陸奥宗光、原敬の引き立て
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 10:19 UTC 版)
大学予備門を経て、旧制第一高等学校、1890年(明治23年)帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)英法学部を首席で卒業する。同期生に柴田家門(第3次桂太郎内閣文部大臣)、石井菊次郎(第2次大隈重信内閣外務大臣)らがいる。帝国大学在学時には代言人(弁護士)志望であったが、開業資金が無いので農商務省に入省する。農商務省では農商務大臣の陸奥宗光と大臣秘書官だった原敬に出会い、目を掛けられた。農商務省参事官、鉱山監督局の東京、大阪両鉱山監督署長とスピード出世するが、1893年(明治26年)に農商務省を退官している。第2次伊藤内閣の外務大臣に転じていた陸奥は、原の退官を惜しみ、書簡で埼玉県書記官へ赴任させると原を慰留している。
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