集団自決
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集団自決(しゅうだんじけつ)とは人が集団で自決を行う事。
語義
集団自決は集団自殺とはニュアンスが異なり、日本の辞書によっては自殺と自決で違う語義説明をしている[1]。しかし、過去の出来事・事件の中にも、「集団自決」「集団自殺」の両方の語彙が使われるものもある。
『鉄の暴風』を書いた太田良博が、沖縄戦史執筆の際に初めて用いた造語で、太田以前には存在しないともいわれる[2]。
歴史上の事件の諸例
古代中国
古代ユダヤ
ロシア
ギリシャ
インドネシア
インドネシアでは集団自決をププタンといい、オランダによるバリ島侵攻、すなわちバリ戦争(1846年から1849年)、ロンボク戦争(1894年)、バリ侵攻(1906年)、バリ侵攻 (1908年)までの戦闘においてバリ島のいくつかの王国で実施された。
日本
戊辰戦争中の1868年、白虎隊のうち白虎士中二番隊による集団自決が知られる。20名が自刃し、うち飯沼貞吉は生き残る。
- 第二次世界大戦における諸例。
- サイパンの戦い - 日本人による集団自決が以下の各所を中心に起こった。
- 沖縄戦における集団自決 - 第二次世界大戦中の沖縄戦において起こった。
- 満洲国#その後の満洲地域 - 終戦時、各地で満蒙開拓団の自決が相次いだ。
- 東寧重砲兵連隊・独立牽引車第15中隊・工兵第79連隊 - いずれも関東軍の部隊で終戦後に集団で自爆を図り約250人死亡。
- 真岡郵便電信局事件 - 樺太における女性電話交換手の集団自決。
- 日本の第二次世界大戦の敗戦に関して国粋主義団体が起こした事例 - 皇居外苑における集団自決。明朗会関係者12名の割腹。他、愛宕山事件など。
関連作品
- ホヴァーンシチナ - 古儀式派による集団自決が題材の一つとなっているモデスト・ムソルグスキーによるオペラ。
- 樺太1945年夏 氷雪の門 - 真岡郵便電信局事件を題材にした映画。
脚注
関連項目
集団自決
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 10:48 UTC 版)
サイパンは日本人の民間人が居住している土地での初めての本格的な防衛戦闘となったが、当時の日本には戦闘地域における民間人の取り扱いについての取り決めはなく、アメリカ軍の艦砲射撃や空襲が始まると、多数の民間人が巻き込まれて死傷した。アメリカ軍上陸直前の6月14日には日本人民間人に防衛召集がかけられ、青年団や警防団は軍に協力して後方任務に従事したが、軍が日本人民間人の保護や避難誘導を組織的に行ったという記録はなく、砲爆撃に家を焼かれた民間人は子供の手を引いて、山岳地帯に列をなして自ら避難していった。 サイパンの民間人の扱いに対して協議されたのは、大本営がサイパンの放棄を決定した後の6月28日であり、東條より検討の指示を受けた軍務局長佐藤賢了中将が、医事局長大塚文郎大佐を幹事とする連絡会議を開催して協議された。そこで「政府が命令において死ねというのは如何なものか」「非戦闘員が自害してればよいが、やむを得ずに敵手に落ちることもあるも、やむを得ないではないか」という意見が出されて「民間人は自決が望ましいが、死ねとも言えないので、やむを得ずアメリカ軍への投降を認める」という基本方針が決められた。この方針はすぐに東條から昭和天皇にも上奏され、民間人を非常に心配していた昭和天皇はこの方針を聞いて満足したという。しかし東條や佐藤はこの方針について「このことに対しては、直接の課長までとす」「個人または軍の意見の如く流布するのは不可」として、正式な命令や指示としてサイパンの各部隊に伝えることはしなかった。 日本本土でこのような決定がなされたことを知る由もない民間人は戦闘の中を逃げ惑ったが、戦闘の末期になると、多くの民間人が軍と共に島の北部に追い詰められ、バンザイクリフやスーサイドクリフから海に飛び込み自決した。なかには、親が子供を殺した後に崖から飛び降りたり、小学生が車座になって座り手榴弾で集団自決をすることもあった。多くの民間人が軍民一体、兵士と共に逝くことが祖国への忠誠と教え込まれてきた結果であり、民間人の最期の様子はアメリカの従軍記者によって雑誌『タイム』に掲載され、世界中に配信された。特に入水自決の一部始終を撮影したフィルムは1シーンしかなく、入水者は会津出身の室井ヨシという婦人であった。海兵隊員は目の前で繰り広げられる民間人の集団自決に衝撃を受け、特に自決前に行う儀式に目を奪われた。3人の若い日本人女性は多くの海兵隊員が見ている前で岩場に悠々と腰掛けると、長い黒髪を落ち着いた様子で櫛で整え始めて、整髪し終わると両手を合わせて祈りながらしずしずと海に向かって歩いていきそのまま入水自殺を遂げた。その様子を目撃したアメリカの従軍記者は、テルモピュライの戦いの前に、スパルタのレオニダス1世やその部下たちが決死の覚悟で執り行ったとされる儀式を連想したという。また、ある100人の集団は、全員が服を脱いで海中に入って身を清めると、平らな大きな岩の上に日本の国旗を広げ、その国旗の上で指揮役の男から配られた手榴弾で全員が自爆して果てた。 アメリカ軍は島内の民間人を保護する旨の放送を繰り返していたが、ほとんど効果がなかった。これは、退避中の民間人がアメリカ軍による無差別攻撃により死傷者を出していたことも影響した。志願で従軍看護婦となった民間人女性菅野静子も、アメリカ軍が日本軍負傷兵であふれていた野戦病院を火炎放射器で焼き払ったり、命乞いする日本軍負傷兵を殺害するところを目撃しており、捕まったら絶対に殺されると確信していたという。菅野は日本軍の最後の総攻撃のあと、野戦病院で手榴弾で自決をはかったが、重傷を負ってアメリカ軍に収容されており、のちに「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」紙に「サイパンのジャンヌ・ダルク」として報じられている。その記事には「日本軍最後の玉砕地点で発見したのは、意外にも、手榴弾で自決をはかり下腹部に重傷を負っていたWAC(女性兵士)だった・・・この勇敢な“女戦士”のヤマト・ダマシイに強く心をうたれた」と書かれていたという。また、民間人は軍からアメリカ兵に捕えられたら殺されるのだから、自分から死ぬ方がよいと教え込まれており、自決を禁止しなかったことも犠牲が増えた原因と指摘されている。この点、テニアンの戦いでは日本軍が民間人に対し自決行為を強く戒めた事が効果を出し、民間人の自決行為が少なかったのと対照的である(異論がある。詳細はテニアンの戦い#戦闘後)。 しかし、サイパンで収容した日本人の民間人を調査したアメリカ軍の報告書によれば、投降した民間人の中では自決を考えていた割合は低く、なかなかアメリカ軍に投降しなかった最大の理由は軍に殉ずるなどといった愛国的な理由よりむしろ「捕まったら拷問されるから」であり、それを信じていた比率は収容者の70%以上であった。民間人が拷問されると信じたのは、軍の指導や教育というよりは、戦争中の戦意高揚のため朝日新聞、婦人公論、雑誌キングといったマスコミが、ガダルカナルの戦いでの報道を基に「男や子どもたちは戦車やスチームローラーによって轢き殺され、女たちは船に連れて行かれて兵士や水兵らの慰みものにされるだろう」などと真偽不明のセンセーショナルな記事を報じ、それを読んで真に受けた日本軍将兵が、民間人に話して広まってしまったからであった。また、ある新聞では、アメリカ新聞紙面に掲載された、アメリカ軍戦車に取り付けられた日本兵の頭蓋骨の写真を紙面に転載して、アメリカ人に対する憎しみと恐怖を煽ったり、海兵隊が「日本兵狩猟許可証」を無料の弾薬や武器と一緒に受け取っているなどと、アメリカ軍人向けに描かれたフィクション漫画を翻訳付きで紙面に載せ、それを目にした民間人は、海兵隊員が捕虜になった日本人をもっともおぞましい拷問すると思い込み、海兵隊員を最も恐れていたという。 以上の状況から、捕らえられるよりは自決を選んだ民間人が入っていない統計にはなるが、民間人の投降を妨げた最大の要因は「アメリカ兵に対する恐怖」であったことが判明した。また、投降に至った手段としては、「よく知っている人または親戚の呼びかけ」で80%近くにもなった。逆にアメリカ軍が繰り返していた放送やビラによる投降呼びかけに応じたのは20%にも満たず、今後の日本人住民保護の参考として活かされることとなった。なお、日本の軍人の中には、アメリカ軍による意図的な民間人虐殺を目撃したと証言する者もあるが、信憑性は疑問視されている(詳細は#アメリカ軍の虐殺行為に関する田中徳祐の証言で後述)。 日本国内では大本営により「おおむねほとんどの民間人は軍と運命をともにした」と発表され、当時の日本の新聞各紙も上記『タイム』の記事を引用して民間人の壮絶な最期を記事にした。また、藤田嗣治によるサイパンの民間人の最後を描写した絵画「サイパン島同胞臣節を全うす」が制作展覧された。
※この「集団自決」の解説は、「サイパンの戦い」の解説の一部です。
「集団自決」を含む「サイパンの戦い」の記事については、「サイパンの戦い」の概要を参照ください。
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