伏見天皇
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伏見天皇(ふしみてんのう、1265年5月10日〈文永2年4月23日〉- 1317年10月8日〈文保元年9月3日〉)は、日本の第92代天皇(在位:1287年11月27日〈弘安10年10月21日〉- 1298年8月30日〈永仁6年7月22日〉)[14]。諱は熙仁(ひろひと)。
注釈
- ^ 中世史研究者の中井裕子は、娘を粗略に扱う亀山を恨んでいた関東申次西園寺実兼が後深草に接近し、後深草皇統への皇位継承を幕府に働きかけたという指摘を挙げ、そのため後深草の出家の意向表明は、後深草が将来を悲観したのではなく、後深草側を有利にするための戦略であったとしている[20]。
- ^ 現代語訳:今の執権時宗朝臣もたいへんりっぱな人物で、「後深草院がこのように御出家なさろうとすることは、まことにおそれ多く、お気の毒な御ことである。後嵯峨院の御遺詔は深いわけがあるだろうが、後深草院は大ぜいの御兄弟の御兄上で、これといった御過失もおありにならないだろうのに、どうして急に皇位から関係がなくなってしまわれる、そんなことがあってよかろうか(よくないことだ)」といって、亀山院へも奏上し、あちらもこちらも(両上皇の)仲を和らげ申して、(後深草院)の東の御方の若宮(煕仁親王)を皇太子にお立てになった[21]。
- ^ 亀山や伏見などが行った、「徳政」「徳政政策」「公家徳政」と呼ばれる中世公家政権の政治改革において、「雑訴の興行」が特に重視されたのは、徳政令に象徴されるように、「徳政」の根幹が「旧領回復」にあるとされ、その「旧領回復」は訴訟によって実現されるので、その手続きの充実、すなわち「雑訴の興行」を行うことで「徳政」が実現されると考えられたためである[49]。
- ^ 「雑訴法」(ざっそほう)とは、所領関係の法規定のことであり、「民事訴訟手続法」「雑訴関係手続き法」ともいうべきものである[65]。中世史研究者の森茂暁は、持明院統の治世下で発された「雑訴法」として、「延慶法」「文保法」のほかに、永仁年間成立の「永仁法」、正和3年(1314年)11月13日成立の「正和法」の存在を指摘している[66]。
- ^ つくづくと 見ぬ空までも かなしきは 一人きく夜の 軒の春雨
- ^ 我もかなし 草木も心 いたむらし 秋風ふれて 露くだる頃
出典
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- ^ 宮内省諸陵寮 編『陵墓要覧 昭和9年11月調』1934,p.32。
- ^ 宮内庁「-天皇陵-伏見天皇 深草北陵」2024年3月7日閲覧
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