居合道
歴史と沿革
居合道は日本刀の操法を通した、剣の理法の修錬による人間形成を目的としています。
起源は室町時代の永禄年間(約450年前)とされ、抜刀の一瞬に勝敗を決する武術として、生死をかけた修業が行われていました。
静中動あり、現在日本刀を直接使用する居合道は、一つの心の乱れも許されない数少ない武道であり、心身鍛錬の道として剣道と表裏一体の関係にあります。
居合道は、1956年(昭和31年)に全日本剣道連盟に加盟し、1966年(昭和41年)には第1回全日本居合道大会が開催されました。居合道は流派も多く、従来各人の演武の披露に止まっていましたが、この大会では勝敗を判定し、優勝者を決めました。
これを機に、1969年(昭和44年)「全日本剣道連盟居合」にて7本の形(一本目 前、二本目 後ろ、三本目 受け流し、四本目 柄当て、五本目 袈裟切り、六本目 諸手突き、七本目 三方切り)が制定され、1980年(昭和55年)に3本(八本目 顔面当て、九本目 添え手突き、十本目 四方切り)が追加、2000年(平成12年)にはさらに2本(十一本目 総切り、十二本目 抜き打ち)が追加され、現在合計12本の形が制定されています。
居合道には、剣道同様に称号・段位制度が設けられています。段位(初~八段)は居合道の技術的力量を示すもの、称号(錬士・教士・範士)はそれに加え指導力や識見などを備えた居合道人としての完成度を示すものとして、授与されます。
競技人口は、年々増加傾向にあり、2009年(平成21年)度末時点で(財)全日本剣道連盟に登録されている在籍人数は、85,409名になりました。
海外の居合道愛好者も増えつつあり、(財)全日本剣道連盟が講師を派遣して行う講習会が欧米を中心に数多く実施されています。また、国際剣道連盟加盟団体による大会も開かれており、国内外でのますますの普及・発展が期待されています。
競技方法
居合道の試合は、2名の出場者が、真剣または模擬刀を用い、あらかじめ定められた全日本剣道連盟居合と各流派の形のうち、合わせて5本を6分以内に演武し、その「修業の深さ」、「礼儀」、「技の正確さ」、「心構え」、「気・剣・体の一致」、「武道としての合理的な居合であること」、「全日本剣道連盟居合(解説)の審判・審査上の着眼点」を参考に審判員(主審1名、副審2名)が判定して勝敗を決します。
現在、(財)全日本剣道連盟が主催する全日本居合道大会のほか、各都道府県剣道連盟や関連団体が主催する大会も多く行われています。
ルール
(財)全日本剣道連盟発行の『居合道試合・審判規則/同細則』にのっとって行われます。ごく大まかにいえば、居合道では、試合場に入る「出場」から始まり、ある状況と仮想敵とを想定し、正座や立った状態から定められた術技を行い、試合場を出る「退場」するまでが一つの演武となります。その間、一挙一動には細かな作法が定められています。また、技によっては、仮想敵が1人とは限りません。ここが1対1で互いに打ち合う剣道と大きく異なる点といえるでしょう。
道具、コートなどの説明
使用する日本刀は真剣が原則ですが、模擬刀を使用することも認められています。なお、真剣を扱う以上、法律に従うことはもちろん、その安全管理には細心の注意が払われます。服装は、剣道着または居合道着(黒または白のつつ袖、試合者の名札は左胸部に着ける)と定められています。試合場は、板張の床を原則とし、境界線を含み一辺を縦7m、横3mの長方形とします。
居合道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/04 05:22 UTC 版)
居合道(いあいどう)とは、古武道の居合術を現代武道化したものである。
注釈
- ^ 全日本剣道連盟は剣道をスポーツとして行う方針を打ち出し、日本刀を使用する居合道を除外した[5]。
- ^ この経緯について河野百錬は、「新生剣道はスポーツであるから刀やなぎなた、杖といった武器をつかう武術は別だ、といっていたのに、いつの間にか一緒にやろうと卑劣な手段までつかって誘い出してきた。女性たちのなぎなたは自分たちの連盟があるからけっこう、と拒絶できたが、居合は剣道人たちがいるし、戦前からやっている人は武徳会の段位称号に弱い。どうしても武徳会イコール全剣連になってしまう。はじめは居合道は剣道の従属物でも附属物でなく、これ自体独立した武道だ、といって従来通りに全日本居合道連盟でやろう、といっていたが、全剣連の段位称号でつられたり、全居連にいる者は剣道の昇段試験に影響する、とおどかしてくるので、次第に引き抜かれていったのです。」と述べている[6]。
- ^ 紙本栄一は晩年、『剣道日本』の取材に対し、「全日本剣道連盟が昭和27年に結成されましたが、居合道は組織の一部としてとり上げてくれない。近畿以西の四国や九州には各流派を学んだ居合道愛好家がいて、戦後初の京都大会が開かれたとき、京都の大野熊雄先生のところにそうした人たちが寄ったものです。河野百錬さんもおられ、スキヤキをつっつきながら、全日本剣道連盟がとり上げてくれないのなら我々で組織を作ろうではないか、将来、全日本剣道連盟が居合道を組織に入れなければ、そのまま移行すればいい、といった話し合いで全日本居合道連盟というのができました。戦前の居合道には称号はあったが段位はなかったので、この全日本居合道連盟では独自に段位を定め、わたしのように教士の称号をもっているものは、居合道八段とされた。このときは段位、称号を全日本居合道連盟が与えても何の不都合もなかった。30年に全日本剣道連盟が居合道を組織にきちんと入れるということで、当時の庄子宗光理事長、渡辺敏雄事務局長が全日本居合道連盟の会員全員を入れようとしたが、話がまとまらず決裂しました。そのため全日本剣道連盟所属者以外は全日本剣道連盟の大会と行事に参加させないことに決定したのです。」と述べている[7]。
出典
- ^ "居合は「スポーツ」なのか?――全剣連居合道部の金銭授受問題をめぐって(田邊元)"SYNODOS
- ^ 池田清代『居合道名人伝 上巻』54頁、251頁、スキージャーナル
- ^ 『武道範士教士錬士名鑑』(昭和12年)、大日本武徳会本部雑誌部
- ^ a b "日本大百科全書「居合術」の解説(渡邉一郎)"コトバンク
- ^ 池田清代『居合道名人伝 上巻』25頁、スキージャーナル
- ^ 池田清代『居合道名人伝 上巻』28頁、スキージャーナル
- ^ 池田清代『居合道名人伝 上巻』250-251頁、スキージャーナル
- ^ ウーマンアイ 刀剣人気 歴女が進化、居合や殺陣に魅了 - 47NEWS(共同通信 2010/02/15)
- ^ 池田清代『居合道名人伝 上巻』59頁、スキージャーナル
居合道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 15:39 UTC 版)
1938年(昭和13年)春の大相撲大阪巡業の際、通りかかった武徳殿で居合の演武を目にしてその姿に魅せられ、同年9月に東京の有信館(夢想神伝流中山博道)に入門した。中山博道の最初の言葉は「座れますか、力士は座るのが大変だから、やれますかな」であった。本場所のない時期は朝稽古が終わると、両国から本郷の有信館まで通った。大相撲を引退後、木瀬部屋の隣の土地に居合道場「研修館」を建て、居合道を指導した。 1964年(昭和39年)、東京オリンピック・デモンストレーション居合道を演武。1969年(昭和44年)には委員の一人として全日本剣道連盟居合を制定した。後年、両国国技館内の相撲博物館に日本刀を一振り寄贈した。故郷の名取市に「檀崎質郎友彰先生顕彰碑」が建碑されている。
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居合道
「居合道」の例文・使い方・用例・文例
- 居合道の練習のため
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