陸奥廣吉との出会い、別離、結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 06:13 UTC 版)
「陸奥イソ」の記事における「陸奥廣吉との出会い、別離、結婚」の解説
1888年、エセルはイギリスに留学してきた陸奥廣吉と出会う。パッシングハム家は廣吉の下宿先でもあった。1889年には彼がアメリカ合衆国に行き一時的に離れるが、彼が日本へ帰国する1893年まで日常的に交流していた。1893年の帰国の際、2人は結婚の約束をしたが、廣吉の父・陸奥宗光の反対により、結婚が宗光の死後まで引き伸ばされることになる。1899年4月10日、廣吉とアメリカ合衆国で再会する。1900年5月8日に2人きりで過ごしていたことが報道され、このことで別居することになり、さらに廣吉の養母亮子の体調不良で1900年8月に彼は帰国してしまう。また廣吉の日記に、結婚前に生理が来ていてホッとしたという記述はアメリカ滞在中のことだと思われる。1901年4月19日、廣吉に呼ばれて初来日をする。フユという廣吉の妹も出迎えた。廣吉のイタリア赴任により、同年5月には離日し、同年6月にローマに着く。1904年5月に日本に着くまでは、冬子が船上で亡くなるなどの困難があった。 その後、周りの支援もあり、廣吉とエセルは1905年5月9日には外務省から、同月12日には宮内省からそれぞれ結婚の許可を受け、翌13日に結婚の登録をした。同年6月に離日、7月にはロンドンに到着し、同地のアパートに10月に引っ越した。1906年5月には彼女にしては珍しく風邪をひいた。廣吉は林董大使が日本に帰国することで、給料が1800円から2000円に上がっている。1907年1月14日、エセルは二人の医者ブラントとアディルセンが付き添う下、ロンドンのアパートで午後11時20分に、およそ14時間の陣痛の後に長男の陽之助を出産した。産褥熱に罹ったがすぐ快復している。彼女の母乳の出が悪いので、フランス人の乳母を雇っている。同年10月には他の場所に引っ越ししている
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