陸奥海道の蝦夷反乱
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「日本の古代東北経営」の記事における「陸奥海道の蝦夷反乱」の解説
詳細は「陸奥海道の蝦夷の反乱」を参照 新たな政策によって陸奥国側に住む蝦夷への懐柔が積極的に進められていた最中の神亀元年3月25日(724年4月22日)、陸奥国で海道の蝦夷が反乱して陸奥大掾佐伯児屋麻呂を殺害した。このとき反乱の主体となった海道の蝦夷とは、太平洋沿岸地域(現在の宮城県北部から岩手県南部)に住む蝦夷と推定されている。 反乱発生後の同年4月7日(5月4日)に征夷持節将軍藤原宇合、副将軍高橋安麻呂とする征夷軍が鎮圧のために派遣された。5月24日(6月19日)には鎮狄将軍小野牛養の軍勢も出羽国へと派遣されている。反乱の平定を終えた宇合らは事件発生後8ヶ月が経過した11月29日(12月19日)に平城京へと帰還した。 海道の蝦夷反乱について樋口知志は、大崎平野の蝦夷反乱とは発生のメカニズムがやや異なり、海道地方に住む蝦夷集団と律令国家側勢力との間の交易上のトラブルに端を発したのではないか、また律令国家は朝貢に訪れる蝦夷族長への禄の支給体制を整えていたが海道蝦夷たちの不満を抑えるには至らなかったのではないかとしている。
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陸奥海道の蝦夷反乱
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神亀元年3月25日(724年4月22日)、陸奥国で海道の蝦夷が反乱して陸奥大掾佐伯児屋麻呂を殺害した。このとき反乱の主体となった海道の蝦夷とは、東北地方の太平洋沿岸地域に住む蝦夷と推定されている。 反乱発生後の同年4月7日(5月4日)に征夷持節将軍藤原宇合、副将軍高橋安麻呂とする征夷軍が鎮圧のために派遣された。5月24日(6月19日)には鎮狄将軍小野牛養の軍勢も出羽国へと派遣されている。反乱の平定を終えた宇合らは事件発生後8ヶ月が経過した11月29日(12月19日)に平城京へと帰還した。
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