ゆうき‐とよたろう〔ゆふきとよタラウ〕【結城豊太郎】
結城 豊太郎 (ゆうき とよたろう)

氏 名: 就 任: 退 任: 出身県: | 結城 豊太郎 (ゆうき とよたろう) 昭和12. 7.27 昭和19. 3.18 山形県 |
15代目の日本銀行総裁である結城豊太郎は、明治10年、山形県赤湯に生まれ、東京帝国大学法科を卒業後、直ちに日本銀行に入行しました。大正8年、大阪支店長兼理事に就任してからは、手形決済不能に陥った金融機関に特別融通を実施するなど、恐慌が関西一帯に蔓延することを未然に防止しました。大正10年に一転、安田善次郎亡き後の安田財閥の統帥者として招へいされた後、日本興業銀行総裁を経て、日本銀行総裁に就任しました。 日華事変勃発後の国家統制色の強い社会情勢の中にあって、自らの発意により金融協議会を設置するなど金融界に自主的な力を残そうと試みたほか、昭和17年の旧日本銀行法の制定に当っても、政治の圧力に抗して金融の中立性確保のために大いに努力したことが広く知られています。 また、郷里の赤湯の私邸を、実業公民学校の付属施設として生徒に開放するなど、人材の育成に非常に熱心な人であったと言われています。 (出典:広報誌『にちぎんクオータリー(1998年春季号)』) |
結城豊太郎
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結城󠄀 豐太郞
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生年月日 | 1877年5月24日 |
出生地 | ![]() |
没年月日 | 1951年8月1日(74歳没) |
出身校 | 東京帝国大学 (現・東京大学) |
前職 | 安田銀行副頭取(現・みずほ銀行) 日本興業銀行総裁 (現・みずほ銀行) 商工組合中央金庫初代理事長 日本銀行総裁 結城神社宮司 |
所属政党 | 無所属 |
内閣 | 林内閣 |
在任期間 | 1937年2月2日 - 1937年6月4日 |
選挙区 | 勅選議員 |
在任期間 | 1937年5月31日 - 1946年3月20日 |
結城 豊太郎(ゆうき とよたろう、 旧字体:結城󠄀 豐太郞、1877年(明治10年)5月24日 - 1951年(昭和26年)8月1日)は、日本の銀行家、大蔵大臣・日本銀行総裁、第5代日本商工会議所会頭を歴任。
来歴・人物
現在の山形県南陽市赤湯出身[1]。酒造業を営む結城家に生まれる。幼少時から優秀で赤湯小学校卒業時には山形県知事賞を受賞した[1]。旧制山形中学を経て、1899年(明治32年)7月には第二高等学校を卒業し、東京帝国大学へ進学。1903年(明治36年)7月、同法科大学政治学科を卒業[2]。
1904年(明治37年)1月7日、高橋是清の推薦で日本銀行入行[2]。本店検査局、日銀ニューヨーク代理店監督役付、京都支店長、総裁秘書役、大阪支店長などを歴任。1919年(大正8年)8月、井上準之助総裁の推薦で理事に就任、大阪支店長兼務。
だが旧知で引き立て役だった安田善次郎の不慮の死をきっかけに日銀を退職し、1921年(大正10年)11月28日に安田保善社の専務理事に就任、同年12月には安田銀行の副頭取も兼ねる。1926年(大正15年)1月には、安田学園理事長にも就任した。また善次郎の遺志を引き継ぎ、東大安田講堂を完成させた[2]。
1929年(昭和4年)3月、欧米視察からの帰国後に安田を退社し、産業調査会を設立。1930年(昭和5年)9月に日本興業銀行第6代総裁に就任した後、1936年(昭和11年)11月10日設立の商工組合中央金庫初代理事長となる。
翌1937年(昭和12年)1月に日本商工会議所第5代会頭に就任し[3]、2月2日には林銑十郎内閣の大蔵大臣兼拓務大臣兼企画庁総裁に就任し、同年5月31日には貴族院勅選議員に勅任された[4]。だが林内閣はわずか4ヶ月で崩壊し、続く近衛文麿内閣でも蔵相留任を要請されたが断っている。また同年7月27日から1944年(昭和19年)3月18日まで病弱だった池田成彬のあとを受けて第15代日本銀行総裁を務めた。
要職にあっても故郷を忘れることはなく、地元の赤湯は既に温泉地として知られていたが、飲み水や防火用水に困っていると聞き、自費で東京から水道工事の専門家を調査に派遣して、工事費の一部を寄付して赤湯水道を完成させた[1]。このほか母校の赤湯小学校にピアノやグランドを広げる費用を寄付したほか、「臨雲文庫」という図書館を町に寄付した[1]。
1946年(昭和21年)3月20日、貴族院議員を辞職[5]。その後、1948年(昭和23年)4月には三重県津市結城神社の第20代宮司となっている。1951年(昭和26年)8月1日死去。享年74。墓所は青山霊園(8-1イ-14-16-1-7)と南陽市東正寺。
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衆議院予算委員会室で秘密会を前に賀屋興宣次官(右)から耳打ちされる結城蔵相(中央)、1937年。
家族など
妻の茂登は赤湯小学校の同級生で地元で旅館御殿守を営む6代目石岡要蔵の長女[6]。三女の久子は藤山愛一郎のもとに嫁いだ。
また結城は三木武夫と森睦子の間を取り持ち仲人を務めた[7]。
のちに安田銀行社長を務めた園部潜は日本銀行時代の部下[8]。
南陽市立結城豊太郎記念館
結城は自己所有の文献等や愛用調度品を当時の赤湯町に寄付。寄付を下に町は、1935年(昭和10年)に赤湯町立図書館臨雲文庫を開庫した。なお1967年(昭和42年)の市制施行に伴い、南陽市立結城記念館と改称[3]。さらに、1995年(平成7年)4月には新館が竣工。同時に名称を市立結城豊太郎記念館と改め、リニューアルオープンした[9]。
栄典
- 位階
- 勲章等
伝記
- 秋田博『銀行ノ生命ハ信用ニ在リ 結城豊太郎の生涯』(日本放送出版協会、1996年) ISBN 4-14-080250-2
- 八木慶和『日本銀行総裁結城豊太郎 書簡にみるその半生』斉藤寿彦 監修(学術出版会学術叢書、2007年) ISBN 978-4-284-00060-4
脚注
- ^ a b c d 結城豊太郎 南陽市(2024年12月27日閲覧)
- ^ a b c 『山形県大百科事典』p.1009
- ^ a b 『山形県大百科事典』p.1010
- ^ 『官報』第3121号、昭和12年6月1日。
- ^ 『官報』第5757号、昭和21年3月26日。
- ^ 『郷土が生んだ三人の日銀総裁 : 池田成彬・結城豊太郎・宇佐美洵』p.139
- ^ “記念館だより56号「三木武夫元総理夫人ご逝去」”. 南陽市立結城豊太郎記念館. (2012年10月8日) 2018年6月9日閲覧。
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: CS1メンテナンス: 先頭の0を省略したymd形式の日付 (カテゴリ) - ^ 小早川洋一「安田善次郎死後の安田財閥の再編成 - 結城・森改革の過程と意義について -」『経営情報学部論集』第1巻第1号、中部大学経営情報学部、1985年1月、27-42頁、 ISSN 0910-8874、 CRID 1050845763477988992。
- ^ 『郷土が生んだ三人の日銀総裁 : 池田成彬・結城豊太郎・宇佐美洵』p.111
- ^ 『官報』第3039号「叙任及辞令」1937年2月22日。
- ^ 『官報』第3411号「叙任及辞令」1924年1月9日。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
- ^ 『官報』第4349号「彙報 - 褒章」1941年7月8日。
参考文献
外部リンク
- 第15代総裁:結城豊太郎 - 日本銀行
- 南陽市立結城豊太郎記念館
- 日本ニュース第132号|NHK戦争証言アーカイブス(1942年12月18日公開のニュース映画。生産翼賛を宣誓する結城が映っている。)
ビジネス | ||
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先代 新設 |
安田銀行副頭取 初代:1921 - 1929 |
次代 森広蔵 |
学職 | ||
先代 岡部長職 |
保善商工教育財団理事長 第2代:1926 - 1929 |
次代 四条隆英 |
公職 | ||
先代 馬場鍈一 |
![]() 第36代:1937 |
次代 賀屋興宣 |
先代 永田秀次郎 |
![]() 第10代:1937 |
次代 大谷尊由 |
その他の役職 | ||
先代 郷誠之助 |
日本商工会議所会頭 第3代:1937 |
次代 門野重九郎 |
先代 山崎覚次郎 |
日本金融学会会長 第2代:1944 - 1950 |
次代 高垣寅次郎 |
固有名詞の分類
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