陸奥守就任
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永承6年(1051年)、前九年の役が勃発し、陸奥守・藤原登任が、奥六郡を支配する安倍氏に玉造郡鬼切部で敗れた。藤原登任は責により、陸奥守を更迭された。 登任の後任の陸奥守として頼義に白羽の矢が立ち、朝廷は頼義を陸奥守、さらに鎮守府将軍を兼任させるなどして、奥州の騒乱平定を期待した。こうして頼義はかつての父・頼信と同じように安倍軍鎮圧の大任を帯び、陸奥へと下向した。 頼義が陸奥守として陸奥の政庁であった多賀城に着任すると、安倍氏の首領であった安倍頼良は恭順の意を示し、自らの諱である「頼良(よりよし)」が将軍たる「頼義(よりよし)」と同じ音では恐れ多いとして「頼時(よりとき)」と名を改めるなど、平身低頭で頼義に従う姿勢を見せた。また中央でも国母である上東門院(藤原彰子)の病気平癒祈願による恩赦もあって、安倍氏の反乱自体が許された為、休戦状態(実質的に終戦)となった。
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