后妃・皇子女とは? わかりやすく解説

后妃・皇子女

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仁徳天皇」の記事における「后妃・皇子女」の解説

皇后(前):葛城磐之媛いわのひめのみこと、石之日売命。葛城襲津彦の女)大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと、履中天皇住吉仲皇子すみのえのなかつみこ、墨江中津王) 瑞歯別尊(みずはわけのみこと、反正天皇雄朝津間稚子宿禰尊(おあさつまわくごのすくねのみこと、允恭天皇酒人王 - 岡崎市坂戸酒人神社祭神皇后(後):八田皇女 妃:日向髪長媛(ひむかのかみながひめ。諸県君牛諸井の女)大草香皇子(おおくさかのみこ、大日王・波多毘能大郎子草香幡梭姫皇女(くさかのはたびのひめみこ皇女若日下部命雄略天皇皇后 なお『古事記』では宇遅之若郎女(うじのわきいらつめ菟道稚郎姫皇女応神天皇皇女)とも結ばれたとしているほか、黒日売(くろひめ。吉備海部直の女)という女性登場するが、黒日売は妃になってはいない。 仁徳天皇男系皇統玄孫にあたる武烈天皇嗣子なく崩御したため途絶えるものの、同じく玄孫武烈天皇の姉にあたる手白香皇女橘仲皇女が、何も傍系(弟の稚野毛二派皇子の子孫で、手白香皇女継体天皇橘仲皇女宣化天皇)たる天皇皇后となって嗣子手白香皇女継体天皇欽明天皇橘仲皇女宣化天皇石姫皇女をもうけ石姫皇女欽明天皇皇后となり敏達天皇)をもうけ、その嗣子皇統今日皇室へと続いている。

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后妃・皇子女

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亀山天皇」の記事における「后妃・皇子女」の解説

皇后藤原洞院)佶子(京極院)(1245年 - 1272年) - 洞院実雄第一皇女:晛子内親王1262年 - 1264年第一皇子知仁親王1265年 - 1267年第二皇子世仁親王後宇多天皇)(1267年 - 1324年中宮藤原西園寺)嬉子(今出川院)(1252年 - 1318年) - 西園寺公相女御藤原近衛位子新陽明門院)(1262年 - 1296年) - 近衛基平第八皇子:啓仁親王1276年 - 1278年第十皇子:継仁親王1279年 - 1280年女院藤原西園寺)瑛子(昭訓門院)(1273年 - 1336年) - 西園寺実兼第十四皇子恒明親王1303年 - 1351年) - 常盤井宮家の祖 典侍:源(久我)通能女第三皇子:性覚法親王1267年 - 1293年典侍藤原三条)実平女第四皇子:良助法親王1268年 - 1318年第六皇子:聖法親王1271年 - 1314年第七皇子:覚法親王1272年 - 1323年第五皇女九条師教典侍藤原正親町三条)実任女第五皇子守良親王? - ?) - 五辻宮家の祖 典侍藤原法性寺雅子 - 法性寺雅平第二皇女憙子内親王昭慶門院)(1273年 - 1324年典侍平時仲女(帥典侍第九皇子:順助法親王1279年 - 1322年第十皇子慈道法親王1282年 - 1341年第二皇子行円法親王 宮人藤原洞院)禖子 - 洞院実雄第三皇女理子内親王1274年 - 1282年宮人貫川京極院雑仕皇女(? - 1329年):近衛家基室、近衛経平母 宮人:玄駒法師女兼良親王 宮人藤原寿子 - 藤原景房女叡法親王(定良親王宮人三条公親女性法親王 宮人小倉公雄女恒法親王 宮人民部卿三位 - 北畠師親もしくは広橋経光女。後、亀山天皇の孫の後醍醐天皇との間に護良親王儲ける。聖護院准后尊珍法親王

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後深草天皇」の記事における「后妃・皇子女」の解説

中宮藤原西園寺公子東二条院1232年 - 1304年) - 西園寺実氏女、母后大宮院の妹。後嵯峨天皇猶子第二皇女貴子内親王1262年 - 1273年皇女某(1265年 - 1266年第三皇女姈子内親王遊義門院1270年 - 1307年) - 後二条天皇准母(?)、皇后宮、のち後宇多上皇女院藤原洞院)愔子(玄輝門院1246年 - 1329年) - 洞院実雄第二皇子熈仁親王伏見天皇1265年 - 1317年第三皇子:性仁法親王(満仁親王1267年 - 1304年) - 仁和寺 第四皇女久子内親王永陽門院1272年 - 1346年宮人藤原西園寺相子土御門准后) - 西園寺公相第五皇女媖子内親王陽徳門院1288年 - 1352年宮人藤原西園寺成子大納言二位局) - 西園寺公経第一皇子:常仁親王(? - 1264年第四皇子幸仁親王1269年 - 1272年宮人藤原三条房子二位局) - 三条公親第五皇子:行覚法親王1274年 - 1293年) - 円満院 第七皇子久明親王1276年 - 1328年) - 鎌倉幕府第8代将軍 第九皇子:増覚法親王 第六皇女永子内親王章善門院、? - 1338年宮人三善忠子(民部卿局左衛門佐局、? - 1299年) - 三善康衡女第六皇子:深性法親王1275年 - 1299年) - 仁和寺 宮人別当典侍 - 高倉通女第八皇子:恒助法親王1288年 - 1310年) - 円満院 宮人後深草院二条1258年 - ?) - 源雅忠女皇子某(1273年 - 1274年生母不詳皇子某(1263年 - 1266年

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土御門天皇」の記事における「后妃・皇子女」の解説

中宮藤原大炊御門麗子陰明門院)(1185年 - 1243年) - 大炊御門頼実典侍:源(土御門通子(? - 1221年) - 源通宗春子女王1210年 - 1230年覚子内親王正親町院)(1213年 - 1285年仁助法親王1215年 - 1262年) - 四天王寺別当 静仁法親王1216年 - 1296年) - 法住寺熊野三山検校 邦仁王後嵯峨天皇)(1220年 - 1272年宮人高階氏美作掌侍) - 高階仲資女皇女 道法親王1209年 - 1263年) - 園城寺長吏 宮人源氏 - 源貞光女秀子女王 宮人:某氏尾張局) - 法橋覚安(覚宴?)女尊守法親王1210年 - 1260年宮人源氏 - 法印尋恵女尊助法親王1217年 - 1290年) - 天台座主四天王寺別当 宮人藤原氏治部卿局) - 法印定勝女道法親王1210年 - 1240年) - 蓮華光院 信子女王 宮人源氏大宮局) - 源有雅曦子内親王仙華門院)(1224年 - 1262年) - 伊勢斎宮 宮人藤原氏 - 法眼円誉女最仁法親王1227年? - 1295年) - 天台座主 宮人藤原氏宮内卿局) - 藤原範光女知子女王 宮人:藤原氏 - 律師兼尊女増仁 - 延暦寺 宮人源氏左京大夫局) - 僧都証遍女諄子内親王(? - 1260年) - 准三宮 宮人某氏丹波局) - 法橋顕女是子女王 生不明懐尊 - 園城寺 寂恵 皇女野依姫宮) - 北陸宮猶子上記いずれの皇女不明

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雄略天皇」の記事における「后妃・皇子女」の解説

皇后草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ16代仁徳天皇皇女) 妃:葛城韓媛かつらぎのからひめ。葛城円大臣の女)白髪皇子(しらかのみこ、22代清寧天皇栲幡姫皇女(たくはたひめのひめみこ稚足姫皇女とも) 斎宮 妃:吉備稚媛(きびのわかひめ。吉備上道臣の女。もと吉備上道臣田狭の妻。吉備兄君吉備弟君の母)磐城皇子(いわきのみこ) 難波小野王23代顕宗天皇皇后)の祖父 星川稚宮皇子ほしかわわかみやのみこ) 妃:意比売 和珥臣深目 妹 妃:和珥童女君(わにのわらわきみ。春日和珥臣深目の女)春日大娘皇女かすがのおおいらつめひめみこ高橋皇女24代仁賢天皇皇后25代武烈天皇手白香皇女26代継体天皇皇后29代欽明天皇の母)・橘仲皇女28代宣化天皇皇后)の母 皇后草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ)は叔母に当たる。即位後、求婚に向かう道の途中で志貴県主参考志貴県主神社)の館が鰹木上げて皇居似ている難癖をつけて布を掛けた手に入れ、それを婚礼みやげ物にして草香幡梭姫皇女皇后とした。葛城韓媛前述眉輪王事件焚殺した葛城円大臣娘。また、吉備稚媛吉備上道田狭元妻で、女房自慢聞きつけた天皇が田狭を任那国司飛ばし留守の間奪い盗ってしまっている。以上のように大泊天皇雄略天皇)はかなり強引にその后妃集めている。 大泊天皇血筋男系では途切れたものの、皇女春日大娘皇女仁賢天皇皇后となっており、その娘の手白香皇女継体天皇皇后となって欽明天皇産んでいることから、その血筋女系通じて現在の皇室まで続いている。

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宇多天皇」の記事における「后妃・皇子女」の解説

女御皇太夫人):藤原温子872年 - 907年) - 藤原基経均子内親王890年 - 910年) - 敦慶親王女御贈皇太后):藤原胤子(? - 896年) - 藤原高藤敦仁親王醍醐天皇)(885年 - 930年敦慶親王887年 - 930年) - 二品式部卿 敦固親王(? - 926年) - 二品兵部卿 柔子内親王(892? - 958年) - 斎宮六条斎宮敦実親王893年 - 967年) - 一品式部卿 女御橘義子 - 橘広相斉中親王885年 - 891年斉世親王(真寂入道親王)(886年 - 927年) - 三品兵部卿 斉邦親王 君子内親王(? - 902年) - 賀茂斎院 女御菅原衍子 - 菅原道真源順子? - ?) - 藤原忠平室(宇多天皇女を疑う説あり) 女御房子(? - 893年更衣:源貞子 - 源昇依子内親王(895 - 936年更衣徳姫女王 - 十世王女孚子内親王(? - 958年更衣藤原保子 - 藤原有実女誨子内親王(? - 952年) - 元良親王季子内親王(? - 979年更衣源久更衣藤原静子 尚侍藤原褒子 - 藤原時平女雅明親王920年 - 929年) 行明親王926年 - 948年) - 四品上総太守 載明親王? - ?宮人伊勢 - 藤原継蔭女、藤原温子女房皇子 生母不明行中親王(? - 909年成子内親王(? - 979年) 源臣子 宇多天皇から見て光仁天皇男系父方光孝天皇)では5世祖であるが、女系母方班子女王)では高祖父にあたる。 宇多天皇若年時からの妻は藤原胤子橘義子などで、宇多天皇臣籍降下源氏となっていた頃に生まれた第一皇子敦仁親王(後の醍醐天皇)・第二皇子斉中親王第三皇子斉世親王生誕時は源氏であった女御藤原温子関白藤原基経の娘で、宇多天皇即位後に入内した。女御藤原胤子病没後、皇太子敦仁親王養母となり、醍醐天皇即位に伴い皇太夫人となる。晩年東七条宮亭子院)に住んだため、東七条后、七条后とも呼ばれた橘義子所生斉世親王は、菅原道真の女を妻としたことから、後年菅原道真誣告に際してその名が取り沙汰された。また女御菅原衍子道真の女である。 宇多天皇の孫は、ほとんどが源氏の姓を賜り臣籍降下した。 宇多天皇から出た源氏宇多源氏といい、敦実親王から出た系列が最も栄えた敦実親王の子源雅信左大臣務め、その娘倫子藤原道長正室となり、上東門院一条天皇中宮藤原彰子)や関白藤原頼通の母となった朝廷貴族としての地位維持した子孫としては、公家庭田家綾小路家(ともに羽林家)などがあり、また雅信から近江土着した武家佐々木氏出ている。 『大和物語』において、宇多天皇亭子院敦慶親王は故式部卿の宮、依子内親王は「女五のみこ」、孚子内親王は「のみこ」として、それぞれ登場する

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安寧天皇」の記事における「后妃・皇子女」の解説

(名称は『日本書紀』第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載皇后渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめのみこと、渟名襲媛)『日本書紀』本文よる。事代主神の子天日方奇日方命娘。 ただし、同書第1の一書では磯城県主葉江の娘の川津媛、第2の一書では大間宿禰の娘の糸井媛とし、『古事記』では師木県主波延(河俣毘売の兄)の娘の阿久斗比売(あくとひめ)とする。この波延は世代的に磯城県主の黒速の息子にあたり、黒速が天日方奇日方命の別名と見られることから、波延は系図にいう太祁知遅若命と見る説もある。また阿久斗比売は単に渟名底仲媛命の別名と見る向きもある。 第一皇子息石耳命(おきそみみのみこと)『紀』一書・『記』では、息石耳命代えて常津彦某兄(常根津日子伊呂泥命)を入れる。 第二皇子大日本彦耜友尊おおやまとひこすきとものみこと、大倭日子鉏友命) - 第4代懿徳天皇皇子磯城津彦命(しきつひこのみこと、師木津日子命) - 使連の祖(紀)。子に和知都美命(蠅伊呂泥伊呂姉妹の父)(記)。 『日本書紀』本文では子を息石耳命大日本彦耜友尊2人とするが、同書一書『古事記』では常津彦某兄・大日本彦耜友天皇磯城津彦命の3人とする。

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孝昭天皇」の記事における「后妃・皇子女」の解説

(名称は『日本書紀』第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載皇后世襲足媛(よそたらしひめ、余曽多本毘売命)『日本書紀』本文『古事記』よる。尾張連祖の瀛津世襲奥津余曽)の妹。 ただし、同書第1の一書では磯城県主葉江の娘の渟名城津媛、第2の一書では倭国豊秋太媛の女の大井媛とする。 第一皇子天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと、天押帯日子命) - 和珥臣・春日氏小野氏諸氏族の祖。 第二皇子日本足彦国押人尊(やまとたらしひこくにおしひとのみこと、大倭日子国押人命) - 第6代孝安天皇

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孝霊天皇」の記事における「后妃・皇子女」の解説

(名称は『日本書紀』第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載皇后細媛命(くわしひめのみこと/ほそひめのみこと、細比売命)『日本書紀』本文『古事記』よる。磯城県主(または十市県主大目娘。 ただし、書紀第1の一書では春日千乳早山香媛、第2の一書では十市県主祖の真舌媛とする。 皇子大日本根子彦国牽尊おおやまとねこひこくにくるのみこと、大倭根子日子国玖琉命) - 第8代孝元天皇。 妃:春日千乳早山香媛かすがのちちはややまかひめ、春日千千速真若比売)皇女千千速比売命(ちちはやひめのみこと:古事記) - 日本書紀なし。 妃:倭国香媛やまとのくにかひめ、絙某姉/蠅伊呂泥/意富夜麻登玖邇阿礼比売命) - 和知都美命の女。皇女倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと、夜麻登登母母曽毘売命) 皇子日子刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと:古事記) - 日本書紀なし。高志利波臣・豊国之国前臣・五百君・角鹿海直の祖(記)。 皇子彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと、比古伊佐勢理毘古命/吉備津彦命/大吉備津日子命) - 吉備上道臣の祖(記)。 皇女:倭迹迹稚屋姫命(やまとととわかやひめのみこと、倭飛羽矢若屋比売) 妃:絙某弟(はえいろど、伊呂) - 絙某姉の妹。皇子彦狭島命(ひこさしまのみこと、日子寤間命) - 針間牛鹿臣の祖(記)。 皇子稚武彦命わかたけひこのみこと、若日子建吉備津日子命) - 吉備臣の祖(紀)。吉備下道臣・笠臣の祖(記)。 妃:真舌媛(ましたひめ) - 十市県主大日彦の娘。

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懿徳天皇」の記事における「后妃・皇子女」の解説

(名称は『日本書紀』第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載皇后天豊津媛命(あまとよつひめのみこと)『日本書紀』本文よる。息石耳命の娘で、懿徳天皇の姪にあたる。 ただし、同書第1の一書では猪手磯城県主葉江の男弟)の娘の泉媛、第2の一書では磯城県主太真稚彦の娘の飯日媛とし、『古事記』では師木県主の祖の賦登麻和訶比売命(ふとまわかひめのみこと、亦名を飯日比売命)とする。 皇子観松彦香殖稲尊(みまつひこかえしねのみこと、御真津日子訶恵志泥命) - 第5代孝昭天皇皇子武石彦奇友背命(たけしひこくしともせのみこと、『日本書紀』一書多芸志比古命:『古事記』) - 日本書紀本文なし。血沼之別・多遅摩之竹別・葦井之稲置らの祖(記)。

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孝安天皇」の記事における「后妃・皇子女」の解説

(名称は『日本書紀』第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載皇后押媛 (おしひめ、忍鹿比売命)『日本書紀』本文『古事記』よる。天足彦国押人命の娘で、孝安天皇の姪にあたる。 ただし、書紀第1の一書では磯城県主葉江の娘の長媛、第2の一書では十市県主五十坂彦の娘の五十坂媛とする。 皇子大吉備諸進命(おおきびのもろすすみのみこと:古事記) - 日本書紀なし。 皇子大日本根子彦太瓊尊おおやまとねこひこふとにのみこと、大倭根子日子賦斗邇命) - 第7代孝霊天皇

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仲哀天皇」の記事における「后妃・皇子女」の解説

皇后気長足姫尊おきながたらしひめのみこと神功皇后息長宿禰王の女)誉田別命ほむたわけのみこと応神天皇) 妃:大中姫命(おおなかつひめのみこと。彦人大兄の女)麛坂皇子(かごさかのみこ、香坂王忍熊皇子(おしくまのみこ) 妃:弟媛おとひめ。来熊田造の祖・大酒主の女)誉屋別皇子(ほむやわけのみこ、古事記では神功皇后所生

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孝元天皇」の記事における「后妃・皇子女」の解説

皇后欝色謎命(うつしこめのみこと、内色許売命) - 穂積遠祖欝色雄命内色許男命)の妹。第一皇子大彦命(おおひこのみこと、大毘古命) - 四道将軍1人阿倍臣・膳臣・阿閉臣・狭々城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣ら7族の祖(紀)。 皇子:少彦男心命(すくなひこおこころのみこと:日本書紀一書、少名日子心命) - 日本書紀本文なし。古事記では次男とする。 第二皇子稚日本根子彦大日日尊わかやまとねこひこおおひひのみこと、若倭根子日子大毘毘命) - 第9代開化天皇皇女:倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと) - 古事記なし。 妃:伊香色謎命(いかがしこめのみこと、伊賀迦色許売) - のち開化天皇皇后崇神天皇の母。皇子彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと、比古布都押之信命) - 武内宿禰祖父古事記では父)。 妃:埴安媛(はにやすひめ、波邇夜須毘売) - 河内青玉繋の娘。皇子武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと、建波邇夜須毘古命)

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開化天皇」の記事における「后妃・皇子女」の解説

皇后伊香色謎命(いかがしこめのみこと) - 元は孝元天皇の妃。第二皇子御間城入彦五十瓊殖尊(みまきいりびこいにえのみこと、御真木入日子印恵命) - 第10代崇神天皇皇女御真津比売命(みまつひめのみこと:古事記) - 日本書紀なし。 妃:丹波竹野媛(たにわのたかのひめ、竹野比売) - 丹波大県由碁理娘。第一皇子:彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと、比古由牟須美命) 妃:姥津媛(ははつひめ意祁都比売命) - 彦国姥津命(日子国意祁都命、和珥氏祖)の妹。第三皇子彦坐王(ひこいますのみこ、日子坐王) 妃:鸇比売(わしひめ) - 葛城国造葛城垂見宿禰娘。皇子:建豊波豆和気王(たけとよはづらわけのみこ:古事記) - 日本書紀なし。 『帝王編年記』『本朝皇胤紹運録』など中世編纂の史書には、以上の后妃のうち鸇比売のみが見えず代わりに吉備津彦命の女の包媛(色媛?)が挙げられている。 『住吉大社神代記』では、彦太忍信命開化の子とする。

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允恭天皇」の記事における「后妃・皇子女」の解説

皇后忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ。稚渟毛二派皇子の女)第一皇子 木梨軽皇子(きなしのかるのみこ皇太子 第一皇女 名形大娘皇女(ながたのおおいらつめのみこ) 第二皇子 境黒彦皇子さかいのくろひこのみこ) 第三皇子 穴穂皇子(あなほのみこ、安康天皇第二皇女 軽大娘皇女かるのおおいらつめのみこ) 第四皇子 八釣白彦皇子(やつりのしらひこのみこ) 第五皇子 大泊瀬稚武皇子(おおはつせわかたけるのみこ、雄略天皇第三皇女 但馬大娘皇女(たじまのたちばなおおいらつめのみこ) 第四皇女 酒見皇女(さかみのひめみこ) 妃:弟姫おとひめ衣通郎姫(そとおりのいらつめ)、皇后の妹)

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神武天皇」の記事における「后妃・皇子女」の解説

特記以外は『日本書紀』本文よる。「紀」は『日本書紀』を、「記」は『古事記』をさす。) 妃:吾平津媛(あいらつひめ、記:阿比良比売日向国田邑(あたのむら出身。記によれば、兄は阿多之小君。『古代豪族系図集覧』は火闌降命海幸彦神武天皇大伯父)の娘とする。 第1皇子手研耳命(たぎしみみ の みこと)神武天皇崩後、皇太子神渟名川耳尊対す反逆タギシミミの反逆)を起こし殺害された。 皇子岐須美美命(きすみみ、『古事記』) - 『先代旧事本紀』。紀に記載なし。 皇后媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと、記:富登多多良伊須須岐比売命/比売多多良伊須気余理比売事代主神娘。記では大物主神娘。 皇子彦八井耳命(ひこやいみみ の みこと、『本朝皇胤紹運録』彦八井命) - 『先代旧事本紀』。紀に記載なし。なお、『本朝皇胤紹運録』および『先代旧事本紀』は綏靖天皇の弟とする。茨田氏・手島氏の祖(記)。 第2皇子神八井耳命(かんやいみみ の みこと、神八井命多氏・火氏・阿蘇氏科野国造等の祖(紀・記)。 第3皇子神渟名川耳尊(かんぬなかわみみ の みこと、神渟名川尊、渟名川耳尊)綏靖天皇第2代天皇)。 天照大神以降配偶者 天照大神アマテラス須佐之男命スサノオ天忍穂耳命アメノ オシホ ミミ栲幡千千姫タクハタチヂ ヒメ邇邇芸命ニニギ木花之佐久夜毘売コノハナノ サクヤ ビメ火遠理命ホオリ豊玉姫トヨタマ ヒメアマテラスの姪) 鸕鶿草葺不合命(ウガヤ フキアエズ玉依姫タマヨリ ヒメトヨタマヒメの妹) 若御毛沼命ワカミケヌ神武天皇、四男) 媛蹈鞴五十鈴媛命ヒメ タタラ イスズ ヒメ彦五瀬命(ヒコイツセ、長男稲飯命イナイ二男三毛入野命(ミケイリノ、三男火闌降命(ホスソリ)- - - 隼人 火明命ホアカリ) - - - 尾張氏 天穂日命アメノ ホヒ) 天甕津日女神(アメノ ミカツ ヒメ出雲氏

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后妃・皇子女

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綏靖天皇」の記事における「后妃・皇子女」の解説

(名称は『日本書紀』第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載皇后五十鈴依媛命いすずよりひめのみこと)『日本書紀』本文よる。事代主神の娘で、綏靖天皇叔母(母の妹)にあたる。 ただし、同書第1の一書では磯城県主の娘の川派媛、第2の一書では春日県主大日諸命の女の糸織媛とし、『古事記』では師木県主の祖の河俣毘売(かわまたびめ)とする。ただし大日諸命は神武朝に活躍した天種子命中臣氏の祖)の子にあたるため、実際に大日諸命の妹の誤記であると見られる皇子磯城津彦玉手看尊(しきつひこたまてみのみこと、師木津日子玉手見命) - 第3安寧天皇

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后妃・皇子女

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醍醐天皇」の記事における「后妃・皇子女」の解説

20人に近い女御更衣をかかえ、保明親王文献彦太子)・代明親王重明親王吏部王)・源高明臣籍降下)・兼明親王前中書王)・寛明親王朱雀天皇)・成明親王村上天皇)をはじめ、36人の子女をもうけた中宮藤原穏子885年 - 954年) - 関白藤原基経第二皇子保明親王文献彦太子)(903年 - 923年) - 醍醐天皇皇太子 第十四皇女:康子内親王(919-957) - 一品准三宮右大臣藤原師輔第十四皇子寛明親王朱雀天皇)(923年 - 952年第十皇子成明親王村上天皇)(926年 - 967年) 妃:為子内親王(? - 899年) - 光孝天皇皇女宇多天皇同母第一皇女:勧子内親王899年 - ?) - 四品 女御源和子(? - 947年) - 光孝天皇皇女第四皇女慶子内親王903年 - 923年)- 敦固親王第五皇子常明親王906年 - 944年) - 四品刑部卿 第六皇子式明親王907年 - 966年) - 三品中務卿 第七皇子有明親王910年 - 961年) - 三品兵部卿 第十三皇女:韶子内親王918年 - 980年) - 賀茂斎院 第十皇女斉子内親王921年 - 936年) - 伊勢斎宮 女御藤原能子(? - 964年) - 右大臣藤原定方女御藤原和香子(? - 935年) - 大納言藤原定国更衣:源封子 - 源旧鑑第二皇女宣子内親王902年 - 920年)- 賀茂斎院 第一皇子克明親王903年 - 927年) - 三品兵部卿 第十皇女靖子内親王915年 - 950年) -大納言藤原師氏更衣藤原鮮子(? - 915年) - 藤原連永女第三皇女恭子内親王902年 - 915年) - 斎院 第三皇子代明親王904年 - 937年) - 三品中務卿 第六皇女婉子内親王904年 - 969年) - 斎院三品 第九皇女敏子内親王906年 - ?) - 無品、または母は源周子 更衣源昇第四皇子重明親王906年 - 954年) - 三品式部卿 更衣:源周子近江更衣)(? - 935年) - 源唱第五皇女勤子内親王904年 - 938年) - 四品右大臣藤原師輔第七皇女:都子内親王905年 - 981年) - 無品 第十皇女雅子内親王909年 - 954年) - 四品伊勢斎宮右大臣藤原師輔第八皇子:時明親王912年 - 927年第十皇子源高明914年 - 982年皇女 : 源兼子915年 - 972年第十皇子盛明親王928年 - 986年) - 四品 更衣満子女王(? - 920年) - 相輔王女第八皇女:修子内親王(? - 933年) - 元良親王第十皇女:普子内親王910 - 947年) - 源清平室、後に藤原俊連室 更衣藤原淑姫(? - 948年) - 参議藤原菅根第九皇子: 長明親王913年 - 953年第十皇子兼明親王前中書王)(914年 - 987年) - 一品中務卿 第十皇女英子内親王921年 - 946年皇子源自明911年 - 958年更衣藤原桑子御息所) - 中納言藤原兼輔第十三皇子:章明親王924年 - 990年) - 二品弾正尹 更衣中将更衣 - 藤原伊衡女皇子:源為明(? - 961年更衣:源敏相女皇子:源允明919年 - 942年更衣源清更衣藤原同子 更衣:源暖子 生不明皇女源厳子

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后妃・皇子女

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聖武天皇」の記事における「后妃・皇子女」の解説

皇后光明皇后701年 - 760年) - 藤原不比等女(母は県犬養三千代)、母・宮子の異母妹皇女阿倍内親王孝謙称徳天皇718年 - 770年) - 史上唯一の女性皇太子 第一皇子基王727年 - 728年) - 聖武天皇皇太子 夫人県犬養広刀自(? - 762年) - 県犬養唐女、県犬養三千代のはとこの孫皇女井上内親王717年? - 775年) - 光仁天皇皇后孫:酒人内親王754年 - 829年) - 桓武天皇妃 孫:他戸親王761年? - 775年) - 光仁天皇皇太子 皇女不破内親王723年? - 795年?) - 塩焼王氷上塩焼)妃孫:氷上志計志麻呂氷上川継 第二皇子安積親王728年 - 744年夫人南殿(? - 748年) - 藤原武智麻呂女、藤原不比等孫 夫人橘古那可智(? - 759年) - 橘佐為女、県犬養三千代孫 夫人北殿(? - 760年) - 藤原房前女(母は牟漏女王)、藤原不比等の孫、県犬養三千代の孫

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后妃・皇子女

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応神天皇」の記事における「后妃・皇子女」の解説

皇后仲姫命(なかつひめのみこと、中日売命) - 品陀真若王五百城入彦皇子王子)女荒田皇女(あらたのひめみこ、木之荒田郎女大鷦鷯尊おおさざきのみこと大雀命仁徳天皇) 根皇子(ねとりのみこ) - 大田君祖 妃:高城入姫命(たかきのいりびめ、高木入日売命) - 品陀真若王女、仲姫命同母額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ) 大山守皇子おおやまもりのみこ) - 土形君・榛原君祖 去来真稚皇子(いざのまわかのみこ、伊奢之真若命) - 深河別祖 大原皇女おおはらのひめみこ) - 『先代旧事本紀』は弟姫命所生とする。 澇来田皇女(こむくたのひめみこ高目郎女) 妃:弟姫命おとひめ弟日売命) - 品陀真若王女、仲姫命同母阿倍皇女(あへのひめみこ淡路御原皇女(あわじのみはらのひめみこ、阿具知能三腹郎女) - 根皇子妃 紀菟野皇女(きのうののひめみこ、木之菟野郎女) 滋原皇女(しげはらのひめみこ) - 記紀見えず、『先代旧事本紀』より補う。 三野郎女(みののいらつめ) 妃:宮主宅媛(みやぬしやかひめ、宮主矢河比売) - 和珥日触使主女。『先代旧事本紀』には物部多遅摩連女の山無媛とある。菟道稚郎子皇子うじのわきいらつこのみこ、宇遅能和郎子) - 応神天皇皇太子 矢田皇女(やたのひめみこ八田皇女八田郎女) - 仁徳天皇皇后仁徳異母兄雌鳥皇女(めとりのひめみこ、女鳥王) - 隼総別皇子妃(隼総別異母弟)。仁徳求婚されたが隼総別結婚し、のちに仁徳反逆したことにより夫婦とも殺害される。 妃:小甂媛(おなべひめ) - 和珥日触使主女、宮主宅媛妹。『先代旧事本紀』には物部多遅摩連女の香室媛とある。菟道郎女皇女(うじのわきいらつめひめみこ宇遅能若郎女) - 仁徳天皇妃(仁徳異母兄) 妃:息長若中比売(おきながまわかなかつひめ、弟媛) - 河派仲彦王(息長田別王子日本武尊孫)女稚野毛二派皇子(わかぬけのふたまたのみこ、若沼毛二俣王) - 息長君等祖、継体天皇高祖父忍坂大中姫衣通姫父 妃:糸媛(いとひめ糸井比売) - 桜井田部連島垂根女、男鉏妹隼総別皇子はやぶさわけのみこ、隼別皇子、速総別命) 妃:日向泉長媛(ひむかのいずみのながひめ)大葉皇子(おおはえのみこ、大羽江王) 小葉皇子(おはえのみこ、小羽江王) 幡日之若郎女(はたびのわかいらつめ) - 履中天皇皇后 妃:迦具漏比売(かぐろひめ) - 須売伊呂大中日子稚武彦王子日本武尊孫)王女川原田郎女(かわらたのいらつめ) 玉郎女たまのいらつめ) (忍坂大中比売) - 以下の2皇女稚野毛二派皇子であろう。 (登富志郎女) 迦多遅王(かたじのみこ、堅石王) 妃:葛城野伊呂売(かつらぎののいろめ、怒能伊呂比売?) - 武内宿禰女?(伊奢能麻和迦王) - 去来真稚皇子重複か。 妃:兄媛(えひめ) - 吉備武彦命稚武彦命子)女、吉備御友別

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后妃・皇子女

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後鳥羽天皇」の記事における「后妃・皇子女」の解説

中宮藤原九条任子宜秋門院1173年 - 1238年) - 九条兼実第一皇女昇子内親王春華門院1195年 - 1211年) - 順徳天皇准母皇后宮 女院源在子承明門院1171年 - 1258年) - 法勝寺執行能円女、源通親養女第一皇子為仁親王土御門天皇1195年 - 1231年女院藤原高倉)重子(修明門院1182年 - 1264年) - 高倉範季第三皇子守成親王順徳天皇1197年 - 1242年皇子雅成親王六条宮1200年 - 1255年) - 承久の乱但馬配流 皇子尊快入道親王寛成親王1204年 - 1246年) - 天台座主 後宮藤原氏坊門局・西御方) - 坊門信清第二皇子道助入道親王長仁親王1196年 - 1249年) - 仁和寺御室 第三皇女礼子内親王嘉陽門院1200年 - 1273年) - 賀茂斎院 皇子頼仁親王冷泉宮、1201年 - 1264年) - 承久の乱後備前へ配流 後宮:源氏兵衛督局・加賀内侍) - 源信康女第二皇女粛子内親王高辻斎宮1196年 - ?) - 伊勢斎宮 更衣某氏尾張局、? - 1204年) - 法眼清女皇子道覚入道親王朝仁親王1204年 - 1250年) - 天台座主 後宮藤原氏大宮局・対御方) - 藤原定能女皇子:尊円法親王1207年 - 1231年) - 園城寺長吏聖護院 皇子:行超 - 延暦寺 典侍藤原氏?(少納言典侍坊門局同一人?)皇子道守1198年 - ?) - 仁和寺 後宮某氏亀菊伊賀局) - 刑部丞某女 後宮某氏滝(? - 1265年皇子覚仁法親王桜井宮、1198年 - 1266年) - 園城寺長吏熊野三山検校 後宮某氏石(丹波局・右衛門督局)皇女凞子内親王深草斎宮1205年 - ?) - 伊勢斎宮 後宮某氏(舞女姫法師皇子覚誉 - 禅林寺 皇子:道縁 - 仁和寺 皇子:道伊 - 園城寺 生母不詳皇子:某(一条宮、1201年 - 1213年皇女1202年 - 1207年法華系の一部著作では日蓮後鳥羽皇胤であるとするものもあるが、同時代にはそのような史料がなく、史実とは見られていない

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后妃・皇子女

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花山天皇」の記事における「后妃・皇子女」の解説

女御藤原忯子969年 - 985年) - 太政大臣為光次女 女御藤原姚子971年 - 989年) - 大納言朝光の女 女御藤原諟子(? - 1035年) - 関白太政大臣忠次女御婉子女王972年 - 998年) - 一品式部卿為平親王女、のち藤原実資再嫁 中務(平祐之女)清仁親王(? - 1030年) - 四品弾正尹花山源氏の祖 皇女2人 平平子(平祐忠女、母は中務昭登親王998年 - 1035年) - 四品中務卿 皇女(? - 1024年) - 上東門院女房 皇女 その他(生母不詳覚源1000年 - 1065年) 深観(1001年 - 1050年出家前入内した正式な后妃は、流産死した忯子以外に子は出来ず天皇退位出家とともにこれらの女御実家下がった出家後、乳母子中務とその娘平平子を同時に寵愛して子を産ませたため、世の人中務の腹に授かった清仁親王を「母腹宮」、平子の腹に授かった昭登親王を「女腹宮」と称した2人皇子寛弘元年1004年)に冷泉上皇猶子となり、それぞれ冷泉院五宮六宮として親王宣下受けた清仁親王は、白川伯王家祖先となった。 なお、『栄花物語によれば皇女4人のうち、平子腹の皇女1人のみ成長したという。しかし万寿元年1024年12月6日にこの皇女上東門院彰子女房)は夜中路上殺され翌朝野犬食われた酷たらしい姿で発見された(『小右記』)。この事件は京の公家たちを震撼させ、検非違使捜査にあたり、翌万寿2年1025年7月25日容疑者として法師隆範捕縛、その法師隆範藤原道雅の命で皇女殺害した自白し人々驚愕させた。藤原道雅の父は、花山法皇に矢を射掛けたあの藤原伊周である(事件そのもの7月28日にこの殺害事件起こした盗賊首領という者が自首したため藤原道雅からの指示という点は有耶無耶になってしまった)。 また、藤原伊尹末娘花山天皇の母・藤原懐子異母妹花山天皇には叔母にあたる)九の御方寵愛していたが、中務平子らと懇ろになると、異母弟為尊親王薦めて九の御方結婚させたという(『栄花物語』)。

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后妃・皇子女

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景行天皇」の記事における「后妃・皇子女」の解説

皇后(前):播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ) - 若建吉備津日子角別王(くしつのわけのみこ) 大碓皇子(おおうすのみこ) - 身毛津君(牟宜都国造)等祖 小碓尊おうすのみこと日本武尊) - 仲哀天皇皇后(後):八坂入媛命(やさかいりびめのみこと) - 八坂入彦命女稚足彦尊(わかたらしひこのみこと、成務天皇五百城入彦皇子(いおきいりびこのみこ) 忍之別皇子(おしのわけのみこ、押別命) 稚倭根子皇子わかやまとねこのみこ) 大酢別皇子(おおすわけのみこ) 渟熨斗皇女(ぬのしのひめみこ沼代郎女五百城入姫皇女(いおきいりびめのひめみこ) 香依姫皇女(かごよりひめのひめみこ五十狭城入彦皇子(いさきいりびこのみこ、気入彦命?) - 御使連祖 吉備兄彦皇子(きびのえひこのみこ) 高城入姫皇女(たかぎいりびめのひめみこ弟姫皇女おとひめひめみこ) 妃:歯郎媛(みずはのいらつめ) - 磐衝別命女、石城王妹五百皇女(いおののひめみこ、久須姫命) - 伊勢斎宮 妃:五十河媛(いかわひめ)神櫛皇子(かむくしのみこ) - 讃岐公讃岐国造)・酒部公祖 稲背入彦皇子(いなせいりびこのみこ) - 佐伯直播磨直(播磨国造)祖 妃:高田媛(たかだひめ) - 阿部氏阿部木事武国凝別皇子(たけくにこりわけのみこ) - 伊予別・和気公等祖 妃:日向髪長大田根(ひむかのかみながおおたね)日向襲津彦皇子(ひむかのそつびこのみこ) 妃:襲武媛(そのたけひめ)国乳別皇子(くにちわけのみこ) 国背別皇子(くにせわけのみこ、宮道皇子豊戸別皇子(とよとわけのみこ) 妃:日向御刀媛(ひむかのみはかしびめ)豊国皇子とよくにわけのみこ) - 日向国造祖 妃:伊那毘若郎女いなびのわかいらつめ) - 若建吉備津日子女、播磨稲日大郎姫真若王(まわかのみこ、真稚彦命) 彦人大兄命(ひこひとおおえのみこと) 妃:五十琴姫命(いごとひめのみこと) - 物部胆咋宿禰五十功彦命(いごとひこのみこと) - 伊勢刑部君、三川三保君祖 (以下は母不詳多くは『先代旧事本紀』に拠る若木入日子王(わかきのいりひこのみこ) - 五十狭城入彦皇子同一人か 銀王しろがねのみこ、女性) 稚屋彦命(わかやひこのみこと) 天帯根命(あまたらしねのみこと) 武国皇別命(たけくにこうわけのみこ) - 武国凝別命同一人か 大曽色別命(おおそしこわけのみこと) 石社別命(いわこそわけのみこと) 武押別命たけおしわけのみこと)- 忍之別命同一人か 豊門別命(とよとわけのみこと) - 豊戸別皇子同一人、三嶋水間君、庵智首、壮子首、粟首、筑紫火別君祖 不知来入彦命(いさくいりひこのみこと) - 五十狭城入彦皇子同一人 曽能目別命(そのめわけのみこと) 十市入彦命(とおちいりびこのみこと) 襲小橋別命(そのおはしわけのみこと) - 菟田小橋別祖 色己焦別命(しここりわけのみこと) 息長彦人大兄水城命(おきながのひこひとおおえのみずきのみこと) - 彦人大兄命同一人か、庵智白幣造祖 熊忍津彦命(くまのおしつひこのみこと) - 日向穂別祖 武弟別命(たけおとわけのみこと) - 立知備別祖 見皇命(くしみみこのみこと) - 讃岐国造草木命(くさきのみこと) - 日向君祖 稚根子皇子命(わかねこのみこのみこと) - 稚倭根子皇子同一人か 兄彦命(えひこのみこと) - 大分穴穂御埼別、海部直、三野之宇泥須別祖先 宮道別命(みやぢわけのみこと) - 国背別皇子同一人 手事別命(たごとわけのみこと) 大我別命おおあれとわけのみこと) 三川宿禰命(みかわのすくねのみこと) 豊手別命(とよてわけのみこと) 倭宿禰命(やまとのすくねのみこと) - 三川大伴部直祖 豊津彦命(とよつひこのみこと) 弟別命(おとわけのみこと) - 牟宜都君祖 大焦別命(おおこりわけのみこと) 『古事記』によれば記録残っている御子21人、残らなかった御子59人、合計80人の御子がいたことになっている

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后妃・皇子女

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反正天皇」の記事における「后妃・皇子女」の解説

夫人津野媛(つのひめ。大宅臣の祖の和珥木事の女)香火皇女(かいひめのひめみこ甲斐郎女) 円皇女(つぶらのひめみこ) 妃:弟媛おとひめ津野媛の妹)財皇女(たからのひめみこ古事記に財王で男性高部皇子(たかべのみこ、古事記に多訶弁郎女女性) なお、「皇夫人」と称されたのは史上津野媛ただ一人である(「皇太夫人」とは異なる)。皇后立てなかったのは、成務天皇次いで史上2人目。

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后妃・皇子女

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成務天皇」の記事における「后妃・皇子女」の解説

妃:弟財郎女(おとたからのいらつめ。穂積氏遠祖建忍山垂根の女) - 『古事記』和謌奴気王(わかぬけのみこ) 妃:吉備郎姫(きびのいらつめ。稚倭根子皇子の女。天皇の姪) 『日本書紀』に后妃・皇子女の記載は無い。

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后妃・皇子女

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伏見天皇」の記事における「后妃・皇子女」の解説

中宮西園寺鏱子永福門院)は京極派代表する大歌人で、典侍北畠親子勅撰集53首が入集した有力歌人である。 中宮藤原西園寺)鏱子(永福門院)(1271年 - 1342年) - 西園寺実兼養子胤仁親王後伏見天皇女院藤原洞院季子顕親門院)(1265年 - 1336年) - 洞院実雄第一皇女璹子内親王朔平門院)(1287年 - 1310年第三皇子:寛性法親王1289年 - 1346年) - 仁和寺御室 第三皇女延子内親王延明門院)(1291年 - ?) 第四皇子富仁親王花園天皇)(1297年 - 1348年典侍准三后):藤原(五辻)経子中園准后) - 五辻経氏第一皇子胤仁親王後伏見天皇)(1288年 - 1336年典侍従三位):権大納言局 - 源(北畠親子 - 源(中院)具氏女北畠師親養女第六皇子尊悟入道親王1299年 - 1359年宮人従三位):洞院藤原英子 - 洞院公宗第二皇女誉子内親王章義門院)(? - 1336年宮人従三位):藤原正親町)守子(東御方) - 正親町実明女皇子:寛胤法親王 皇子:道凞法親王 掌侍三善衡子(播磨内侍) - 三善俊衡女第五皇子尊円法親王1298年 - 1356年藤原高倉)茂通女第七皇子:尊凞法親王 宮人春日局 - 僧任快女第二皇子:恵助法親王1289年 - 1328年宮人:西御方 - 僧深源女第八皇子:聖珍法親王

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后妃・皇子女

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後二条天皇」の記事における「后妃・皇子女」の解説

中宮藤原徳大寺)忻子(長楽門院)(1283年 - 1352年) - 徳大寺公孝尚侍藤原一条)頊子(万秋門院)(1268年 - 1338年) - 一条実経典侍藤原(五辻)宗子中納言典侍) - 五辻宗親第一皇子邦良親王1300年 - 1326年) - 後醍醐天皇皇太子子孫木寺宮家第二皇子邦省親王1302年 - 1375年) - 花町宮始祖掌侍平氏勾当内侍) - 平棟俊女第一皇女㛹子内親王(㛹は女偏に便。寿成門院)(1302年 - 1362年宮人藤原氏権大納言局) - 三条公泰第三皇子祐助法親王1302年 - 1359年) - 天台座主 第四皇子:聖尊法親王1303年 - 1370年第三皇女栄子内親王? - ?第五皇女:某(? - ?宮人藤原氏御匣殿) - 三条公親第五皇子尊済法親王1304年 - 1329年) - 円満院 宮人平氏 - 平信輔女第四皇女:瑒子内親王(瑒は王偏に昜) 宮人藤原氏新大納言局) - 法眼良珍女第二皇女:珉子内親王? - ?

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后妃・皇子女

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嵯峨天皇」の記事における「后妃・皇子女」の解説

皇后橘嘉智子檀林皇后)(786年 - 850年) - 橘清友正良親王仁明天皇)(810年 - 850年正子内親王810年 - 879年) - 淳和天皇皇后 秀良親王817年 - 895年) 秀子内親王(? - 850年俊子内親王(? - 826年芳子内親王(? - 839年繁子内親王(? - 865年) 妃:高津内親王(? - 841年) - 桓武天皇皇女業良親王(? - 868年業子内親王(? - 815年) 妃:多治比高子788年 - 826年) - 多治比氏女 夫人:藤原緒夏(? - 855年) - 藤原内麻呂女御百済王慶命(? - 849年) - 百済王教俊源善姫(814年 - ?) 源定815年 - 863年源鎮824年 - 881年) 源若姫(? - ?女御百済王貴命(? - 851年) - 百済王俊哲女基良親王(? - 831年忠良親王819年 - 876年) 基子内親王(? - 831年女御大原浄子(? - 841年) - 大原家継女仁子内親王(? - 889年) - 伊勢斎宮 更衣飯高刀自 - 飯高岳足女源常812年 - 854年源明814年 - 853年更衣秋篠高子(または康子京子) - 秋篠安人女?源清? - ?更衣山田近子源啓829年 - 869年) 源密姫 宮人交野女王 - 山口王有智子内親王807年 - 847年) - 賀茂斎院 宮人高階子 - 高浄階宗子内親王(? - 854年宮人:広井氏 - 広井弟名女源信810年 - 868年宮人布勢武蔵子源貞姫(810年 - 880年) 源端姫(? - 876年宮人上毛野氏源弘812年 - 863年宮人安倍氏 - 安倍楊津源寛813年 - 876年宮人:笠継子 - 笠縫または笠仲守源生821年 - 872年宮人粟田氏源安822年 - 853年宮人大原全子 - 大原真室源融822年 - 895年源勤824年 - 881年) 源盈姫 宮人:紀氏源更姫 宮人:内蔵影子 - 内蔵高守女?源神姫 源容姫 源吾姫 宮人:甘南備氏源声姫 宮人:文室文子 - 文室久賀麻呂純子内親王(? - 863年斉子内親王(? - 853年) - 葛井親王室 淳王 宮人:田中氏源澄(? - ?宮人:惟良氏源勝(? - 886年宮人大中臣岑子 - のち藤原有統の妾 宮人春子 宮人長岡氏 - 長岡岡成源賢 女嬬当麻氏 - 当麻治田麻呂源潔姫809年 - 856年) - 藤原良房室 源全姫(812年 - 882年) - 尚侍 掌侍菅原子 生不明源継 源年姫(? - 874年) 源良姫(? - 884年弘仁元年810年11月23日橘嘉智子多治比高子藤原緒夏とともに叙位受けている、広長女王、藤野女王継子女王藤原松子坂上御井子(坂上田村麻呂の娘か)、藤原子、万子橘清友の娘)、三善弟姉、三国真主も嵯峨天皇后妃考えられる

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