陸奥宗光
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家族
- 妻
- 息子
- 娘
- 陸奥清子(長女、1873年-1893年)
- 陸奥冬子(次女、1873年-1904年。祇園の芸者との子[26]。宗光の死後、陸奥家に引き取られ、広吉の養女となる)
- 孫
- 陸奥イアン陽之助(広吉とエセルの長男。1907年-2002年。)
宗光の4人の子のうち、広吉を除く3人は未婚のまま没したため、広吉の子の陽之助が宗光の唯一の孫である。鎌倉の寿福寺に陸奥家の墓所がある。
著作・書翰
- 明治25年(1892年)から執筆を開始した『蹇々録』は、日清戦争、三国干渉の処理について記述したもので、外務省の機密文書を引用しているため長く非公開とされ、昭和4年(1929年)に初めて公刊された。明治外交史上の第一級史料である。
- 昭和27年(1952年)、陸奥家は国立国会図書館に書翰と書類を寄贈している。陸奥宛書簡は伊藤博文、三条実美、山縣有朋等の主要政治家60人以上にのぼり、書類は外交関係がほとんどを占める。
評価
- 勝海舟 「あれも一世の人豪だ。しかし陸奥は、人の部下について、その幕僚となるに適した人物で、幕僚に長としてこれを統率するには不適当であった。あの男は、統御もしその人を得たら、十分才を揮うけれども、その人を得なければ、不平の親玉になって、眼下に統領を踏みつける人物だ。あれがもし大久保(利通)の下に属したら、十分才を揮い得たであろう」[27]
- 渋沢栄一
- 「外務大臣をなされたことのある陸奥宗光伯は、平岡円四郎と殆ど全く同型の人で、一を聞いて十を知る機敏な頭脳を持つて居られたかのやうに思はれる。兎角一を聞いて十を知る質の人は、余りにさき廻りをするので、他人に厭やがれる[厭やがられる]傾きのあるものだが、陸奥伯には爾んな傾向がなく至つて交際ひ易い人であつた。随つて平岡円四郎のやうに非業の最期をも遂げず、畳の上で死ぬことが出来たのである。」[28]
- 「伯も平岡円四郎のやうに、一寸したことを聞いた丈けでそれからそれへと考へを進めて往き、事を未然に察知するまでの才智のあつた人だが、孰らかと謂へば金銭と権勢とに動かされ易く、一身の利達を謀らんが為めには形勢を察して金銭と権勢とのあるところに就くを辞さなかつたらしく、大丈夫の志が無かつた人のやうに思へる。それから妙に他人を凌ぐやうな傾向があつて、談話などでも自分の才智に任せて対手を圧迫して来る如き気味合を示したものである。之が為め、多少他人から厭がれた[厭がられた]こともあらうが、交際は至つて如才のなかつた方である。」[28]
- 「陸奥宗光伯も、前条に談話した通りで、御自身には優れた才識のあらせられた人で、権勢と金力とのあるところを見て之に就く事にかけては誠に敏捷であつたが、人物を鑑別する力に於ては、余り優れた方であつたとは申上げかねるやうに思へる。随つて、陸奥伯の交はられた人や用ひられた人は、必ずしも善良誠実の人ばかりであつたやうにも思へぬ。」[29]
- 関直彦
- 「龍馬の薫陶によって陸奥も彼だけの人物になったと言っても可い位で、平生、龍馬は陸奥を評して『彼は非常な才物である。外の者は大小を取り上げれば殆ど食うにも困る者ばかりだが、陸奥だけは上手に世渡りをして行ける』と言っていた」
- 「剃刀大臣といわれしだけありて、機略縦横、電光石火の立回りに妙を得た人であった上にも、また弁舌の雄として世に認められたる人である。」[30]
- 「陸奥伯は子供の時より涎を垂らすの癖あり。堂々たる国務大臣として、条約改正に、各国の政治家を向こうに回し、折衝応答の時にも、また、日清講和談判に李鴻章を悩ましたる時にも相変わらずだらだら涎を垂らしつつ議論せられたるものならん。伯は、常に葉巻煙草を吸わるるが、その半ばは涎に濡れて、火の消ゆるを常とす。偉人にも妙な癖があるものかな。」[30]
- 鳥谷部春汀 「大隈伯は政治においてデモクラシーを主張すると同時に、その趣味においてもデモクラチツクなり。これに反して陸奥伯は政治の原則としては亦均くデモクラシーを信ずと雖も、その趣味は全くアリストクラチツク(貴族的)なり。彼は凡俗を好まず、又凡俗の好む所を好む能わず。彼は凡俗と天才との間には踰ゆべからざるの鴻溝あるを信じ、滔々たる凡俗は、到底天才者の頭脳を了解する能わずと思惟せり。」[32]
- 西園寺公望 「才子で敏感すぎるから、一時失脚したのだね。西南役の折、もしかすると西郷が勝つかも知れんから、幾分その場合に処する用意をしておこうとした」と述べている。[33]佐々木雄一は陸奥は大々的に武装反乱を起こそうとしたのではなく、才子で敏感すぎ、不遇感があるなかで、何かあった場合に処する用意をしておこう、機に乗じよう、と考えたのだという。[34]
- 萩原延寿は陸奥を自由民権という理念と藩閥勢力の権力の間で「分裂した魂の所有者」とするが、佐々木雄一は陸奥の考えは「議会政治やデモクラシーというのは理念や理想ではなく、現実に生じている世の趨勢であり、政府側にはその現実に対応していくための政治のアートやスキルがかつてなく必要となっており、そのスキルを備えた自分の力が必要となるはずだ」というものであったという。[35]
- 雑誌「世界の日本」の社説(1897年5月1日号)はアンシャンレジーム、革命、ナポレオン、王政復古と、変転するフランス史の激動期を通じて絶えず外交指導を懇請されたタレーランに仮託して陸奥の心情を語っている。いわく「仏国智力の絶頂は余にあり。何人が政権をとるも、如何なる主義が勝ちを得るもの、畢竟余の力を借らざるべからず。若し余の力を借らざる政府なるか、余はそれを成立せしめざべし。」萩原延寿によれば、この文章には陸奥自身の主張が谺しているという。[36]
注釈
- ^ このとき、同時にこの職に任命されたのは長州出身の伊藤博文、井上馨、薩摩出身の五代友厚、寺島宗則、中井弘の5人であった。ここで陸奥はイギリス公使パークスの暗殺未遂事件などの対外事件を処理している。
- ^ のちに陸奥はこのことを「粗豪にして身を誤ること三十年」(『山形繋獄』)と詩に詠んでいる。
- ^ 『日本及日本人』所載「雲間寸観」によれば、林・大江は暗殺すべき人物として秘簿をつくった。そのなかには大隈重信の名もあったが、陸奥はこれを一見して、一人重要な人間が抜けていると言い、自ら筆をとって伊藤博文の名を加えた。林は大江は、陸奥は平生より伊藤と親しいから、志成った場合は伊藤を推してもよいだろうと考えていたので、陸奥が伊藤の名を加えたのを見て、ひそかに驚いたという。
- ^ 試験採用による職業外交官の制度が確立したのは陸奥の外相時代である。
- ^ 不平等条約改正に最も反対していたイギリスが態度を軟化させた背景にはロシアの極東進出に対する懸念があった。イギリスの条約改正交渉には「改正後も函館の貿易港としての使用を認めること」という交渉条件が付けられていた。陸奥は、函館の条件さえ呑めば条約改正に応じるに違いないと判断し、ロンドンの青木公使宛に「必要あらば、条約改正後も、函館を貿易港と定めても苦しからず」と打電する。返電はイギリスが条約改正交渉に応じるというものだった。
- ^ 高田早苗によれば、陸奥の伊藤に対する態度がいかにも恭しく、あたかも属僚が長官に対して意見を申し述べる風だったという(『半峯昔ばなし』)。また、李鴻章との談判のとき、陸奥の娘が大病で危篤状態だったが陸奥は「談判の済むまでは家のことはいってよこすな」と言い置いて来たが、陸奥の顔色の冴えないのを伊藤が怪しんで問いただしたので事実を語った。伊藤は驚いて、「あとは俺が引き受けたから君は帰り給え」といった。それで陸奥は帰ったが幸いにして娘は命を取りとめた。しかし、それから間もなく亡くなったという(『平沼騏一郎回顧録』)。
- ^ 宗光の死後、二男潤吉が養子入りした古河家の所有となり、現在は古河電気工業が管理している。
- ^ 陸奥の最後の枕頭を見舞った親友中島信行に「僕は妻子に別るるもあえて悲しまず、家事また念頭になし、ただ政治より脱することを遺憾とす」と述べた。心底からの政治好きだったのである。
出典
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)「陸奥宗光」
- ^ 母方の渥美勝都も治宝派排斥により失脚している。
- ^ 陸奥宗光(むつ・むねみつ 1844-1897)関西大学 東西学術研究所 2020年6月17日閲覧
- ^ 『大日本維新史料稿本』第四部 コマ856「豊崎縣知事陸奥宗光陽之助ヲ兵庫縣知事ト為ス」
- ^ 衆議院議員之証(陸奥宗光関係文書108-66)
- ^ a b c d e f g h i j 「陸奥宗光」 アジア歴史資料センター Ref.A06051166200
- ^ 『官報』第1119号「叙任及辞令」1887年3月28日。
- ^ 『官報』第2086号「叙任及辞令」1890年6月14日。
- ^ 『官報』第4246号「叙任及辞令」1897年8月26日。
- ^ 『官報』第1927号「叙任及辞令」1889年11月29日。
- ^ 『官報』第3103号「叙任及辞令」1893年10月31日。
- ^ 『官報』第3352号「叙任及辞令」1894年8月30日。
- ^ a b 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。
- ^ 『官報』第3207号「叙任及辞令」1894年3月12日。
- ^ 『官報』第3336号「叙任及辞令」1894年8月11日。
- ^ 『官報』第3223号「叙任及辞令」1894年3月31日。
- ^ 『官報』第3498号「叙任及辞令」1895年3月1日。
- ^ 『官報』第3683号「叙任及辞令」1895年10月7日。
- ^ 『官報』第3815号「叙任及辞令」1896年3月21日。
- ^ 『官報』第4005号「叙任及辞令」1896年11月2日。
- ^ 『陸奥宗光. 正編』伊藤痴遊 著 (東亜堂, 1912)
- ^ 『明治大臣の夫人』岩崎徂堂著 (大学館, 1903)
- ^ a b 陸奥宗光未亡人没す新聞集成明治編年史第11卷、林泉社、1936-1940
- ^ 下重暁子『純愛 エセルと陸奥廣吉』講談社
- ^ 純愛. 講談社
- ^ 『文藝春秋』第77巻、第3号、p83
- ^ 『海舟全集』第十巻
- ^ a b 3. 陸奥伯に丈夫の志無し
- ^ 7.井上侯の人物鑑別眼
- ^ a b 関直彦『七十七年の回顧』三省堂、1933年、pp.242-243
- ^ 『兆民文集』
- ^ 『春汀全集』
- ^ 『西園寺公望自伝』
- ^ 佐々木雄一「陸奥宗光」82頁
- ^ 佐々木雄一「陸奥宗光」109,131頁
- ^ 萩原延寿「陸奥宗光」13頁
- ^ 『陸奥宗光』萩原延寿 上 135頁
- ^ 『陸奥宗光』佐々木雄一 20〜21頁
- ^ 『陸奥宗光』佐々木雄一130頁
- ^ 『陸奥宗光』萩原延寿 下 222頁
- ^ 『星亨』有泉貞夫
- ^ 佐々木雄一「陸奥宗光」65-67,236頁
- ^ 佐々木雄一「陸奥宗光」147頁
- ^ 読売新聞朝刊2017年3月30日都民版「旧陸奥宗光邸の歴史 案内板/根岸祷民ら設置 建物の特徴や写真掲載」
- ^ “【11位】旧陸奥宗光邸(鶯谷)”. テレビ東京「出没!アド街ック天国」2016年5月14日放映. 2017年4月9日閲覧。
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