陸奥按察使の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/02 14:22 UTC 版)
按察使は養老3年(719年)7月に、全国ではなく一部地域を対象に設置された。陸奥・出羽両国は含まれなかったが、間もなく任命されたことが『続日本紀』が伝える翌年の事件で知れる。すなわち養老4年(720年)9月28日に、按察使の上毛野広人が蝦夷に殺されたと陸奥国が報告した。この時期の陸奥国は一時的に石城国、石背国、陸奥国に三分されていた。広人が「陸奥按察使」だったとは明記されないが、状況的に陸奥守の兼任で石城国と石背国を下におき、出羽国は含めなかったものとみられる。 養老5年(721年)6月10日に按察使の位は正五位上相当と定められた。陸奥按察使が出羽国を隷下におさめたのは同年8月19日であった 当時、按察使は一般に職田6町と仕丁5人を給された。
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