上田敏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/28 05:37 UTC 版)
家族・親族
学者や海外留学経験者が複数いる。
上田家
- 母方祖父・上田友助(畯、東作、汪斎、1817?~?) - 新潟奉行支配並定役を務めた幕臣で、津田仙とともに新潟洋学講習所の講師も務めた[7]。1862年の文久遣欧使節に随行、のち遊撃隊 (幕府軍)を務めた[8]。
- 母・こう[1](孝子)(1849年 - ?)[2] - 上田友助の娘[9]。
- 父方祖父・乙骨耐軒(儒学者、1806年 - 1859年)[10]
- 父方祖母・りき(1835年 - ?、東京士族、遠藤多助の長女)[1]
- 父・上田絅二(旧名・乙骨亘、1844?-1888)[11](幕臣、静岡士族)[11][2] - 耐軒の二男[11]。1864年(文久3年)の「横浜鎖港談判使節団」に理髪師として海外を視察[11]。帰国後、幕府の通訳などを務め、上田友助の婿養子となり改名[11][8]。
- 妻・エツ(1878年 - ?、北海道、斎藤玄の叔祖母)[1][2]
- 長女・瑠璃子[2](1902年 - ?、嘉治隆一の妻、経済学者嘉治元郎の母。孫に嘉治美佐子)
親戚
- 父方の伯父・乙骨太郎乙(洋学者) - 乙骨耐軒の長男。日本の国歌である『君が代』を提案した人物とされる。
- 母方の叔母・上田悌子(1855-1939) - 上田友助の娘。岩倉使節団とともに渡米した日本初の女子留学生に吉益亮子、山川捨松、永井繁子、津田梅子とともに選ばれたが、体調を崩して翌年吉益とともに帰国、のち代々幕府の奥医師を務めた桂川家一族の桂川甫純と結婚した[12][9][13]。
- 従兄弟・乙骨三郎(音楽学者、作詞家) - 乙骨太郎乙の長男。
- 従兄弟・吹田順助 - 父の妹の子[14]
- ^ a b c d e f g h i 『人事興信録 第3版』う17 - 18頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年7月27日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 『人事興信録 第4版』う11頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年4月6日閲覧。
- ^ 「初めてユイスマンスを日本に紹介したのは永井荷風か知りたい。」(埼玉県立久喜図書館) - レファレンス協同データベース 2017年2月13日閲覧。
- ^ a b 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)52頁
- ^ 乙骨太郎乙(おつこつ たろうおつ)とは - コトバンク
- ^ 大塚英良『文学者掃苔録図書館』(原書房、2015年)45頁
- ^ 『津田梅子』橘木俊詔 、平凡社、2022
- ^ a b 「上田友助(友助は友輔とも表記)の号が汪斎だと書かれている資料を知りたい。」(新潟市立中央図書館) - レファレンス協同データベース 2020年09月03日
- ^ a b 『全国版幕末維新人物事典』学研パブリッシング、2010、p319
- ^ 乙骨耐軒とは - コトバンク
- ^ a b c d e (乙骨亘とは - コトバンクより)
- ^ 教育を読むKawaijuku Guideline 2014.9
- ^ 『明治の女子留学生 最初に海を渡った五人の少女』」寺沢龍 平凡社新書、p118
- ^ 『世界紀行文學全集 フランスⅡ』(修道社 1971年)p102
固有名詞の分類
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