攻略。さらに下野小山氏を寝返らせ、その後古河城をも攻略し謙信古河公方として擁立した足利藤氏捕らえた。これに対し謙信反撃三国峠越えて上野武蔵下野常陸下総侵攻厩橋城古河城奪還し成田氏小山氏結城氏小田氏降伏させる等、北条方の諸城攻略するが、両軍ともに支配権安定させるまでには至らず一進一退の攻防続いた永禄6年頃、弟の北条氏堯失っている。もう1人の弟である北条為昌も既に天文11年1542年)に失っており、後世系譜では氏康の子供と記録されている種徳寺殿(小笠原康広嫁ぐ)および氏忠・氏光兄弟について、実際にそれぞれ為昌と氏堯が実の父親で、氏康が養子女として引き取ったものが忘れられたとみられている。

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上杉謙信との戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 06:03 UTC 版)

小田氏治」の記事における「上杉謙信との戦い」の解説

永禄7年1564年4月佐竹義昭宇都宮広綱真壁氏幹連署して氏治の背信上杉謙信訴えたため、氏治は上杉軍攻撃晒される謙信は「八幡(必ず)出馬すべし」と返書するや直ち陣触れして27日には小田領に侵攻。氏治は謙信が足を速めてこれ程早く攻め寄せるとは思いもよらず油断しており驚き大きく、兵も急遽集めたため3千余のみであった28日、氏治率い小田軍は出て上杉軍迎え撃つも、山王堂の戦い大敗喫し小田城落城。氏治は藤沢城へ逃れた。 翌・永禄8年1565年12月佐竹義昭死後の混乱突いて小田城を守る佐竹義廉追い本拠奪還成功。しかし翌・永禄9年1566年2月には上杉謙信再度出兵遭い、再び小田城から敗走した永禄10年1567年5月、氏治は甲斐武田信玄佐竹義重を討つための援助求めている。永禄11年1568年)には結城晴朝通じて謙信降伏申し出小田城城壁修復しないという条件認められ小田城回復したこのように何度追われても領内では人望があり、地元民協力を得つつ、土浦城菅谷勝貞・政貞(子)・範政(孫)の菅谷一門やその他家臣団に支えられながらその後何度も小田城奪い返した。。

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