ボルチモア・コルツとは? わかりやすく解説

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ボルチモア・コルツ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/11/07 04:13 UTC 版)

ボルチモア・コルツBaltimore Colts




「ボルチモア・コルツ」の続きの解説一覧

ボルチモア・コルツ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/04 07:42 UTC 版)

ババ・スミス」の記事における「ボルチモア・コルツ」の解説

1967年のNFLドラフトでボルチモア・コルツ(現:インディアナポリス・コルツ)から全体1位で指名され入団した2年目1968年コルツレギュラーシーズン13勝1敗で終えてNFLチャンピオンシップゲーム制した第3回スーパーボウル前に対戦相手ニューヨーク・ジェッツQBジョー・ネイマスが「日曜試合では我々が勝利する」と宣言したが、これを聞いたNFL有数のパスラッシャーとなっていたスミスは「奴はそんなことを発言するべきではなかった。プロそのようなことは言わないものだ。」と述べた試合はネイマスの宣言どおりとなり、コルツ7-16敗れた2年後1970年NFLAFL統合が行われ、コルツクリーブランド・ブラウンズピッツバーグ・スティーラーズとともにほぼAFL所属チーム構成されAFC移った。そのシーズン第5回スーパーボウル優勝に彼は貢献した。この試合コルツダラス・カウボーイズを16-13で破り優勝果たしたが、ターンオーバー多かったこの試合得たスーパーボウルリングを彼は公共の場につけて登場することはなかった。コルツ在籍した時代、彼はオールプロ1回、オール・カンファレンスに2回、プロボウルに2回選出された。

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ボルチモア・コルツ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/29 10:44 UTC 版)

第3回スーパーボウル」の記事における「ボルチモア・コルツ」の解説

詳細は「1968 Baltimore Colts season(英語)」を参照 プレシーズンゲームでネイマスの少年時代あこがれだった偉大なQBジョニー・ユナイタスが右ひじを負傷したため、この年アール・モラルが先発QB務めたモラルQBレイティング93.2とリーグトップの成績シーズン終えてMVP選ばれた。彼の活躍もありヘッドコーチドン・シュラはユナイタスが怪我から回復後モラル先発QBとして起用し続けたチーム10連勝果たしその間4試合では完封勝ち相手与えたタッチダウンはわずか7つ13勝1敗でシーズン終えたプレーオフではミネソタ・バイキングスを24-14で破りウェスタンカンファレンスタイトル獲得シーズン中唯一敗れた相手であるクリーブランド・ブラウンズとのNFLチャンピオンシップゲーム34-0勝利したシーズン終了後多くアメリカ国民コルツ史上最強チームであり、第1回スーパーボウル第2回スーパーボウル連覇したヴィンス・ロンバルディグリーンベイ・パッカーズよりも強いのではないか考えたオフェンスはNFL2位の402得点をあげ、WRのジミー・オーアは29回のキャッチ743ヤード平均25.6ヤード)を獲得、6TD、ウィリー・リチャードソンは37回のキャッチ698ヤード平均18.91ヤード)、8TD、TEジョン・マッキー45回のキャッチで644ヤード獲得、5TDをあげた。またRBのトム・マットはチームトップの662ヤード走り9TD、レシーブでも25回のキャッチ275ヤード獲得、1TDをあげてプロボウル選出された。またテリー・コール、ジェリー・ヒルの2人RB合計778ヤード走りレシーブでも236ヤード稼いだディフェンスリーグ最少144失点当時NFLタイ記録)でトータルランディフェンスはNFL3位の1,339ヤードしか相手に許さなかった。ババ・スミスNFL最高のパスラッシャーであると見なされておりライン統率した。またLBのマイク・カーティスもNFL最高のLBと見なされていた。ディフェンスバックもボビー・ボイドが8インターセプト、リック・ボルクが6インターセプト、レニー・ライルズが5インターセプトジェリー・ローガンが3インターセプトをあげる活躍見せたコルツ当時NFL唯一ゾーンディフェンス導入しており、ゾーンディフェンス慣れていないNFLの他のチームに対して優位に試合進めていた。(AFLではゾーンディフェンス一般的となっておりジェッツとの対戦ではこれは有利な点とは言えなかった。)

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ボルチモア・コルツ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 20:53 UTC 版)

ジョニー・ユナイタス」の記事における「ボルチモア・コルツ」の解説

1956年入団テスト経て、ウィーブ・ユーバンクヘッドコーチ率いるボルチモア・コルツに入団した先発クォーターバック負傷により、移籍1年目途中から出場機会得たユナイタスは、プロデビュー戦こそインターセプトファンブル連発し、酷い敗戦喫したが、翌週からはプレー立て直しパス成功率55.6%の新人記録打ち立てた1957年開幕から先発クォーターバックの座を獲得しリーグ1位の2,550パスヤードと24タッチダウン記録しチームを7勝5敗に導いた。これはチーム創設5年目シーズン迎えていたコルツにとって、過去最高の成績であったこの年ジム・ソープ賞を受賞した1958年この年もユナイタスのパス冴え渡り、2,007パスヤードと19タッチダウン記録しチームを9勝3敗で西カンファレンス優勝導いたNFLチャンピオンシップでは、東カンファレンス優勝ニューヨーク・ジャイアンツ延長戦の末にアラン・アメチーへのTDパス成功させて23-17で破った全米中継されたこの試合は、アメリカでThe Greatest Game Ever Played史上最高の試合)」と呼ばれ1960年代フットボール人気爆発的に拡大させるきっかけになった1959年前年よりもさらに記録伸ばした。ユナイタスは2,899パスヤードと32タッチダウン記録し、9勝3敗で西カンファレンス2連覇果たし、初のシーズンMVP輝いたNFLチャンピオンシップでは、前年再戦となったニューヨーク・ジャイアンツ破り2年連続NFLチャンピオン輝いた1960年代入ってもユナイタスのパス冴え渡り続け個人成績では3千ヤード前後のパスヤードを記録していたものの、チームの主要メンバーであるアミーチ、レイモンド・ベリー、レニー・ムーアらの怪我に悩まさせ、チーム優勝争いから遠ざかった1962年シーズン終了後、キャロル・ローゼンブルームオーナーは、ユーバンクヘッドコーチを解雇33歳であったドン・シュラ当時史上最年少NFLチームヘッドコーチ就任させた。 1964年、後に名ヘッドコーチとして名を馳せるドン・シュラヘッドコーチの下、チーム躍進した。ユナイタスは2,824パスヤードと19タッチダウン記録し2度目シーズンMVP輝きチームは西カンファレンス優勝果たした。しかし、NFLチャンピオンシップでは、クリーブランド・ブラウンズ27対0の完封負け喫しファン失望させた。 1965年この年もユナイタス、チーム共に好調保っていたが、シーズン終盤にユナイタスが膝を怪我すると、チーム失速し10勝3敗1分で並んだグリーンベイ・パッカーズと西カンファレンス優勝賭けてプレイオフ対戦することとなったが、ユナイタスに加え控えクォーターバック怪我により出場できなかったため、優勝を果たすことができなかった。 1966年怪我回復したユナイタスはシーズン全試合出場し、2748ヤード22タッチダウンと、プロボウル選出される活躍をしたが、リーグ1位の24インターセプト喫したのが響き、西カンファレンス2位シーズン終えた1967年、ユナイタスはNFLトップパス成功率58.5%、3428ヤード20タッチダウン活躍で、3度目MVP選ばれた。テニス肘悩まされシーズン最後の5試合では3タッチダウン、8インターセプトであったチームロサンゼルス・ラムズ同率11勝1敗2分でシーズン終えた1968年、プレシーズンゲーム最終週ダラス・カウボーイズ戦で腕を負傷シーズン大半ベンチ過ごした控えQBのアール・モラルがMVP選ばれる活躍見せチームNFLトップ13勝1敗でシーズン終えた第3回スーパーボウルでは、不調モラル代わり交代出場しタッチダウンをあげたがチーム7-16敗れてジョー・ネイマス約束どおり、AFLニューヨーク・ジェッツ敗れた。この試合は、ネイマスの宣言内容から「The guarantee」という名前で知られ格下思われていたAFLジェッツが、1960年代NFL代表するコルツ破ったことで、2年後控えたNFLAFL合併ファン徐々に受け入れきっかけになったとされている。 1969年オフシーズンリハビリ経て先発QB返り咲いたユナイタスは、2342ヤード12タッチダウン20インターセプト記録チームは8勝5敗1分でプレーオフ逃した1970年AFLNFL統合によって、コルツクリーブランド・ブラウンズピッツバーグ・スティーラーズとともにAFC所属することとなったスーパーボウル以来対戦となったジェッツ戦では双方合計で9インターセプト喫した。ユナイタスは、この年2212ヤード14タッチダウン記録したプレーオフではシンシナティ・ベンガルズオークランド・レイダース相手に2試合で390ヤード、3タッチダウンインターセプトは0であったダラス・カウボーイズとの第5回スーパーボウルではジョン・マッキーへの75ヤードのタッチダウンパスを決めたが、第2Q倒された際、肋骨痛めてサイドラインに下がり、アール・モラルが途中出場した。チームジム・オブライエン決勝FGで16-13と勝利した1971年レギュラーシーズン試合ではモラル併用されて、わずか3タッチダウン終わったプレーオフ2試合では先発出場しクリーブランド・ブラウンズ戦には勝利したもののマイアミ・ドルフィンズとのAFCチャンピオンシップゲームではディック・アンダーソンに2回インターセプトされるなど、3インターセプト喫し0-21敗れた1972年メモリアル・スタジアム行われたジェッツ戦では376ヤード、3タッチダウン活躍見せたが、ネイマスが496ヤード、6タッチダウン大活躍して34-44で敗れたチーム開幕から5試合で1勝4敗となり、ドン・マクファーティヘッドコーチは解任、ユナイタスも先発QBから外れた最終週バッファロー・ビルズ戦で28-0リードした試合途中から交代出場し、エディ・ヒントンへの長いタッチダウンパスを成功、これがコルツでの最後パスとなった

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ボルチモア・コルツ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 03:23 UTC 版)

インディアナポリス・コルツ」の記事における「ボルチモア・コルツ」の解説

一方初代ボルチモア・コルツは、1946年AAFC創設されマイアミ・シーホークス前身とし、同チーム1947年ボルチモア移転して誕生した。このコルツ1950年NFL加盟しシーズンを1勝11敗で終えた。同チーム1950年シーズン後解散したが、ファンクラブマーチングバンドなどの支援団体活動続けチーム復活働きかけた。詳しくは、en:Baltimore Colts (1947-50) を参照1953年、キャロル・ローゼンブルームが、新生NFLボルチモア・コルツの筆頭オーナーとなった1958年プロフットボール殿堂入りヘッドコーチ、ウィーブ・ユーバンクの下、同じく殿堂入りクォーターバックジョニー・ユナイタス率いコルツは、ヤンキースタジアムでのNFLチャンピオンシップで、ニューヨーク・ジャイアンツを23-17と下した延長戦となったこの試合は、「史上最高の試合」とも称される)。コルツは翌1959年にもジャイアンツに31-16と勝利しNFLチャンピオンシップ獲得1960年代前半コルツNFL上位チーム地位堅持していたが、1964年のNFLチャンピオンシップではクリーブランド・ブラウンズ前に0-27と敗れた1967年コルツレギュラーシーズン最終週無敗のまま迎えたが、ロサンゼルスでのロサンゼルス・ラムズ戦で10-34と敗れたコルツラムズ共に11勝1敗2分けであったため、この直接対決勝利したラムズが西カンファレンス海岸地区の1位となり、コルツプレイオフ進出することができなかった(両チームの同シーズン対決は、ボルチモアホームで24-24の引き分け終わっている)。 1968年シーズン成績13勝1敗のコルツは、ブラウンズとの再戦チャンスを得、NFLチャンピオンシップゲーム34-0ブラウンズ下した。このレギュラーシーズン成績ブラウンズ戦の圧勝により、コルツは「史上最も偉大なフットボール・チーム」とマスコミから称されることになったボビー・ボイド (DB)、マイク・カーティス (LB)、ジョン・マッキー (TE)、トム・マッテ (RB)、フレッド・ミラー (DL)、アール・モラル (QB)、ウィリー・リチャードソン (WR)、ボブ・ビューゲル (OL) といったプロボウル出場メンバー擁するコルツは、第3回スーパーボウル(公式に「スーパーボウル」と呼ばれることになった初の大会)に出場したスプレッド賭けではコルツ17点有利とされたがこの試合では番狂わせ待っていた。ジョー・ネイマスとマット・スネルの率いAFLチャンピオンニューヨーク・ジェッツに7-16敗れた。この試合では試合途中から怪我のため先発出場しなかったジョニー・ユナイタス交代出場した逆転はならなかった。皮肉にも、このときのジェッツヘッドコーチは、かつてコルツ2度NFLチャンピオン導いたウィーブ・ユーバンクであった1970年NFLAFL統合された際にクリーブランド・ブラウンズピッツバーグ・スティーラーズと共にボルチモア・コルツはAFC移りオークランド・レイダースを27-17と下してAFCチャンピオンシップ獲得したコルツは、統合後最初スーパーボウル第5回スーパーボウルNFCダラス・カウボーイズ戦いジム・オブライエンフィールドゴールで16-13と勝利した1972年7月13日、ローゼンブルームとロバート・アーセイは、コルツロサンゼルス・ラムズ所有権交換したが、両チーム本拠地は変わらなかった。コルツ1970年代、さらに4回のプレイオフ出場成し遂げた1971年ワイルドカード出場1975年から1977年にかけて3年連続AFC東地区優勝果たした。この3年間、チーム引っ張ったのは、NFLで最も優秀なディフェンシブライン通称サック・パック」)だった。しかし、1978年以降チームは9シーズンに及ぶ低迷期に入る。1978年最初の2試合コルツ無得点終わった。これはNFLチームとして初の記録であった1981年チーム最大課題は、ディフェンスだった。コルツNFL記録となる533失点喫しサック数は史上最低の13パントリターン数は近年NFL最低記録12だった。翌年は、オフェンス崩壊した1982年11月28日リッチ・スタジアムでのバッファロー・ビルズ戦で、コルツオフェンスチームは、一試合通じて一度敵陣攻め込むことができなかった。18年後の2000年までNFL同様の記録作られることはなかった。1982年は、57日間に及ぶ選手ストライキのために9試合しか行われず、コルツは0勝8敗1分けでこのシーズン終えた

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