江戸の火事 幕府の出火対策

江戸の火事

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/26 18:00 UTC 版)

幕府の出火対策

江戸時代初期の幕府重臣たちは、大火の原因が強風などに乗じた放火犯の所業にあると考え、将軍や江戸城の防備を第一に対策を立てた。そのため町人地に対する火事対策はほとんど考慮されていなかった[注釈 20]。町人の力が増大するにつれて幕府の対策にも変化があらわれるようになり、8代将軍徳川吉宗による享保の改革では江戸全域を対象とした幅広い火事対策が行なわれている。

幕府の対策としては、消防組織である火消の制度化、厳罰を科すことによる放火の抑制、大名屋敷や寺社の移転による火除地広小路の確保、瓦葺土蔵造りの採用による不燃化の推進などが行なわれた。人口の増加に対しては、天保の改革により天保14年(1843年)に人返しの法を出したものの、大きな効果はあげられなかった。

消防組織

東京名所八代洲町警視庁火消出初梯子乗之図(部分)、歌川広重(3代目)、明治維新後の火消出初式

江戸時代初期には消防組織が制度化されていなかったが、度重なる大火などを契機として火消の制度が設けられていった。火消は、武士によって組織された武家火消と、町人によって組織された町火消に大別される。また、武家火消は大名による大名火消旗本による定火消に分類される。

火消による消火は現代の主な消火方法とは異なっていた。当時は大型ポンプによる大量放水は不可能であったため、放水による鎮火は難しく、主な鎮火手段としては火元の火事場のまだ燃えていない周囲の建物を破壊して可燃物を取り払い、防火帯を作ることでそれ以上の延焼を防ぐ破壊消防という方法が用いられた。明和年間ごろからは竜吐水(りゅうどすい)と呼ばれた木製手押ポンプが配備されたが、火を鎮圧できるだけの水量を放出する威力は無かった。そのため明治維新に至るまでの間、消火の主力は火消人足(中核は鳶職人)による破壊消防であった[注釈 21]

燃えやすい安普請の建築が大火の発生を助長したともされるが、反面、壊しやすく再建しやすい構造で大火の類焼を防いでいたとも考えられ、大きな寺社や武家屋敷では類焼が防げずに大火となっている。

大名火消

桶町火事より2年後の寛永20年(1643年)、大名火消が制度化された。これは幕府が大名に課役として消防を命じたものである。従来、火事が発生してから奉書により大名に消火を命じていたが、これを改め事前に消火を担当する大名を任命したものであった。他に大名火消の一形態として、霊廟・神社・米蔵など幕府にとって重要な場所の消防を担当させた所々火消、江戸の町を方角などで地域割りして消防を担当させた方角火消、各大名屋敷の自衛消防組織に対し近隣の火事へ出動義務を課した各自火消などが設けられた。

定火消

明暦の大火翌年の万治元年(1658年)、定火消が制度化された。これは幕府の直轄であり、旗本に消防を命じたものである。火の見櫓を備えた火消屋敷(現在の消防署の原型)を与え、臥煙(がえん)と呼ばれる専門の火消人足を雇わせ、消防活動を担当させた。はじまりは4組であったが、一時期15組まで増加し、幕末には逆に1組まで減少するなど、幕府の財政や兵制、町火消の整備などによって増減している。10組で構成された期間が長く、十人屋敷・十人火消とも呼ばれた。

町火消

享保5年(1720年)、享保の改革の一環として町火消が制度化された。これは町人による火消であり、各町ごとに火消人足の用意と火事の際に出動する義務を課したものである。町奉行に就任した大岡忠相名主などの意見も取り入れて考案し、複数の町を「組」としてまとめ、隅田川から西を担当するいろは組47組(のちに1組増加していろは四十八組となる)と、東を担当する本所深川の16組が設けられた。享保15年(1730年)には、火事場への動員数増加と効率化を目的として、数組ずつに分けて統括する大組が設けられた。

町火消は当初町人地の消防のみを担当していたが、町火消の能力が認められるに従って活動範囲を拡大し、武家地への出動をはじめ橋梁・神社・米蔵などの消火活動も命じられ、江戸城内の火事にも出動した。幕末には武家火消が大幅に削減されたため、江戸の消防は町火消が主力となって明治維新を迎えている。

放火対策

放火は江戸の火事で大きな原因となっていたため、幕府は放火犯の取り締まりに力を入れた。新たな役職として火付改(のちに火付盗賊改)を設け、町人に対しても放火犯の捕縛を奨励した。放火は重罪とされ、その処罰には見せしめを目的として火焙りという手段が用いられた。

火付盗賊改

火付盗賊改は、幕府が重罪である放火(火付け)や盗賊・賭博などを取り締まるために設けた役職である。はじめは火付改・盗賊改・博打改に分かれていたが、放火の取り締まりを行なった火付改は天和3年(1683年)に先手組頭の中山勘解由(中山直守)が、加役(兼任)として任命された記録が残る。後に一時廃止となるがやがて元禄16年(1703年)に再び設けられ、享保3年(1718年)に一本化して火付盗賊改となった。

役方(文官)であった町奉行に対し、火付盗賊改は番方(武官)であったため、取調べの方法は乱暴になる傾向があった。「放火の疑い」の段階で捕らえる権限を持ち、仮に誤認逮捕であったとしても咎められなかった。そのため、怪しいものを捕らえては拷問にかけ、無理やり自白させるという手法がとられていた。結果として、冤罪も多かったとされる[注釈 22]。町人たちからも好意的には見られず、町奉行や勘定奉行が「大芝居」と呼ばれたのに対し、火付盗賊改は「乞食芝居」と呼ばれていた[25]

捕縛の奨励と火焙り

幕府はたびたび町触を出し、放火犯は見つけ次第捕らえて番所へ連行するように命じている。放火犯を捕らえたものには褒美が与えられた。放火犯の捕縛を奨励するため、放火を行なったことがあるものでも、別の(あるいは仲間の)放火犯を捕らえて突き出した場合には、その罪を許し褒美を与えるとした[26]。また、放火犯を捕らえたものが訴えられたとしても、その訴えは取り上げないので安心してよいとしている。享保8年(1723年)には、出火の際、挙動不審者がいれば放火犯でなくても捕らえて構わないと命じている。

放火犯が捕らえられると、江戸市中引き回し公開処刑火焙り火罪)とし、罪状を書いた捨札(すてふだ)が江戸市中に立てられた。火焙りという残酷な処刑方法の選択や捨札の使用は、見せしめを目的としたものであった。火焙りによる処刑は、『御定書』で定められており、明治元年(1868年)に『仮刑律』ができるまで続けられた[27]。放火犯に家族がいる場合は縁座し、妻や娘がとなって下げ渡されたり、遠島となったりした。放火を依頼したものがいる場合には、依頼者が火罪、実行者が死罪となった。放火犯が武士の場合、火焙りは用いられず、最高刑は獄門であった。火札(ひふだ)と呼ばれる、放火の予告をする脅迫状の張り紙(張文・落文・投文)をしたものは、はじめ死罪であったが、のちに追放刑と改められている。こうした刑罰は原則であり、放火したが燃え広がらなかった場合や特段の事情が認められる場合など、減刑されることもあった。放火犯が幼年(15歳未満)の場合は死罪にならず、遠島や預置となった。

都市計画

大火になる原因としては、燃えやすい材質で出来た建物が密集していることも大きかった。一度建物に火がつくと、消火活動を行なう間もなく、次々と近隣の建物に延焼してしまう。そのため、明暦の大火を契機として、江戸市中の不燃化を目指した火事に強い町づくりが行なわれた。江戸の各所に火除地や広小路が設けられ、建物には瓦葺屋根や土蔵造りといった耐火構造の採用が命じられるようになった。

火除地・広小路

歌川広重、『名所江戸百景』より「筋違内八ツ小路」、明暦の大火後に設けられた火除地の一つ

明暦3年(1657年)の明暦の大火で江戸市中が焼失した後、再建計画では火災対策が重視され、延焼を防ぐための空間作りが行なわれた。まず江戸城内にあった御三家の上屋敷を城外に移し、その跡を防火用地とした。御三家の屋敷移転に伴い、他の大名屋敷や旗本屋敷も移転が命じられた。江戸市中の過密状態を緩和するため、移転先の多くはこれまでより江戸城から離れた場所であった。また、大名に対し元禄年間にかけて中屋敷や下屋敷の用地を与え、江戸の外れに設けられた下屋敷は火事の際の避難所にもなった。一連の移動で、埋め立てが完成していた築地などにも新たな武家屋敷が設けられるようになる。寛文元年(1661年)ごろには本所の干拓が完成し、武家屋敷の建設や町屋の移転が進んだ[28]。寺社に対しても同様に移転が命じられた。主な移転先となったのは外堀の外側で、各地に点在していた寺社が浅草・駒込・小石川などにまとめて移されている。また、吉原遊廓が日本橋付近から浅草付近へと移転したのもこの時期である(移転は大火の前から決定していた)。

江戸市中の再建では、新たに延焼を防ぐための広場・空地である火除地が設けられた。従来の街路を拡幅し、火除地と同様の機能を持たせた広小路も設けられた。火除地や広小路の設けられた場所の住人には移住が命じられ、江戸の外縁部や埋立地に移住先として新たな町がつくられた。このため、結果として江戸の市街地が拡大していくこととなった。寛文2年(1662年)には、前年までおおむね外堀の内側に限られていた町奉行の支配地域(江戸府内)が、上野・浅草・芝なども含むように改編されている。移転を伴わない対策としては、家屋に対しての除去を命じる町触が出されている。これは、街路に突き出した庇を短く除去することで、実質的な街路の拡幅と延焼の防止を意図したものであった[注釈 23]

天和の大火後には、火除地の新設や広小路の延長が計画され、再び大名屋敷や寺社の移転が行なわれた。この移転によって寺社のほとんどは外堀の外側に位置することとなった。享保の改革では、町火消の制度化をはじめとして江戸市中の火事対策が強化された。将軍徳川吉宗は江戸の不燃化に熱心であり、吉宗の方針によって神田・八丁堀・市谷などに新たな火除地が設けられている[30]

こうして江戸市中各所に設けられた火除地や広小路であったが、火除地に指定された場所に家屋が建設されたり、広小路に商売用の小屋が立ち並んで以前より危険になったりと、その役割を果たしていないこともあった。

耐火・防火建築

屋根瓦

慶長6年(1601年)の大火後、幕府は屋根を茅葺から板葺にするよう命じた。その後、豪華な大名屋敷の建築もあって瓦葺が流行し、町家でも瓦葺となった建物が増加した。しかし、明暦の大火後には方針を転換し、瓦葺を禁じることになった[注釈 24]。火に強いはずの瓦葺が禁じられたのは、大火の際に落下したで怪我をするものが多く出たためであった[32]。そのため、火の移りやすい茅葺や藁葺の屋根に対して、延焼防止の目的で土を塗るように命じている。寛文元年(1661年)には茅葺・藁葺の新築を禁じ、板葺を使用するように命じた。

瓦葺の使用が命じられるようになったのは、徳川吉宗の治世に入ってからであった。武家屋敷に対しては享保8年(1723年)に、番町付近で焼失した旗本屋敷の再建に瓦葺の使用を命じ、費用の補助として禄高に応じた拝借金も出している。享保10年(1725年)ごろからは、地域限定ではあったが既存の屋敷に対しても瓦葺への改築が命じられるようになる。瓦葺が義務づけられた地域は拡大していき、瓦葺にしない屋敷は取り壊すという警告も出された。町家に対しては、享保5年(1720年)の町触で瓦葺の禁令を否定し、今後は瓦葺を使用して構わないとした。享保7年(1722年)からは江戸市中の各所で瓦葺・土蔵造り塗り屋(外部に土を塗った建物)の使用を命じるようになった。町人の負担を考慮し、瓦葺ではなくかきがら葺[注釈 25]の使用が許可された例もある。対象となった町に対しては、公役金の免除や拝借金の提供を行い、実行していない家屋の除去を予告するなど、町家の不燃化を推進した。

吉宗の意向を受け、幕府主導で実行された江戸市中の不燃化であったが、寛延4年(1751年)に吉宗が死去すると、幕府の財政窮乏などもあり積極的な推進策が行なわれなくなった。そのため江戸市中の不燃化は完成せず、後代においても関東大震災東京大空襲に至るまで幾度も大火が発生した。

禁令・防火令

幕府は火事の発生を防止するため、様々な通達を行なった。火事の原因となるものを禁じた通達と、行事などの際に防火を強化するために出された通達とがある。そのほか、実際に火事が起きた際の行動に対する禁令も出されている。

火事の原因となるものへの通達としては、湯屋風呂屋花火左義長・ごみ焼却などに対する禁令が出された。町家では風呂がほとんど設けられなかったため、湯屋や風呂屋が繁盛していた[注釈 26]。その営業には火が必須であったが、承応2年(1653年)には防火のため暮六つ(午後6時ごろ)までしか焚いてはならないと命じられた[注釈 27]。また、享保年間には翌朝まで水を抜かず溜めておくように命じている。これは火事の際に消火用として利用するためであった。花火は慶安元年(1648年)に河口以外での打ち上げを禁じ、町中での製作も禁じている。慶安5年(1652年)には、花火を打ち上げる場所が隅田川のみとなった。左義長を町中や屋敷内で焼くことは元禄年間ごろに禁じられ、ごみの焼却はそれより早く明暦元年(1655年)に禁じられた。変わった禁令として、正保3年(1646年)の凧揚げ禁止令があげられる。これは、江戸城切手門に火のついた凧が落下したため、その2日後に出された禁令であった[注釈 28]

行事の際の防火令(警火令)としては、将軍の日光参詣・内親王下向・朝鮮通信使来日などの際に、警備と防火体制の強化を命じた町触が出された。火の用心や喧嘩などの防止のために見回りを行なわせ、火事に備えて水を入れたを用意しておくこと、町内の清掃を行なうことなどが命じられている。また、上野寛永寺・芝増上寺での法事や山王社の祭礼などの際にも、防火令が出されている。

火事が起きた際の行動を規制したものとしては、火事見物の禁止[注釈 29]大八車などによる道具持ち出しの禁止・車長持使用及び製造の禁止などがある。いずれの行為も、火事場の混雑を招き、避難の障害になるためであった。


注釈

  1. ^ 西山松之助により、「江戸町人総論」の中で江戸の都市的特色の1つとして、「男性都市」「火災都市」「強制移転の町」と規定された[1]
  2. ^ 祝融と回禄は古代中国の火神の名である[3]
  3. ^ 回数は魚谷増男の研究による[4]
  4. ^ 回数は吉原健一郎の研究による[5]
  5. ^ 大火については『江戸の火事』『東京災害史』「江戸災害年表」などによる。
  6. ^ お七の一家がこの火事で焼け出され、避難場所となった寺で見初めた寺男に対する生娘の恋心から、また大火事で焼け出されれば男に会えると後日自ら放火に及んだ(この放火による火事はぼやで消し止められたとされる)ことからこの通称がついた。この大火の原因がお七の放火にあるのではない。
  7. ^ 通称・別称は、上野寛永寺根本中堂に掲げる東山天皇勅額が江戸に到着した日に発生したため。
  8. ^ 通称は、火元に牛車の運送を扱うものが住んでいたため。
  9. ^ 神田佐久間町は幾度も大火の火元となったため、口さがない江戸っ子はこれを「悪魔(アクマ)町」と呼ぶほどだった。
  10. ^ 『』内の文章には、『火災都市江戸の実体』 pp.85 - 90の記述から三条件の文章を引用した。
  11. ^ 幕府の調査による享保6年の町方人口50万に、武家人口の推定である50-70万とその他(出家者・山伏・吉原関連など)の人口を考慮した推定値[14]
  12. ^ 内藤昌の研究によれば、明治2年(1869年)の時点で江戸の総面積に占める割合は、武家地68.58%、寺社地15.61%、町人地15.81%であった[14]
  13. ^ 江戸時代後期に編纂された『徳川実紀』では、使用例がない時代の記述も「火賊」の表記で統一している[15]
  14. ^ 東京市史稿』による。この2年間が突出して多く、捕らえられた102人には無実のものが含まれていた可能性も高い[16]
  15. ^ 天和3年(1683年)正月の放火で捕らえられた「はる」という下女の供述。火焙りとなった。『御仕置裁許帳』によれば『(前略)到検議候処ニ、眞木之燃杭を持、雪隠え火を付申候、同類も無之、主え意恨有之候て付候にても無之、物取候ニても無候、不斗火付申所存、付候由申ニ付、籠舎、右之者、亥二月九日於浅草火罪』とある[17]
  16. ^ 消火活動の際、本来なら焼けるはずのない場所へ、火をまわして火事を拡大する行為をさす。
  17. ^ 1月の平均湿度は、東京49%であり、日本海側の金沢75%は措くとしても、三都の京都66%、大阪61%と比較しても、著しく低い。強い北西季節風(伊吹おろし)で有名な名古屋64%と比較しても、低いことが分かる[19]
  18. ^ のちに定火消は10組の編成となり、江戸城北西以外にも配置されていく。
  19. ^ 現在では春一番と呼ばれることもある、春先の強い南風・南西風は、江戸時代の江戸では、むしろ気象学的に的を射て「富士南風」と呼ばれた。この富士南風も、大火の原因の一つとされている[20]
  20. ^ 原因として、江戸時代初期にはまだ戦国時代の遺風が強かったことがあげられる[23]
  21. ^ 「消防組織」節以下に含まれる記述は、「江戸火消制度の成立と展開」『江戸の火事』『江戸の火事と火消』などを参考としているが、ページ表記などの脚注は省略した。より詳しい記述のある火消の項目を参照。
  22. ^ 戸田茂睡の『御当代記』に、中山勘解由による取り締まりでは多くの無実のものが自白させられたと記され、当時から冤罪の多さが知られていた[24]
  23. ^ 町触が出されるまでは、街路両側の建物から庇が京間1間(約1.97m)ずつ突き出ている例もあった[29]
  24. ^ 明暦の大火以前にも、慶安2年(1649年)の地震後に、家屋が倒壊したのは屋根が瓦葺で重いためであるとして、禁止されたことがある[31]
  25. ^ 屋根に牡蠣貝殻を敷き並べたもの。飛び火を防ぐ効果があった。
  26. ^ 自宅に浴室を設置すれば熱源が増え、それだけ失火の危険性が高まる。世間からも火元と疑われるため、避けられていた[33]
  27. ^ ただし、暮六つ以降でも湯が冷めるまでの間は入浴が認められていた[34]
  28. ^ この凧が江戸城への放火を狙ったものだったのかは不明である[35]
  29. ^ 火事場にいてよいのは、火消と親類家中のみと定められていた。明暦の大火後には、制止を聞かないものは斬り捨てて構わないとされている[36]
  30. ^ 『絵本江戸風俗往来』の記述による[39]
  31. ^ 加藤曳尾庵『我衣』による。喜多村信節『嬉遊笑覧』では否定されている[40]
  32. ^ 『地方凡例録』による[42]
  33. ^ 押込日数の差は焼失面積による。小間10間以内の火事であれば、火元以外が焼失しても罪にはならなかった[44]
  34. ^ 罰せられたのは、町火消設置令で火事への駆けつけが義務付けられている範囲の月行事。火事の拡大に対する罰であった。
  35. ^ なかでも明暦の大火後には、1升が40文から1000文に、1升が3文から2400文になったという記録が残されている[45]
  36. ^ 当時の将軍徳川家綱が受け取った、家康以来の遺産は423万両であったとされる[47]

出典

  1. ^ 「江戸町人総論」P.5-P.20
  2. ^ 「火災都市江戸の実体」P.84
  3. ^ a b 『江戸学事典』P.572
  4. ^ 『江戸の火事』P.3
  5. ^ 『江戸の火事』P.4
  6. ^ 『江戸三火消図鑑』P.198
  7. ^ a b 東京市(編)『東京市史稿 変災篇』第4巻、東京市刊、大正6(1917)年、p.65
  8. ^ a b コトバンク「桶町の大火」2024年1月20日閲覧
  9. ^ 『東京災害史』P.33
  10. ^ a b 村田あが「江戸時代の都市防災に関する考察(1)」『跡見学園女子大学マネジメント学部紀要』第15号、跡見学園女子大学、2013年3月、87-110頁、ISSN 1348-1118NAID 110009579146  p.104 より
  11. ^ 山本博文『見る、読む、調べる 江戸時代年表』小学館、2007年10月6日、120頁。ISBN 9784096266069 
  12. ^ 『東京災害史』P.54、「江戸災害年表」P.439
  13. ^ 磯田道史 『素顔の西郷隆盛』 新潮新書 2018年 ISBN 978-4-10-610760-3 p.221.
  14. ^ a b 『江戸の火事』P.18
  15. ^ 「火災都市江戸の実体」P.16
  16. ^ 「火災都市江戸の実体」P.28
  17. ^ 『江戸の放火』P.283より引用
  18. ^ 『江戸の放火』P.63
  19. ^ 気象庁1981-2000年統計
  20. ^ 「江戸災害年表」P.440
  21. ^ 『江戸の火事』P.14
  22. ^ 「江戸火消制度の成立と展開」P.164
  23. ^ 「火災都市江戸の実体」P.15
  24. ^ 「火災都市江戸の実体」P.22
  25. ^ 『江戸の火事と火消』P.247
  26. ^ 「火災都市江戸の実体」P.18
  27. ^ 『江戸の放火』P.146
  28. ^ 『江戸の火事』P.201
  29. ^ 『江戸の火事』P.195
  30. ^ 『江戸の火事』P.209
  31. ^ 『江戸の火事と火消』P.210
  32. ^ 『江戸の火事』P.197
  33. ^ 「江戸町人総論」P.16
  34. ^ 『江戸の火事』P.137
  35. ^ 『江戸の放火』P.29
  36. ^ 『江戸の火事と火消』P.167
  37. ^ 『江戸の火事と火消』P.12
  38. ^ 『江戸の火事と火消』P.144
  39. ^ a b 『江戸の火事と火消』P.16
  40. ^ 『災害都市江戸と地下室』P.17
  41. ^ 『江戸の火事』P.198
  42. ^ 『江戸の火事と火消』P.261
  43. ^ 『江戸の火事と火消』P.226
  44. ^ 『江戸の火事』P.130
  45. ^ 『江戸の火事』P.167
  46. ^ 『江戸の放火』P.14
  47. ^ 『江戸の放火』P.18






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