陸奥宗光
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脚注
参考文献
- 岡崎久彦『陸奥宗光』(上・下)(PHP研究所、1987-88年)、のちPHP文庫
- 岡崎久彦『陸奥宗光とその時代』「外交官とその時代 第1巻」 PHP研究所、1999年、新版2009年、のちPHP文庫
- 萩原延壽責任編集・解説「陸奥宗光紀行」、『日本の名著(35) 陸奥宗光』(中央公論社、1973年)、新版・中公バックス
評伝
関連項目
- 日英通商航海条約
- 日清戦争
- 陸奥外交
- 小村寿太郎
- 国是綱目 - 伊藤博文らと提出した建白書。版籍奉還に影響を与えた。
- 廃藩置県 - 廃藩置県のモデルとなる紀州藩での藩政改革を行った。
- 徴兵令 - 徴兵令のモデルとなる紀州藩での藩政改革を行った。
- 地租改正 - 陸奥が建議し、租税頭として実施に当たった。
関連作品
- 映画
- 『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』(1986年、東宝、演者:堀広道)
- TVドラマ
- 『竜馬がゆく』(1968年、NHK大河ドラマ、演者:東野孝彦)
- 『竜馬がゆく』(1982年、テレビ東京、演者:岡本富士太)
- 『竜馬がゆく』(2004年、テレビ東京新春ワイド時代劇、演者:大柴邦彦)
- 『坂の上の雲』(2009年、NHK、演者:大杉漣)
- 『龍馬伝』(2010年、NHK大河ドラマ、演者:平岡祐太)
- 『歴史秘話ヒストリア』(2019年、NHK、演者:岩永徹也)など
- 小説
- 舞台劇
- 漫画
- 武田鉄矢・小山ゆう『お〜い!竜馬』(1986年 - 1996年) 後半から登場。
- 安彦良和『王道の狗』(1998年 - 2000年)
- 江川達也『日露戦争物語』(2001年 - 2006年)
- 黒江S介『サムライせんせい』(2013年 - 2020年)
外部リンク
- 国立国会図書館 憲政資料室 陸奥宗光関係文書
- 小説より奇なる生涯の陸奥宗光 - 徳富猪一郎(徳富蘇峰)『我が交遊録』、1939年
- 維新史料綱要データベース(東京大学史料編纂所)
- 『大日本維新史料稿本』(維新史料編纂事務局編)
- デジタル版「実験論語処世談」(渋沢栄一記念財団)
公職 | ||
---|---|---|
先代 岩村通俊 |
農商務大臣 第6代:1890年5月17日 - 1892年3月14日 |
次代 河野敏鎌 |
先代 榎本武揚 |
外務大臣 第5代:1892年8月8日 - 1896年5月30日 |
次代 西園寺公望 |
先代 伊藤博文(→欠員) |
租税頭 1872年 - 1874年 |
次代 松方正義 |
日本の爵位 | ||
先代 陞爵 |
伯爵 陸奥家初代 1895年 - 1897年 |
次代 陸奥廣吉 |
先代 叙爵 |
子爵 陸奥家初代 1894年 - 1895年 |
次代 陞爵 |
注釈
- ^ このとき、同時にこの職に任命されたのは長州出身の伊藤博文、井上馨、薩摩出身の五代友厚、寺島宗則、中井弘の5人であった。ここで陸奥はイギリス公使パークスの暗殺未遂事件などの対外事件を処理している。
- ^ のちに陸奥はこのことを「粗豪にして身を誤ること三十年」(『山形繋獄』)と詩に詠んでいる。
- ^ 『日本及日本人』所載「雲間寸観」によれば、林・大江は暗殺すべき人物として秘簿をつくった。そのなかには大隈重信の名もあったが、陸奥はこれを一見して、一人重要な人間が抜けていると言い、自ら筆をとって伊藤博文の名を加えた。林は大江は、陸奥は平生より伊藤と親しいから、志成った場合は伊藤を推してもよいだろうと考えていたので、陸奥が伊藤の名を加えたのを見て、ひそかに驚いたという。
- ^ 試験採用による職業外交官の制度が確立したのは陸奥の外相時代である。
- ^ 不平等条約改正に最も反対していたイギリスが態度を軟化させた背景にはロシアの極東進出に対する懸念があった。イギリスの条約改正交渉には「改正後も函館の貿易港としての使用を認めること」という交渉条件が付けられていた。陸奥は、函館の条件さえ呑めば条約改正に応じるに違いないと判断し、ロンドンの青木公使宛に「必要あらば、条約改正後も、函館を貿易港と定めても苦しからず」と打電する。返電はイギリスが条約改正交渉に応じるというものだった。
- ^ 高田早苗によれば、陸奥の伊藤に対する態度がいかにも恭しく、あたかも属僚が長官に対して意見を申し述べる風だったという(『半峯昔ばなし』)。また、李鴻章との談判のとき、陸奥の娘が大病で危篤状態だったが陸奥は「談判の済むまでは家のことはいってよこすな」と言い置いて来たが、陸奥の顔色の冴えないのを伊藤が怪しんで問いただしたので事実を語った。伊藤は驚いて、「あとは俺が引き受けたから君は帰り給え」といった。それで陸奥は帰ったが幸いにして娘は命を取りとめた。しかし、それから間もなく亡くなったという(『平沼騏一郎回顧録』)。
- ^ 宗光の死後、二男潤吉が養子入りした古河家の所有となり、現在は古河電気工業が管理している。
- ^ 陸奥の最後の枕頭を見舞った親友中島信行に「僕は妻子に別るるもあえて悲しまず、家事また念頭になし、ただ政治より脱することを遺憾とす」と述べた。心底からの政治好きだったのである。
出典
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)「陸奥宗光」
- ^ 陸奥宗光外務大臣の功績を教育に活かす実行委員会 『陸奥宗光伯の略年譜』
- ^ 母方の渥美勝都も治宝派排斥により失脚している。
- ^ 帆足 図南次「変革期の知識人としての陸奥宗光」『日本建築学会計画系論文集』第1969巻第1号、英学史研究、1969年、36-44頁、ISSN 1883-9282。
- ^ 陸奥宗光(むつ・むねみつ 1844-1897)関西大学 東西学術研究所 2020年6月17日閲覧
- ^ 『大日本維新史料稿本』第四部 コマ856「豊崎縣知事陸奥宗光陽之助ヲ兵庫縣知事ト為ス」
- ^ 衆議院議員之証(陸奥宗光関係文書108-66)
- ^ a b c d e f g h i j 「陸奥宗光」 アジア歴史資料センター Ref.A06051166200
- ^ 『官報』第1119号「叙任及辞令」1887年3月28日。
- ^ 『官報』第2086号「叙任及辞令」1890年6月14日。
- ^ 『官報』第4246号「叙任及辞令」1897年8月26日。
- ^ 『官報』第1927号「叙任及辞令」1889年11月29日。
- ^ 『官報』第3103号「叙任及辞令」1893年10月31日。
- ^ 『官報』第3352号「叙任及辞令」1894年8月30日。
- ^ a b 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。
- ^ 『官報』第3207号「叙任及辞令」1894年3月12日。
- ^ 『官報』第3336号「叙任及辞令」1894年8月11日。
- ^ 『官報』第3223号「叙任及辞令」1894年3月31日。
- ^ 『官報』第3498号「叙任及辞令」1895年3月1日。
- ^ 『官報』第3683号「叙任及辞令」1895年10月7日。
- ^ 『官報』第3815号「叙任及辞令」1896年3月21日。
- ^ 『官報』第4005号「叙任及辞令」1896年11月2日。
- ^ 『陸奥宗光. 正編』伊藤痴遊 著 (東亜堂, 1912)
- ^ 『明治大臣の夫人』岩崎徂堂著 (大学館, 1903)
- ^ a b 陸奥宗光未亡人没す新聞集成明治編年史第11卷、林泉社、1936-1940
- ^ 下重暁子『純愛 エセルと陸奥廣吉』講談社
- ^ 純愛. 講談社
- ^ 『文藝春秋』第77巻、第3号、p83
- ^ 『海舟全集』第十巻
- ^ a b 3. 陸奥伯に丈夫の志無し
- ^ 7.井上侯の人物鑑別眼
- ^ a b 関直彦『七十七年の回顧』三省堂、1933年、pp.242-243
- ^ 『兆民文集』
- ^ 『春汀全集』
- ^ 『西園寺公望自伝』
- ^ 佐々木雄一「陸奥宗光」82頁
- ^ 佐々木雄一「陸奥宗光」109,131頁
- ^ 萩原延寿「陸奥宗光」13頁
- ^ 『陸奥宗光』萩原延寿 上 135頁
- ^ 『陸奥宗光』佐々木雄一 20〜21頁
- ^ 『陸奥宗光』佐々木雄一130頁
- ^ 『陸奥宗光』萩原延寿 下 222頁
- ^ 『星亨』有泉貞夫
- ^ 佐々木雄一「陸奥宗光」65-67,236頁
- ^ 佐々木雄一「陸奥宗光」147頁
- ^ 読売新聞朝刊2017年3月30日都民版「旧陸奥宗光邸の歴史 案内板/根岸祷民ら設置 建物の特徴や写真掲載」
- ^ “【11位】旧陸奥宗光邸(鶯谷)”. テレビ東京「出没!アド街ック天国」2016年5月14日放映. 2017年4月9日閲覧。
固有名詞の分類
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