知行と任務
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/09 06:33 UTC 版)
三人衆は、不破光治が龍門寺城、佐々成政が小丸城、前田利家が府中城(越府城)を居城としたが、当初はそれぞれの支配領域は明確ではなく、総計約10万石の知行を相給されていたと見られている。越前二郡での活動や発給文書などを見ても、ほとんどが3人共同で行われている。しかし、天正4年(1576年)5月から7月の間に所領割りが行われ、三人衆はそれぞれの所領と与力を持つようになったと思われ、3人連署の文書も見られなくなる。それぞれの所領は、利家が丹生郡大井村、今立郡真柄村、南条郡杣山・宅良谷・河野浦など、成政が丹生郡織田平等村、今立郡大滝村・岩本村、南条郡湯尾などと推定され、光治については明らかでない。 三人衆の当初の任務は、信長が発した「越前国掟書」にも明記されているが、越前国の大半を任された柴田勝家の目付であった。しかし、その後は加賀一向一揆や上杉謙信との戦いで、勝家の与力としての性格が強まっていった。とはいえ、勝家の指揮下に固定されたわけではなく、天正6年(1578年)に荒木村重が反逆した際、その居城の有岡城攻め(有岡城の戦い)に、3人そろって勝家から切り離されて駆り出されるなどしている。
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