銭・五とは? わかりやすく解説

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五銭紙幣

(銭・五 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/12 17:46 UTC 版)

五銭紙幣(ごせんしへい)とは日本銀行券の1つ。五銭券五銭札とも呼ばれる。

概要

い号券、A号券の2種類が存在する。小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律(額面一円未満の日本銀行券・政府紙幣・貨幣および一円黄銅貨を廃止)により1953年(昭和28年)末をもってどちらも失効している[1]。額面である5は1の20分の1に当たり、これまでに発行された日本銀行券の中で最も額面が小さいものである。

製造中止された五銭硬貨の代替として発行されたが硬貨の需要も根強く、五銭紙幣の発行期間中も常に額面金額5銭の通貨の発行高のうち6割以上は硬貨が占めている状態であり、実態としては硬貨と並行して流通していた[2]

日本の現在発行されていない旧紙幣の中では現存数が非常に多く、しばしば未使用の100枚帯封、稀には1000枚完封が古銭市場やネットオークション等に現れるほどであり、古銭商による買取の場合、1枚での買取はほとんど期待できず、大量にまとめての安い値段での買取となるのが一般である。

い号券

1944年(昭和19年)10月25日の大蔵省告示第489号「日本銀行券ノ種類ニ拾錢券及五錢券追加發行」[3]で紙幣の様式が定められている。主な仕様は下記の通り[4]

  • 日本銀行券
  • 額面 五錢(5銭)
  • 表面 皇居前広場楠木正成
  • 裏面 彩紋
  • 印章 〈表面〉総裁之印、発券局長 〈裏面〉なし
  • 銘板 大日本帝國印刷局製造
  • 記番号仕様
    • 記番号色 赤色[通し番号なし(組番号のみ)]
    • 記番号構成 〈記号〉組番号:数字1 - 2桁 〈番号〉通し番号なし
  • 寸法 縦48mm、横100mm[3]
  • 製造実績
  • 発行開始日 1944年(昭和19年)11月1日[3]
  • 通用停止日 1953年(昭和28年)12月31日[1]
  • 発行終了
  • 失効券

太平洋戦争の戦況の悪化に伴い金属材料が不足し、硬貨を小型化したり、硬貨の素材としては不適当な劣悪な材質の硬貨を製造したりしていた[注 2]が、その後硬貨用材料の枯渇によりい拾錢券とともに、小額な額面の小型紙幣が発行された[6]。当初は五十銭紙幣と同様に小額政府紙幣で代替する方針であったが、政府紙幣の新規額面の発行には国会での法改正が必要であり、急を要することから大蔵大臣の告示のみで対応可能な日本銀行券として発行された[6]

当時の印刷局は急増する日本銀行券の需要に加え、外地占領地向け紙幣、軍用手票公債などの証券類などの製造業務に繁忙を極めていたため、い五錢券の図案検討は印刷局で行われたものの、デザイン決定後に行われる彫刻、製版、印刷、検査、仕上げといった各工程は民間企業の共同印刷に全て委託された[6]。そのため、銘板には「大日本帝國印刷局製造」と表記されているものの実際には印刷局においては印刷が行われていない[2]

表面には彫刻家高村光雲後藤貞行らにより製作され、1900年(明治33年)に東京都千代田区の皇居前広場に建てられた楠木正成の騎馬姿の銅像が、上から光線が降り注ぐ光景の地模様と共に描かれている[6]。また輪郭上部には瑞雲が配されている[6]。裏面は下部にがあしらわれている他は彩紋模様のみであるが、印刷部分は楕円形の小さめのものとなっており、周囲は印刷のない空白が広がっている[6]。なおアラビア数字による額面表記はあるが、英語表記はなされていない。このデザインは、当初政府小額紙幣の十銭紙幣として準備が進められていたものを転用したものである[2]

透かしはい拾錢券等と共通の白透かしによる桐の図柄のちらし透かしであるが[6]、紙質や製作が粗悪なため透かしの確認は困難である。発行当初の紙幣用紙は木材パルプ亜硫酸パルプ)に少量の三椏を混合して抄造したものであったが、程無くして木材パルプのみの劣悪な品質の用紙に変更された[2]。なお用紙の節約と取扱上の利便性を考慮した結果、券面の寸法は従来の他券種と比べて横方向に細長く、1930年(昭和5年)の乙百圓券以来維持されてきた縦1:対角線2の規格から外れたものとなっている[2]

他の多くの日本銀行券と異なり、補助貨幣の代用として発行されたため、強制通用力の限度額は日本銀行券の十銭紙幣との合計で5円と定められていた。

使用色数は、表面3色(内訳は主模様1色、地模様1色、印章・記番号1色)、裏面1色となっている[7][4]。両面とも簡易な平版印刷によるものであり、裏面の簡素さや記番号の省略(通し番号はなく組番号(記号)のみの表記)など粗悪な作りになっている[2]

A号券

A券とも呼ばれる。1948年(昭和23年)5月25日の大蔵省告示第157号「昭和二十三年五月二十五日から発行する日本銀行券五銭の樣式」[8]で紙幣の様式が定められている。主な仕様は下記の通り[4]

  • 日本銀行券
  • 額面 五銭(5銭)
  • 表面
  • 裏面 彩紋
  • 印章 〈表面〉総裁之印 〈裏面〉なし
  • 銘板 印刷局製造
  • 記番号仕様
    • 記番号色 赤色[通し番号なし(組番号のみ)]
    • 記番号構成 〈記号〉「1」+組番号:数字1 - 2桁+製造工場:数字2桁 〈番号〉通し番号なし
  • 寸法 縦48mm、横94mm[8]
  • 製造実績
    • 印刷局から日本銀行への納入期間 1948年昭和23年)5月20日 - 1948年(昭和23年)6月29日[4]
    • 記号(組番号)範囲 1 - 12[注 3](1記号当たり5,000,000枚製造)[4]
    • 製造枚数 60,000,000枚[5]
  • 発行開始日 1948年(昭和23年)5月25日[8]
  • 通用停止日 1953年(昭和28年)12月31日[1]
  • 発行終了
  • 失効券

造幣局は手持ちの資材を活用して終戦直後の1945年(昭和20年)12月から五銭錫貨の製造を始めた[9]。これと前後してい五錢券は製造・発行が中止された[10]。しかしマレー半島などの旧日本軍占領地域が主要産地であったの輸入途絶による貨幣材料の入手困難に加え、インフレーションの昂進により材料価格が高騰し1946年(昭和21年)10月以降は五銭硬貨の製造が継続できない状況に陥ったことから、将来的に小額通貨の不足の可能性があるとして再度の五銭紙幣の発行が決定された[10]。なお終戦前後の猛烈なインフレーションにより額面金額5銭の法定通貨の需要はごく僅かとなっていたため、五十銭紙幣・十銭紙幣の場合と異なり小額通貨の現金不足は顕在化していなかったものの予防的に発行されている[10]

なおA号券の発行検討時にも、五銭紙幣を小額政府紙幣として発行することが選択肢の1つとして検討されたものの、い号券の発行時と同様に法改正が不要であり大蔵大臣の告示のみで対応できることから従来通り日本銀行券として発行された[10]

連合国軍占領下の当時は改刷を行い新紙幣を発行する場合、図案についてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の許可が必要であった[11]。加えて1946年(昭和21年)にはGHQにより軍国主義的と見做されたデザインの紙幣と郵便切手の新規発行が原則禁止された[注 4]ことを受け、再度の五銭紙幣発行に合わせてそのデザインの改訂を行ったものである[12]

デザインに梅を使うなど戦時中のい号券と印象が異なっている。表面の図柄の題材の候補として梅の他にバラ(薔薇)等が検討されたが、「忍耐と努力により敗戦から立ち直ること」を象徴するものとして梅が採用され、表面右側に8輪の梅花が描かれている[13]。裏面は彩紋のみの簡易な図柄となっている。以降に発行される日本銀行券と同様に、文言が新字体左横書きの表記で菊花紋章が削除されているが、これはA号券の内では唯一である[13]。券面寸法が小さいことから印章は表面の「総裁之印」の1個のみであり「発券局長」の印章は省略されている[13]

紙幣の印刷は全て民間印刷会社へ委託されていたが[10]、銘板は「印刷局製造」である。

記番号については通し番号はなく記号のみの表記となっている[4]。記号の下2桁が製造工場を表しているが[14]、このA五銭券は凸版印刷板橋工場(記号下2桁が13)で製造されたものしか存在しない[15]

同時期に発行された十円券以下のA号券と同様に透かしは入っていない[13]。また日本銀行券の中で最小の寸法である[13]

使用色数は、表面3色(内訳は主模様1色、地模様1色、印章・記番号1色)、裏面1色となっている[16][4]。印刷方式は両面とも平版印刷の簡易な紙幣である[13]

製造期間は1948年(昭和23年)5月から6月までの2ヶ月間のみであった。

変遷

戦況の悪化に伴う硬貨用材料の枯渇により、1944年昭和19年)8月まで製造されていた五銭硬貨五銭錫貨)の代替として発行された。同時に発行開始した十銭紙幣とは異なり、額面金額5銭の法定通貨が紙幣として発行されるのはこれが初めてである。

終戦直後の1945年(昭和20年)12月3日からは新たな五銭硬貨(五銭錫貨)が一旦製造されたが翌1946年(昭和21年)10月2日には製造終了し、その後は再び五銭紙幣のみの製造発行となっていた。最終的にはインフレーションの進行により銭単位の現金通貨が意味を成さないものとなり、硬貨が復活することなく銭単位の法定通貨(紙幣硬貨)自体が廃止となった。

脚注

注釈

  1. ^ 確認例は非常に少ないが、未発行の16組の存在が確認されている。
  2. ^ 開戦前は白銅青銅や純ニッケルを材料とした硬貨が発行されていたが、軍需用資材として転用させられたため、黄銅、更にアルミニウムなどを材料とした硬貨に代えられた。また、戦況の悪化に伴い寸法や量目(重量)についても度重なる縮小・削減が行われている。更に戦況が悪化すると、果ては貨幣用として適当な素材とは言い難い亜鉛合金を材料とした硬貨も発行されたが、大戦末期までにこれらの素材すらも確保が困難となり枯渇状態に陥っている[2]。1945年(昭和20年)の終戦時に製造されていた硬貨は、一銭錫貨のみという状況となっていた。
  3. ^ 記号の頭1桁と下2桁を除いた残り1 - 2桁
  4. ^ 郵便切手については軍国主義的と見做されたデザインのものは発行及び使用が直ちに禁止された(追放切手)が、紙幣については従前から継続して発行・流通しているものについては引き続き発行・使用することが認められていた。

出典

  1. ^ a b c d 1953年(昭和28年)7月15日法律第60号「 小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律
  2. ^ a b c d e f g 日本銀行調査局『図録日本の貨幣 9 管理通貨制度下の通貨』東洋経済新報社、1975年、192-195頁。 
  3. ^ a b c d e 1944年(昭和19年)10月25日大蔵省告示第489號「日本銀行券ノ種類ニ拾錢券及五錢券追加發行
  4. ^ a b c d e f g h i 大蔵省印刷局『日本銀行券製造100年・歴史と技術』大蔵省印刷局、1984年11月、312-313頁。 
  5. ^ a b 大蔵省印刷局『日本のお金 近代通貨ハンドブック』大蔵省印刷局、1994年6月、242-255頁。ISBN 9784173121601 
  6. ^ a b c d e f g 植村峻 2015, pp. 177–181.
  7. ^ 日本銀行調査局『図録日本の貨幣 9 管理通貨制度下の通貨』東洋経済新報社、1975年、188頁。 
  8. ^ a b c d 1948年(昭和23年)5月25日大蔵省告示第157号「昭和二十三年五月二十五日から発行する日本銀行券五銭の樣式
  9. ^ 日本銀行調査局『図録日本の貨幣 9 管理通貨制度下の通貨』東洋経済新報社、1975年、266頁。 
  10. ^ a b c d e 日本銀行調査局『図録日本の貨幣 9 管理通貨制度下の通貨』東洋経済新報社、1975年、208-210頁。 
  11. ^ 植村峻 2019, pp. 67–70.
  12. ^ 植村峻 2019, pp. 74–75.
  13. ^ a b c d e f 植村峻 2015, pp. 201–202.
  14. ^ 植村峻 2019, pp. 72–73.
  15. ^ 『日本紙幣収集事典』原点社、2005年、244頁。 
  16. ^ 日本銀行調査局『図録日本の貨幣 9 管理通貨制度下の通貨』東洋経済新報社、1975年、189頁。 

参考文献

  • 植村峻『紙幣肖像の近現代史』吉川弘文館、2015年6月。 ISBN 978-4-64-203845-4 
  • 植村峻『日本紙幣の肖像やデザインの謎』日本貨幣商協同組合、2019年1月。 ISBN 978-4-93-081024-3 
  • 利光三津夫、 植村峻、田宮健三『カラー版 日本通貨図鑑』日本専門図書出版、2004年6月。 ISBN 978-4-93-150707-4 
  • 大蔵省印刷局『日本のお金 近代通貨ハンドブック』大蔵省印刷局、1994年6月。 ISBN 978-4-17-312160-1 
  • 大蔵省印刷局『日本銀行券製造100年・歴史と技術』大蔵省印刷局、1984年11月。 
  • 日本銀行調査局『図録日本の貨幣 9 管理通貨制度下の通貨』東洋経済新報社、1975年。 

関連項目


銭屋五兵衛

(銭・五 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/29 18:38 UTC 版)

銭屋五兵衛

銭屋 五兵衛(ぜにや ごへえ、安永2年11月25日1774年1月7日) - 嘉永5年11月21日1852年12月31日))は、江戸時代後期の加賀の商人、海運業者。金沢藩御用商人を務めた。姓名の略から「銭五」とも呼ばれる。幼名は茂助。「五兵衛」は銭屋代々の当主が襲名する通称だが、この項では最も著名な最後の当主(三代目)について説明する。

略歴

周延「教導立志基 ちかこ」(1886年)。銭屋五兵衛の孫娘ちかこは、密貿易の罪で獄中にあった五兵衛の無罪放免を願って川に身を投げたという説話をもとに描かれた浮世絵。「教導立志基」は教育用に日本の偉人を紹介するシリーズ

銭屋は戦国時代に滅亡した朝倉氏の末裔を自称し、初代の吉右衛門が金沢に移住して以来、両替商のほか醤油醸造・古着商などを手広く営んだ家系であった。父(五兵衛)が金沢の外港である宮腰を本拠に海運業を始めたが、不振となりいったん廃業。子の五兵衛が39歳の時、質流れの船を調達して海運業を再開した(文化8年(1811年ごろ))。

宮腰(現在の金石)は当時隆盛した北前船航路の重要な中継港であり、米の売買を中心に商いを拡げ、最盛期には千石積みの持ち船を20艘以上、全所有船舶200艘を所有し、全国に34店舗の支店を構える豪商となった。ライバル商人との商戦や、船の難破などの苦難、各地での商売の様子など、五兵衛の商業記録は彼の手記『年々留』に詳細に記されている。また、各地の用地を買収して新田開発事業や、支店を開設するなど業種・商業圏を拡げ、将来の経済界の変動に備えたリスクヘッジも行っていた。

また銭五は、外国との密貿易を行っていたということでも有名である。もちろん当時は鎖国体制下、外国との交易は厳禁されていたが、金沢藩への献上金への見返りとして黙認されていたと言われる。銭五は本多利明の経済論や、からくり師として名を知られた大野弁吉などに影響を受けていたと言われ、海外交易の必要性を痛感していた。蝦夷地樺太ではアイヌを通じて山丹交易を(礼文島には「銭屋五兵衛貿易の地」の碑が建てられている)、国後場所や択捉場所に属した択捉島近海ではロシア抜荷取引し、また自ら香港アモイまで出向いたり、アメリカ合衆国の商人とも交易したといい、オーストラリアタスマニア島には領地を持っていたともいう(同地には銭五の石碑があったという。現在は紛失[1])伝説すらある。これらの「銭五伝説」の中には信憑性に疑問があるものも少なくないが、ある程度までは事実であったと思われる。地元金沢では、金沢藩の勝手方御用掛として藩政実務のトップにあった奥村栄実と結び、御用銀調達の任務にあたるとともに、藩の御手船裁許すなわち藩が所有する商船の管理人となって、商売を行い巨利を得たという。しかし奥村がやがて死亡し、対立する改革派・黒羽織党が藩の実権を握ると、五兵衛の立場は微妙となる。五兵衛は河北潟(かほくがた)の干拓・開発工事を請け負うが、労働者として雇った地域住民と賃金のことなどで揉めたあげく、地域住民は全員解雇し、能登国の宝達者(現・宝達志水町の在住者)を労務者として雇い入れた。しかし難工事の上、地域住民の妨害などにより工事は遅れ、五兵衛自身の体の衰えもあり、完成を焦った。そこで理兵衛らと相談し、埋め立てに石灰を使った。石灰は別に毒ではないが、投げ込んだ箇所で魚が窒息死することがある。これを見ていた住民が銭屋が毒を流したと言いたてた。周辺の農民・漁民から猛反発を受け、五兵衛は子の要蔵ら11名とともに投獄された。五兵衛は噂を否定したが、結局獄死し(享年80)、他獄死6名・はりつけ2名・永牢2名など、銭屋は財産没収・家名断絶とされた。三男・佐八郎はゴールドラッシュの噂を聞きつけて1847年頃から密かにアメリカに渡り、1851年に帰国していたが、鎖国破りの罪で磔刑に処してしまった。また、嘆願によって放免になった長男・喜太郎は、頼るところもなく南砺市旧城端善徳寺に参り、福野の安居寺に向かう途中で自害した。その地に、石碑が建てられ銭屋の冥福が祈られている(南砺市福光に銭屋の碑がある)。江戸幕府が鎖国政策を改め、開国に転換する日米和親条約の締結の、わずか2年前のことであった。

民俗学者の宮本常一が昭和25年(1950年)7月下旬に対馬豆酘(つつ)村浅藻に住む、80を越えるという梶田富五郎を訪ねて聞き取ったものとして、以下の話が紹介されている。かつて朝鮮人参を仕入れるための密貿易が行われていたが、その大将が銭屋五兵衛であった。加賀の銭屋か銭屋の加賀かといわれるほどの加賀一番の大金持ちで、また大きな廻船問屋であった。対馬までは日本の服装と帆でやってきたが、対馬を過ぎると朝鮮の服装と帆で変装し、朝鮮人になりすまして朝鮮へわたった。これをまねるものが当時数知れぬほど多く、対馬の役人の目をかすめては朝鮮へ行ったという。

墓所は金沢市の長徳寺、本龍寺、野田山墓地にある。

評価

死後、五兵衛は海外との密貿易を行って巨利を得たということで、悪徳商人の典型とされ酷評されたが、明治維新後はむしろ、鎖国体制下で海外交易を試みた先駆者として評価が高まった。銭五が挫折した河北潟の干拓は昭和28年(1953年)から国営事業として行われ、昭和60年(1985年)に完成した。なお現在、石川県金沢市の銭屋の旧宅の一部は「銭五の館」として公開されており、隣接して「銭屋五兵衛記念館」が併設されている。

銭屋五兵衛を題材とした作品

  • 作歌 八波則吉・作曲 新清次郎『唱歌 銭屋五兵衛』(宇都宮書店、1910年) NDLJP:855371
  • 舟橋聖一『海の百万石』上中下(大日本雄弁会講談社、1955 - 56年)
  • 童門冬二『海の街道 銭屋五兵衛と冒険者たち』上下(学陽書房人物文庫、1997年)
ISBN 4-313-75031-2、下 ISBN 4-313-75032-0
ISBN 4-103-76103-2ISBN 4-101-10020-9ISBN 4-313-75199-8、下 ISBN 4-103-76104-0ISBN 4-101-10021-7ISBN 4-313-75200-5

脚注

  1. ^ この話の概要は次のとおり。明治24年の数年前、豪州に行った日本の軽業師が、タスマニアで5、6個の碑石を見つけた。苔をはがして確認すると「かしうぜにやごへいりようち」(加州銭屋五兵衛領地)の文字が表れ、人々は驚いた。しかしその話が現地の英国人に伝わり、碑石は英国人の手で直ちに撤去された。それら碑石の所在した場所が土地の境界であれば、銭屋五兵衛の領地はタスマニアの13に及ぶと推定される(梅原忠蔵 編『帝国実業家立志編』347頁以下(明24,図書出版会社))。この話について、そのころタスマニアにわたった日本の軽業師の存在自体が疑わしいとされることもあったが、ノンフィクション作家・遠藤雅子の調査により、タスマニアの地元紙・「マーキュリー(en:The Mercury (Hobart))」の明治20年(1887年)1月13日~18日付紙面及び「ローンセストン・イグザミナー(en:Launceston Examiner)」の同年1月12日付紙面に、日本人興行団「ジャパニーズ・ビレッジ」の一行のタスマニア訪問について書かれた記事が存在することが確認された(遠藤雅子『幻の石碑』113-115頁,214-215頁(1993,サイマル出版会))。

参考文献

関連項目

外部リンク

  1. ^ 齋藤憲『稼ぐに追いつく貧乏なし : 浅野総一郎と浅野財閥』東洋経済新報社、1998年、9頁。ISBN 4492061061NCID BA38856030 

「銭五」の例文・使い方・用例・文例

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