陸奥湾運河計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/10 07:35 UTC 版)
下北半島の北東端の尻屋崎は、濃霧と冬の強風のため古来より海の難所であった。明治9年に尻屋埼灯台ができたが、明治16年から25年の間には16件の海難事故があった。また、ロシアとの戦争が予期されていた世情から、津軽海峡を封鎖されたら陸奥湾の湾口を押さえられ艦隊が行動できなくなるという観点もあった。成田鉄四郎は、尻屋崎の害を説くにあたり、地元民のおどろおどろしい「蛮習」について記している。成田の冊子によると、尻屋沖で起こる海難事故は地元民の臨時収入がわりになっていたという。尻屋沖で海難事故が起こると、地元民は船員を助けるのだが、酒食をふるまうと見せかけてしたたかに酔ったころを海に突き落として殺害し、船の積み荷を我が物にするのが常であったという。 こうした問題のため、下北半島を横断し尻屋崎を迂回する運河の計画がいくつも提唱されてきたが、そのほとんどは半島の幅が最も狭くなる鷹架沼を立地とする案であった。 南部藩は延宝元年(1673年)に下北横断運河建設の是非を調査し、3ルートについて検討している。そのうちの一つが野辺地-室ノ久保間を開鑿し鷹架沼に抜けるというものであった。 明治22年、もと斗南藩少参事であった広沢安任は、独自の測量結果に基づく室ノ久保-陸奥湾開鑿案の意見書を、青森県知事と連署の上、内務大臣に進言した。内相に派遣された技師は現地を視察の上、「……この開鑿は北はカムチャツカ千島より東京湾に到る中間無比の連絡港なるべし」と肯定的な報告をしたためていたが、明治24年に広沢本人が死去。さらに東北本線が開通し蝦夷地-東京間の大量輸送に目途がついたことなどにより、本件はうやむやとなった。 明治39年、青森県のジャーナリスト成田鉄四郎は、鷹架沼の室ノ久保から雲雀牧場を経て陸奥湾側の盛沼(いまは巫女沼イタコヌマと呼ばれている)まで一里ほどの間を開鑿すべしと論じた。 大正八年、北山一郎(代議士)が陸奥運河計画を国会に提案し可決された。また、昭和十三年、青森県議会から第一次近衛内閣に陸奥運河開削計画が提出され、第74回帝国議会で採択されたが、時局柄予算がつかず実現には至らなかった。 戦後も青森市を中心に陸奥運河開削期成同盟が組織され、検討が続けられた。
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