ボルチモア・コルツ
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ボルチモア・コルツ(Baltimore Colts)
- 1 ボルチモア・コルツとは
- 2 ボルチモア・コルツの概要
ボルチモア・コルツ
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1967年のNFLドラフトでボルチモア・コルツ(現:インディアナポリス・コルツ)から全体1位で指名されて入団した。2年目の1968年コルツはレギュラーシーズンを13勝1敗で終えてNFLチャンピオンシップゲームを制した。第3回スーパーボウルを前に対戦相手のニューヨーク・ジェッツQB、ジョー・ネイマスが「日曜の試合では我々が勝利する」と宣言したが、これを聞いたNFL有数のパスラッシャーとなっていたスミスは「奴はそんなことを発言するべきではなかった。プロはそのようなことは言わないものだ。」と述べた。試合はネイマスの宣言どおりとなり、コルツは7-16で敗れた。2年後の1970年、NFLとAFLの統合が行われ、コルツはクリーブランド・ブラウンズ、ピッツバーグ・スティーラーズとともにほぼAFL所属チームで構成されたAFCに移った。そのシーズンの第5回スーパーボウル優勝に彼は貢献した。この試合でコルツはダラス・カウボーイズを16-13で破り優勝を果たしたが、ターンオーバーの多かったこの試合で得たスーパーボウルリングを彼は公共の場につけて登場することはなかった。コルツに在籍した時代、彼はオールプロに1回、オール・カンファレンスに2回、プロボウルに2回選出された。
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ボルチモア・コルツ
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「第3回スーパーボウル」の記事における「ボルチモア・コルツ」の解説
詳細は「1968 Baltimore Colts season(英語)」を参照 プレシーズンゲームでネイマスの少年時代のあこがれだった偉大なQBジョニー・ユナイタスが右ひじを負傷したため、この年アール・モラルが先発QBを務めた。モラルはQBレイティング93.2とリーグトップの成績でシーズンを終えてMVPに選ばれた。彼の活躍もありヘッドコーチのドン・シュラはユナイタスが怪我から回復後もモラルを先発QBとして起用し続けた。チームは10連勝も果たしその間4試合では完封勝ちし相手に与えたタッチダウンはわずか7つ、13勝1敗でシーズンを終えた。プレーオフではミネソタ・バイキングスを24-14で破りウェスタンカンファレンスのタイトルを獲得、シーズン中唯一敗れた相手であるクリーブランド・ブラウンズとのNFLチャンピオンシップゲームを34-0で勝利した。シーズン終了後多くのアメリカ国民はコルツは史上最強チームであり、第1回スーパーボウル、第2回スーパーボウルを連覇したヴィンス・ロンバルディのグリーンベイ・パッカーズよりも強いのではないかと考えた。オフェンスはNFL2位の402得点をあげ、WRのジミー・オーアは29回のキャッチで743ヤード(平均25.6ヤード)を獲得、6TD、ウィリー・リチャードソンは37回のキャッチで698ヤード(平均18.91ヤード)、8TD、TEのジョン・マッキーは45回のキャッチで644ヤードを獲得、5TDをあげた。またRBのトム・マットはチームトップの662ヤードを走り9TD、レシーブでも25回のキャッチで275ヤードを獲得、1TDをあげてプロボウルに選出された。またテリー・コール、ジェリー・ヒルの2人のRBが合計で778ヤードを走りレシーブでも236ヤードを稼いだ。 ディフェンスはリーグ最少の144失点(当時NFLタイ記録)でトータルランディフェンスはNFL3位の1,339ヤードしか相手に許さなかった。ババ・スミスはNFL最高のパスラッシャーであると見なされておりラインを統率した。またLBのマイク・カーティスもNFL最高のLBと見なされていた。ディフェンスバックもボビー・ボイドが8インターセプト、リック・ボルクが6インターセプト、レニー・ライルズが5インターセプト、ジェリー・ローガンが3インターセプトをあげる活躍を見せた。コルツは当時NFLで唯一ゾーンディフェンスを導入しており、ゾーンディフェンスに慣れていないNFLの他のチームに対して優位に試合を進めていた。(AFLではゾーンディフェンスが一般的となっておりジェッツとの対戦ではこれは有利な点とは言えなかった。)
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ボルチモア・コルツ
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「ジョニー・ユナイタス」の記事における「ボルチモア・コルツ」の解説
1956年、入団テストを経て、ウィーブ・ユーバンクヘッドコーチ率いるボルチモア・コルツに入団した。先発クォーターバックの負傷により、移籍1年目の途中から出場機会を得たユナイタスは、プロデビュー戦こそインターセプト、ファンブルを連発し、酷い敗戦を喫したが、翌週からはプレーを立て直し、パス成功率55.6%の新人記録を打ち立てた。 1957年、開幕から先発クォーターバックの座を獲得し、リーグ1位の2,550パスヤードと24タッチダウンを記録し、チームを7勝5敗に導いた。これはチーム創設5年目のシーズンを迎えていたコルツにとって、過去最高の成績であった。この年ジム・ソープ賞を受賞した。 1958年、この年もユナイタスのパスは冴え渡り、2,007パスヤードと19タッチダウンを記録し、チームを9勝3敗で西カンファレンス優勝に導いた。NFLチャンピオンシップでは、東カンファレンス優勝のニューヨーク・ジャイアンツを延長戦の末にアラン・アメチーへのTDパスを成功させて23-17で破った。全米中継されたこの試合は、アメリカで「The Greatest Game Ever Played(史上最高の試合)」と呼ばれ、1960年代にフットボール人気を爆発的に拡大させるきっかけになった。 1959年、前年よりもさらに記録を伸ばした。ユナイタスは2,899パスヤードと32タッチダウンを記録し、9勝3敗で西カンファレンス2連覇を果たし、初のシーズンMVPに輝いた。NFLチャンピオンシップでは、前年の再戦となったニューヨーク・ジャイアンツを破り、2年連続NFLチャンピオンに輝いた。 1960年代に入ってもユナイタスのパスは冴え渡り続け、個人成績では3千ヤード前後のパスヤードを記録していたものの、チームの主要メンバーであるアミーチ、レイモンド・ベリー、レニー・ムーアらの怪我に悩まさせ、チームは優勝争いから遠ざかった。1962年シーズン終了後、キャロル・ローゼンブルームオーナーは、ユーバンクヘッドコーチを解雇、33歳であったドン・シュラを当時史上最年少のNFLチームのヘッドコーチに就任させた。 1964年、後に名ヘッドコーチとして名を馳せるドン・シュラヘッドコーチの下、チームは躍進した。ユナイタスは2,824パスヤードと19タッチダウンを記録し、2度目のシーズンMVPに輝き、チームは西カンファレンス優勝を果たした。しかし、NFLチャンピオンシップでは、クリーブランド・ブラウンズに27対0の完封負けを喫し、ファンを失望させた。 1965年、この年もユナイタス、チーム共に好調を保っていたが、シーズン終盤にユナイタスが膝を怪我すると、チームは失速し、10勝3敗1分で並んだグリーンベイ・パッカーズと西カンファレンス優勝を賭けて、プレイオフで対戦することとなったが、ユナイタスに加え、控えクォーターバックも怪我により出場できなかったため、優勝を果たすことができなかった。 1966年、怪我が回復したユナイタスはシーズン全試合に出場し、2748ヤード、22タッチダウンと、プロボウルに選出される活躍をしたが、リーグ1位の24インターセプトを喫したのが響き、西カンファレンス2位でシーズンを終えた。 1967年、ユナイタスはNFLトップのパス成功率58.5%、3428ヤード、20タッチダウンの活躍で、3度目のMVPに選ばれた。テニス肘に悩まされシーズン最後の5試合では3タッチダウン、8インターセプトであった。チームはロサンゼルス・ラムズと同率の11勝1敗2分でシーズンを終えた。 1968年、プレシーズンゲーム最終週のダラス・カウボーイズ戦で腕を負傷、シーズンの大半をベンチで過ごした。控えQBのアール・モラルがMVPに選ばれる活躍を見せ、チームはNFLトップの13勝1敗でシーズンを終えた。第3回スーパーボウルでは、不調のモラルに代わり交代出場し、タッチダウンをあげたがチームは7-16で敗れて、ジョー・ネイマスの約束どおり、AFLのニューヨーク・ジェッツに敗れた。この試合は、ネイマスの宣言内容から「The guarantee」という名前で知られ、格下と思われていたAFLのジェッツが、1960年代のNFLを代表するコルツを破ったことで、2年後に控えたNFLとAFLの合併をファンが徐々に受け入れるきっかけになったとされている。 1969年、オフシーズンのリハビリを経て、先発QBに返り咲いたユナイタスは、2342ヤード、12タッチダウン、20インターセプトを記録、チームは8勝5敗1分でプレーオフを逃した。 1970年、AFLとNFLの統合によって、コルツはクリーブランド・ブラウンズ、ピッツバーグ・スティーラーズとともにAFCに所属することとなった。スーパーボウル以来の対戦となったジェッツ戦では双方合計で9インターセプトを喫した。ユナイタスは、この年2212ヤード、14タッチダウンを記録した。プレーオフではシンシナティ・ベンガルズ、オークランド・レイダースを相手に2試合で390ヤード、3タッチダウン、インターセプトは0であった。ダラス・カウボーイズとの第5回スーパーボウルではジョン・マッキーへの75ヤードのタッチダウンパスを決めたが、第2Qに倒された際、肋骨を痛めてサイドラインに下がり、アール・モラルが途中出場した。チームはジム・オブライエンの決勝FGで16-13と勝利した。 1971年、レギュラーシーズンの試合ではモラルと併用されて、わずか3タッチダウンに終わった。プレーオフ2試合では先発出場し、クリーブランド・ブラウンズ戦には勝利したもののマイアミ・ドルフィンズとのAFCチャンピオンシップゲームではディック・アンダーソンに2回インターセプトされるなど、3インターセプトを喫し、0-21で敗れた。 1972年、メモリアル・スタジアムで行われたジェッツ戦では376ヤード、3タッチダウンの活躍を見せたが、ネイマスが496ヤード、6タッチダウンと大活躍して34-44で敗れた。チームは開幕から5試合で1勝4敗となり、ドン・マクファーティヘッドコーチは解任、ユナイタスも先発QBから外れた。最終週のバッファロー・ビルズ戦で28-0とリードした試合途中から交代出場し、エディ・ヒントンへの長いタッチダウンパスを成功、これがコルツでの最後のパスとなった。
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ボルチモア・コルツ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 03:23 UTC 版)
「インディアナポリス・コルツ」の記事における「ボルチモア・コルツ」の解説
一方、初代ボルチモア・コルツは、1946年にAAFCに創設されたマイアミ・シーホークスを前身とし、同チームが1947年にボルチモアに移転して誕生した。このコルツは1950年にNFLに加盟し、シーズンを1勝11敗で終えた。同チームは1950年のシーズン後に解散したが、ファンクラブやマーチングバンドなどの支援団体は活動を続け、チームの復活を働きかけた。詳しくは、en:Baltimore Colts (1947-50) を参照。 1953年、キャロル・ローゼンブルームが、新生NFLボルチモア・コルツの筆頭オーナーとなった。1958年、プロフットボール殿堂入りヘッドコーチ、ウィーブ・ユーバンクの下、同じく殿堂入りクォーターバックのジョニー・ユナイタス率いるコルツは、ヤンキースタジアムでのNFLチャンピオンシップで、ニューヨーク・ジャイアンツを23-17と下した。延長戦となったこの試合は、「史上最高の試合」とも称される)。コルツは翌1959年にもジャイアンツに31-16と勝利し、NFLチャンピオンシップを獲得。1960年代前半、コルツはNFL上位チームの地位を堅持していたが、1964年のNFLチャンピオンシップではクリーブランド・ブラウンズの前に0-27と敗れた。 1967年、コルツはレギュラーシーズンの最終週を無敗のまま迎えたが、ロサンゼルスでのロサンゼルス・ラムズ戦で10-34と敗れた。コルツ、ラムズ共に11勝1敗2分けであったため、この直接対決で勝利したラムズが西カンファレンス海岸地区の1位となり、コルツはプレイオフに進出することができなかった(両チームの同シーズン初対決は、ボルチモアのホームで24-24の引き分けに終わっている)。 1968年、シーズン成績13勝1敗のコルツは、ブラウンズとの再戦のチャンスを得、NFLチャンピオンシップゲームで34-0とブラウンズを下した。このレギュラーシーズンの成績とブラウンズ戦の圧勝により、コルツは「史上最も偉大なフットボール・チーム」とマスコミから称されることになった。ボビー・ボイド (DB)、マイク・カーティス (LB)、ジョン・マッキー (TE)、トム・マッテ (RB)、フレッド・ミラー (DL)、アール・モラル (QB)、ウィリー・リチャードソン (WR)、ボブ・ビューゲル (OL) といったプロボウル出場メンバーを擁するコルツは、第3回スーパーボウル(公式に「スーパーボウル」と呼ばれることになった初の大会)に出場した。スプレッドの賭けではコルツが17点有利とされたがこの試合では番狂わせが待っていた。ジョー・ネイマスとマット・スネルの率いるAFLチャンピオンニューヨーク・ジェッツに7-16と敗れた。この試合では試合途中から怪我のため先発出場しなかったジョニー・ユナイタスも交代出場したが逆転はならなかった。皮肉にも、このときのジェッツのヘッドコーチは、かつてコルツを2度のNFLチャンピオンに導いたウィーブ・ユーバンクであった。 1970年、NFLとAFLの統合された際にクリーブランド・ブラウンズ、ピッツバーグ・スティーラーズと共にボルチモア・コルツはAFCに移り、オークランド・レイダースを27-17と下してAFCチャンピオンシップを獲得した。コルツは、統合後最初のスーパーボウル、第5回スーパーボウルでNFCのダラス・カウボーイズと戦い、ジム・オブライエンのフィールドゴールで16-13と勝利した。 1972年7月13日、ローゼンブルームとロバート・アーセイは、コルツとロサンゼルス・ラムズの所有権を交換したが、両チームの本拠地は変わらなかった。コルツは1970年代、さらに4回のプレイオフ出場を成し遂げた。1971年はワイルドカードで出場、1975年から1977年にかけて3年連続でAFC東地区優勝を果たした。この3年間、チームを引っ張ったのは、NFLで最も優秀なディフェンシブライン (通称「サック・パック」)だった。しかし、1978年以降、チームは9シーズンに及ぶ低迷期に入る。1978年最初の2試合、コルツは無得点に終わった。これはNFLチームとして初の記録であった。1981年のチーム最大の課題は、ディフェンスだった。コルツはNFL記録となる533失点を喫し、サック数は史上最低の13、パントリターン数は近年のNFL最低記録の12だった。翌年は、オフェンスが崩壊した。1982年11月28日、リッチ・スタジアムでのバッファロー・ビルズ戦で、コルツのオフェンスチームは、一試合を通じて一度も敵陣に攻め込むことができなかった。18年後の2000年まで、NFLで同様の記録が作られることはなかった。1982年は、57日間に及ぶ選手のストライキのために9試合しか行われず、コルツは0勝8敗1分けでこのシーズンを終えた。
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