陸奥宗光 脚注

陸奥宗光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/17 23:45 UTC 版)

脚注

参考文献

  • 岡崎久彦『陸奥宗光』(上・下)(PHP研究所、1987-88年)、のちPHP文庫
  • 岡崎久彦『陸奥宗光とその時代』「外交官とその時代 第1巻」 PHP研究所、1999年、新版2009年、のちPHP文庫
  • 萩原延壽責任編集・解説「陸奥宗光紀行」、『日本の名著(35) 陸奥宗光』(中央公論社、1973年)、新版・中公バックス

評伝

  • 萩原延壽 『陸奥宗光』、朝日新聞社(2分冊)、1997年。新版「著作集 2・3」同、2007年
  • 佐々木雄一『陸奥宗光 「日本外交の祖」の生涯』、中央公論新社「中公新書」、2018年

関連項目

関連作品

映画
TVドラマ
小説
舞台劇
漫画

外部リンク

公職
先代
岩村通俊
農商務大臣
第6代:1890年5月17日 - 1892年3月14日
次代
河野敏鎌
先代
榎本武揚
外務大臣
第5代:1892年8月8日 - 1896年5月30日
次代
西園寺公望
先代
伊藤博文(→欠員)
租税頭
1872年 - 1874年
次代
松方正義
日本の爵位
先代
陞爵
伯爵
陸奥家初代
1895年 - 1897年
次代
陸奥廣吉
先代
叙爵
子爵
陸奥家初代
1894年 - 1895年
次代
陞爵

注釈

  1. ^ このとき、同時にこの職に任命されたのは長州出身の伊藤博文井上馨薩摩出身の五代友厚寺島宗則中井弘の5人であった。ここで陸奥はイギリス公使パークスの暗殺未遂事件などの対外事件を処理している。
  2. ^ のちに陸奥はこのことを「粗豪にして身を誤ること三十年」(『山形繋獄』)と詩に詠んでいる。
  3. ^ 日本及日本人』所載「雲間寸観」によれば、林・大江は暗殺すべき人物として秘簿をつくった。そのなかには大隈重信の名もあったが、陸奥はこれを一見して、一人重要な人間が抜けていると言い、自ら筆をとって伊藤博文の名を加えた。林は大江は、陸奥は平生より伊藤と親しいから、志成った場合は伊藤を推してもよいだろうと考えていたので、陸奥が伊藤の名を加えたのを見て、ひそかに驚いたという。
  4. ^ 試験採用による職業外交官の制度が確立したのは陸奥の外相時代である。
  5. ^ 不平等条約改正に最も反対していたイギリスが態度を軟化させた背景にはロシアの極東進出に対する懸念があった。イギリスの条約改正交渉には「改正後も函館の貿易港としての使用を認めること」という交渉条件が付けられていた。陸奥は、函館の条件さえ呑めば条約改正に応じるに違いないと判断し、ロンドン青木公使宛に「必要あらば、条約改正後も、函館を貿易港と定めても苦しからず」と打電する。返電はイギリスが条約改正交渉に応じるというものだった。
  6. ^ 高田早苗によれば、陸奥の伊藤に対する態度がいかにも恭しく、あたかも属僚が長官に対して意見を申し述べる風だったという(『半峯昔ばなし』)。また、李鴻章との談判のとき、陸奥の娘が大病で危篤状態だったが陸奥は「談判の済むまでは家のことはいってよこすな」と言い置いて来たが、陸奥の顔色の冴えないのを伊藤が怪しんで問いただしたので事実を語った。伊藤は驚いて、「あとは俺が引き受けたから君は帰り給え」といった。それで陸奥は帰ったが幸いにして娘は命を取りとめた。しかし、それから間もなく亡くなったという(『平沼騏一郎回顧録』)。
  7. ^ 宗光の死後、二男潤吉が養子入りした古河家の所有となり、現在は古河電気工業が管理している。
  8. ^ 陸奥の最後の枕頭を見舞った親友中島信行に「僕は妻子に別るるもあえて悲しまず、家事また念頭になし、ただ政治より脱することを遺憾とす」と述べた。心底からの政治好きだったのである。

出典

  1. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)「陸奥宗光」
  2. ^ 陸奥宗光外務大臣の功績を教育に活かす実行委員会 『陸奥宗光伯の略年譜』
  3. ^ 母方の渥美勝都も治宝派排斥により失脚している。
  4. ^ 帆足 図南次「変革期の知識人としての陸奥宗光」『日本建築学会計画系論文集』第1969巻第1号、英学史研究、1969年、36-44頁、ISSN 1883-9282 
  5. ^ 陸奥宗光(むつ・むねみつ 1844-1897)関西大学 東西学術研究所 2020年6月17日閲覧
  6. ^ 『大日本維新史料稿本』第四部 コマ856「豊崎縣知事陸奥宗光陽之助ヲ兵庫縣知事ト為ス」
  7. ^ 衆議院議員之証(陸奥宗光関係文書108-66)
  8. ^ a b c d e f g h i j 陸奥宗光」 アジア歴史資料センター Ref.A06051166200 
  9. ^ 『官報』第1119号「叙任及辞令」1887年3月28日。
  10. ^ 『官報』第2086号「叙任及辞令」1890年6月14日。
  11. ^ 『官報』第4246号「叙任及辞令」1897年8月26日。
  12. ^ 『官報』第1927号「叙任及辞令」1889年11月29日。
  13. ^ 『官報』第3103号「叙任及辞令」1893年10月31日。
  14. ^ 『官報』第3352号「叙任及辞令」1894年8月30日。
  15. ^ a b 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。
  16. ^ 『官報』第3207号「叙任及辞令」1894年3月12日。
  17. ^ 『官報』第3336号「叙任及辞令」1894年8月11日。
  18. ^ 『官報』第3223号「叙任及辞令」1894年3月31日。
  19. ^ 『官報』第3498号「叙任及辞令」1895年3月1日。
  20. ^ 『官報』第3683号「叙任及辞令」1895年10月7日。
  21. ^ 『官報』第3815号「叙任及辞令」1896年3月21日。
  22. ^ 『官報』第4005号「叙任及辞令」1896年11月2日。
  23. ^ 『陸奥宗光. 正編』伊藤痴遊 著 (東亜堂, 1912)
  24. ^ 『明治大臣の夫人』岩崎徂堂著 (大学館, 1903)
  25. ^ a b 陸奥宗光未亡人没す新聞集成明治編年史第11卷、林泉社、1936-1940
  26. ^ 下重暁子『純愛 エセルと陸奥廣吉』講談社
  27. ^ 純愛. 講談社 
  28. ^ 『文藝春秋』第77巻、第3号、p83
  29. ^ 『海舟全集』第十巻
  30. ^ a b 3. 陸奥伯に丈夫の志無し
  31. ^ 7.井上侯の人物鑑別眼
  32. ^ a b 関直彦『七十七年の回顧』三省堂、1933年、pp.242-243
  33. ^ 『兆民文集』
  34. ^ 『春汀全集』
  35. ^ 『西園寺公望自伝』
  36. ^ 佐々木雄一「陸奥宗光」82頁
  37. ^ 佐々木雄一「陸奥宗光」109,131頁
  38. ^ 萩原延寿「陸奥宗光」13頁
  39. ^ 『陸奥宗光』萩原延寿 上 135頁
  40. ^ 『陸奥宗光』佐々木雄一 20〜21頁
  41. ^ 『陸奥宗光』佐々木雄一130頁
  42. ^ 『陸奥宗光』萩原延寿 下 222頁
  43. ^ 『星亨』有泉貞夫
  44. ^ 佐々木雄一「陸奥宗光」65-67,236頁
  45. ^ 佐々木雄一「陸奥宗光」147頁
  46. ^ 読売新聞朝刊2017年3月30日都民版「旧陸奥宗光邸の歴史 案内板/根岸祷民ら設置 建物の特徴や写真掲載」
  47. ^ 【11位】旧陸奥宗光邸(鶯谷)”. テレビ東京出没!アド街ック天国」2016年5月14日放映. 2017年4月9日閲覧。


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