陸奥宍戸氏
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現在福島県や宮城県に多い宍戸姓の来歴については、現在まで確かな文献が見つかっておらず定かでないが時代毎に移住したと思われ複数の系統が居る。 大石宍戸家 子孫が所持する家系図によれば、天文の乱で滅びた懸田氏の祖と言われている高松近江守定隆が正中2年(1325年)に信夫郡岡本の地(現在の福島市岡島古屋館)に在住した際に、初めてその家老として仕え、建武2年(1335年)に定隆が城を伊達郡懸田に移した際、定隆の下知により霊山麓大石郷に12貫を押領して、以後は大石を拠点とした(大石宍戸)。福島市岡島には高松近江守の居城跡と伝える城郭跡が見つかっており、また『霊山町史』によれば、大石地区にも霊山神社周辺をはじめ複数の中世山城跡が確認されている。 このように大石宍戸氏は、北畠顕家の与力であった高松定隆の家臣となったが、大石宍戸家の初代となった宍戸義秀の父は宍戸家義とされており、家義の父は常陸宍戸氏当主宍戸家時と推測される[要出典]。 南北朝以後の大石宍戸氏は大石郷より宇多郡本郷(所在地不明)のち伊具郡に移り、永享年間(1430年代)より伊具氏の丸亀城(所在不明。丸森城と同一か[要出典])の老役として代々丸森袖五郎屋敷に居住した(福島から丸森に至る阿武隈川河畔水沢の地に隣接して袖五郎の地名、および屋敷現存)。 伊達稙宗隠居後の家老役として丸森城に出仕した大石宍戸氏は、稙宗の死後お役御免となり、以後丸森の地に土着(堀畑屋敷、のち漆原屋敷)。子孫は江戸期を通じて大肝入、肝入役を務め明治に至っている。江戸期には、肝入役として代々「宇多右衛門」を称していたのが、享保年間に伊達吉村が伊具郡検分の際、宍戸家当主が伊具郡の肝入であるにも関わらず「宇多右衛門」を称していては、宇多郡の肝入と間違えるので以後「伊具右衛門」と称すべしと下知され、以後「伊具右衛門」に改称したという逸話なども残っている(風土記御用書出丸森村「代數有之御百姓書出」六代相続堀畑屋敷栄吉の項に記載。丸森町史資料編195にも転記)[要出典]。[要出典] 子孫は明治の一時期丸森町の助役などを務めた(宍戸利蔵:明治37年~42年、丸森町史)[要出典]。宍戸家歴代の墓は、丸森町の西円寺に近年までかろうじて残っていたが、東日本大震災による墓石の倒壊により、すでに整理されて現存しない(平成24年墓石整理。「天保12年完戸〇右ェ門」「宝暦12年完戸屋伝三郎」「完戸茂吉」等と刻銘の墓石複数あり)[要出典]。また、伊達稙宗が見て驚き出仕を乞うたと云われる霊山国司(北畠顕家)の御家来家筋を示す伝来の武具甲冑類も、安政4年(1854年)、放火により家屋が全焼。焼失して現存しない(宍戸一晴氏所有宍戸系図控え)[要出典]。 伊達稙宗の時代に稙宗に仕えて数々の忠勲があり、天文11年稙宗次男実元上杉入嗣の際に随行精鋭100騎の中に加わり(九郎左衛門、宍戸下野守、蕨宍戸家文書、伊達成実家臣団の項)、天文の乱で懸田俊宗とともに稙宗側に与したため家跡断絶となった宍戸氏一族(晴宗公采地下賜録240&248、伊達晴宗知行充行状「伊達家文書1-29」等)との関係は不明。 寛保~寛延年間にかけて伊具郡の大肝入役を務めた宍戸伊具右衛門(初め宇多右衛門、「代數有之御百姓書出」六代相続栄吉の項の第3代)には長子只右衛門(寛保元年~延享2年肝入役)の他に娘(金津村大肝入役宍戸兵内の妻、兵内は伊具右衛門養子として分家。「角田市史3、地形分遜願2及び3」)及び次男伊惣治(上地の祖)有り。 風土記御用書出丸森村「代数有之御百姓書出」のなかに「六代相続堀畑屋敷栄吉」と共に記載の「七代相続水澤屋敷御外人守仲蔵」とある宍戸家についても、水沢の地が袖五郎の地に隣接していること、享保15年の伊達吉村検分の際の逸話の記載がこちらにもあること、水澤屋敷の当主が代々伝十郎を名乗り、西園寺にあった墓の一部に「宍戸屋伝三郎」の銘があったことなどから判断して堀畑屋敷の宍戸家とは同族であろうと推測される。なお、「水澤屋敷の宍戸家」は、江戸期を通じて米沢から仙台に至る阿武隈水運の中継地水沢の御城米問屋として代々この地の御判肝入を務め、この地域の物流に重要な役割を担った。
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