日向髪長媛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 11:03 UTC 版)
応神天皇11年、誉田天皇(応神天皇)は日向国の髪長媛という麗しい娘の噂を聞き、二年後に都へ召し上げた。諸県君牛諸井(もろがたのきみ うしもろい)という豪族の娘である。その髪長媛が難波津に到着し、桑津邑に留まっていた際、即位前の大鷦鷯尊(仁徳天皇)は一目見るなり惚れこんでしまった。そこで大臣の武内宿禰を通じて髪長媛を譲ってもらえないか頼み込んだ。そこで誉田天皇は初めて髪長媛を召した宴席に大鷦鷯尊を加わらせた。そして髪長媛を差して歌を詠んだ。 いざ吾君 野に蒜摘みに 蒜摘みに 我が行く道に 香細し 花橘 下枝らは 人皆取り 上つ枝は 鳥居枯らし 三栗の 中つ枝の 含隱り 赤れる孃子 いざさかば 良な この歌は天皇が髪長媛を諦めることを意味していた。喜んだ大鷦鷯尊は返歌をした。 水渟る 依網の池に ぬな繰り 延へけく知らに 堰杙著く 川俣江の 菱殻の 刺しけく知らに 吾が心し いや愚にして 大鷦鷯尊と髪長媛はすぐに懇ろとなり、二人きりで歌を詠みあった 道の後 こはだおとめを 神の如 聞えしかど 相枕まく 道の後 こはだおとめを 争はず 寝しくをしぞ 愛しみ思ふ
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