室田義文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 05:58 UTC 版)
室田 義文(むろた よしあや、1847年10月27日(弘化4年9月19日[1]) - 1938年(昭和13年)9月5日[2])は、日本の外交官、政治家、実業家。特命全権公使、錦鶏間祗候、貴族院議員。
- ^ a b 『室田義文翁譚』 1939
- ^ 『官報』第3505号、「彙報 錦鶏間祗候卒去」1938年9月7日。
- ^ a b 大野 2003, p. 299
- ^ 『官報』第1845号「叙任及辞令」1889年8月22日。
- ^ 『官報』第2026号「叙任及辞令」1890年4月5日。
- ^ 『官報』第2503号「叙任及辞令」1891年10月31日。
- ^ 『官報』第3419号「叙任及辞令」1894年11月19日。
- ^ 『官報』第3453号「叙任及辞令」1895年1月4日。
- ^ 『官報』第4121号「叙任及辞令」1897年4月1日。
- ^ 『官報』第4106号「叙任及辞令」1897年5月18日。
- ^ 『官報』第4161号「叙任及辞令」1897年5月19日。
- ^ 『官報』第5178号「叙任及辞令」1900年10月3日。
- ^ 『官報』第5179号「叙任及辞令」1900年10月4日。
- ^ 『官報』第5270号「叙任及辞令」1901年1月29日。
- ^ 『官報』第5282号「叙任及辞令」1901年2月14日。
- ^ 『官報』第5372号「帝国議会 貴族院」1901年6月1日。
- ^ 『山口銀行史』
- ^ 『官報』第5545号「叙任及辞令」1901年12月25日。
- ^ 老川 2005
- ^ 伊藤暗殺から30年後に室田が事件の舞台を語るところによると、安重根の銃はブローニングの七連発拳銃であるが、伊藤の体内から出た銃弾はフランス騎馬銃の銃弾であり、弾痕は安重根からであれば上向きに穴をあけるはずのところ、下向きに穴をあけていた(『室田義文翁譚』 1939)。
- ^ 室田義文 (男性)人事興信録データベース第4版 [大正4(1915)年1月](名古屋大学大学院法学研究科)
- ^ 佐藤朝泰の『閨閥』60~66ページと204~217ページに森家・鈴木家の記述あり
- ^ 『官報』第379号「賞勲叙任」1884年10月1日。
- ^ 『官報』第2532号「叙任及辞令」1891年12月7日。
- ^ 『官報』第4172号「叙任及辞令」1897年6月1日。
- ^ 『官報』第5312号「叙任及辞令」1901年3月22日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1938年2月11日。
- ^ 『官報』第2100号「叙任及辞令」1890年7月1日。
- ^ 『官報』第3291号「叙任及辞令」1894年6月20日。
- ^ 『官報』第3704号「叙任及辞令」1895年11月1日。
- ^ 『官報』第5243号「叙任及辞令」1900年12月21日。
- ^ 『官報』第5848号「叙任及辞令」1902年12月29日。
- ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
- ^ 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
- ^ 『官報』第2503号「叙任及辞令」1891年10月31日。
- 室田義文のページへのリンク