起源と目的
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「内部マケドニア革命組織」の記事における「起源と目的」の解説
VMROの起こりは1893年で、オスマン帝国支配下のテッサロニキで発足した小規模な反オスマンのマケドニア・スラヴ人革命組織で、後にブルガリア人が支配するようになった。彼らはマケドニアを独立した領域であり、その住人は民族の別に関わらずマケドニア人と呼ぶべきであると考えていた。VMROは秘密革命組織であり、19世紀末から20世紀はじめにかけて、マケドニア地方に自治国家を打ち立てる目的で活動をはじめ、後にブルガリアによるバルカン半島の政治への関心に従って動くようになっていった。組織を指導したのはフリスト・タタルチェフ(Христо Татарчев、Hristo Tatarchev)、ダミアン・グルエフ(Дамян Йованов Груев、Dame Gruev)、ペタル・ポプ=アルソフ(Петар Поп Арсов、Petar Pop-Arsov)、アンドン・ディミトロフ(Andon Dimitrov)、フリスト・バタンジエフ(Hristo Batandzhiev)、イヴァン・ハジニコロフ(Ivan Hadzhinikolov)であった。 フリスト・タタルチェフの記録によると、最初の組織名はマケドニア革命組織(MRO)であった。イヴァン・ハジニコロフは自身の記録の中でマケドニア革命組織の設立時の5つの基本原則を記している。 革命組織はマケドニアで組織され、マケドニアで活動すべきであり、これによってギリシャ人およびセルビア人は革命組織をブルガリア政府の手先だと決め付けることが出来なくなる。 革命組織の設立者はマケドニアに住む地元の人間であるべきである。 革命組織の政治目標はマケドニアの自治であるべきである。 革命組織は秘密で、独立したもので、他の独立国家の政府とのつながりのないものであるべきである。 ブルガリアおよびブルガリア社会に暮らすマケドニア人移民は、マケドニアの革命闘争に対し精神的および物的な支援のみを与えるべきである。 フリスト・タタルチェフによると、 われわれは組織の目標について長きにわたって話し合い、その目標をブルガリア的要素を中心としたマケドニアの自治と定めた。我々は直接ブルガリアの一部となることはできない。なぜならばそれは列強諸国や、周囲を取り巻く国々およびトルコによる野望との大規模な衝突を生み出すことになるからだ。ひとつになった自治マケドニアはその後ブルガリアと統一するほうが容易であり、また万一の事態にはマケドニアがバルカンの人々の連携を図る上で重要な役割を果たしうるという我々の考えによるものだ。アドリアノープル地域は、私の知る限り、この活動の一翼を担ってはおらず、アドリアノープル地域を自治マケドニアに追加する考えは後になって出てきたものだ。 — ダミアン・グルエフの記録によると、MROの目的は次のように定められていた。 我々は共に集まり規則を制定した。この規則は、ベルリン条約の履行要求と同じ原則に基づいている。規則はブルガリア解放前のブルガリアの内部革命組織(en)のものをモデルとしている。我々の目標はベルリン条約の決議の履行であった。我々は中央委員会と部署を組織し、会費などについて定めた。構成員たちの入会宣誓も見守った。規則ではセルビアのプロパガンダの影響を受け入れず、逆に人民に焦点を当てることによってそれを跳ね返すことを目指していた。 — これらの資料に基づいて、1896年または1897年における組織の初期の非公式の名称が「ブルガリア・マケドニア・アドリアノープル革命委員会」(BMARC)であり、この名称で1902年に「秘密マケドニア・アドリアノープル革命組織」(SMARO)へと改称されるまで使用されていたという説がブルガリア人によって提唱され、西側諸国の歴史家の間で受け入れられている。幾らかのマケドニア人の歴史家はこの「ブルガリア・マケドニア・アドリアノープル革命委員会」の名称が極初期に存在していたことを認めるものの、マケドニア共和国においては一般的には1896年から1902年にかけての名称は「秘密マケドニア・アドリアノープル革命組織」であったと考えられている。どちらの説にも決定的な証拠資料は不足しており、またそのどちらの名称も内部マケドニア革命組織の文書中には現れないものの、これらの名称は日付のない手書きや印刷された規則のなかに登場する。しかしながら、マケドニアの歴史家は「秘密マケドニア・アドリアノープル革命組織」の規則が1989年からロンドンに存在していた点を指摘している。いずれにしても、組織がその名称を1905年に「内部マケドニア・アドリアノープル革命組織」(IMARO)に改称された事実には疑いなく、ブルガリアの歴史においてはこの名称が使われている。1915年から1918年にかけてのブルガリアによるマケドニア占領の間、組織は解散されたが、1920年に「内部マケドニア革命組織」(IMRO)の名称で復活した。 当初の委員会によって規定された目標は、オスマン帝国支配下の「マケドニアおよびアドリアノープル州(Vilayet)における全ての不満要因を糾合し、それによって地域の自治権を勝ち取る」ことであった。この時組織は、地域のヴラフ人やギリシャ人、さらにトルコ人の助力も期待していた。精力を精神的プロパガンダの流布に集中し、抵抗運動とテロ活動の見込みは希薄であった。組織は急速に成長し、数年のうちに委員会はマケドニアおよびアドリアノープル州の多くの地元の抵抗組織とのネットワークを形成するようになった。この動きは主にブルガリア正教会が中心となり、また地元またはブルガリア出身の教師が関わっていた。 内部マケドニア革命組織は主に、設立当初から民族的にはブルガリア人が主流を占めていたが、その考え方はマケドニアの自治を目指し、ブルガリア政府の方針とは距離を置いたものであり、ブルガリアによって動かされていたものではなかった。組織の指導者たちは、自治権獲得運動がブルガリア政府の手先となるよりも、列強諸国から好意的に見られることをより強く望んでいた。 イギリスのジャーナリスト、ヘンリー・ブレイルズフォード(H. N. Brailsford)いわく、 ブルガリア好きなマケドニア人たちが1893年に驚くべき革命組織を設立したとき、セルビア人は彼らによって致死的なブローを浴びたことになる。セルビア人のブルガリア人に対する敵愾心が強調される中、セルビアは公然とトルコ好きの政策を採るようになり、そのことは何よりもトルコにおけるキリスト教徒たちにとっては致命的であった。マケドニア人の農民たちは、オスマン帝国の束縛からの速やかな解放への見通しを約束するプロパガンダに対してのみ忠誠心を向けるようになるだろう。そして最後に、この対立する国々のプロパガンダの間には大きな違いがある。すなわち、ブルガリア人はマケドニアの自治のために働くが、セルビア人とギリシャ人はマケドニアを自国に併合することのみを目指しているということだ。その結果として、「マケドニア人の民族意識」が間違いなくブルガリア人によって作り上げられた物である中、マケドニア人の活動は彼ら自身の国を求めるようになったのだ。セルビア人の動きは純粋に扇動であり、ベオグラードによって動かされ資金を供給されたものであるのに対し、ソフィアへのシンパシーはあるものの、ブルガリアの革命組織は真にマケドニア人の組織であった。 — 何がより重要かと、組織の若い指導者たちは過激な社会主義者や無政府主義者の考えを擁護し、彼らの目的がブルガリアとひとつになることよりも新しい形式の政府を打ち立てることであるという姿勢を見せた。結局は、このような考え方によって組織の規則は変更され、メンバーはブルガリア人のみではなく、民族や信仰の別に関わらず全てのマケドニア人とアドリアノープル人であるとした。それでも実際には、ヴラフ人を除いては、メンバーたちはブルガリア正教会の圧倒的な影響下に置かれていた。 革命運動における社会主義者とコスモポリタンの考え方に関して、アメリカ人アルバート・ソニクセンは次のように述べている。 私が思うに、それは彼らが心の中に留めていた概念的な思想の力であり、狂信的愛国主義とは程遠いものであった。なぜなら、彼らにとっての自由はブルガリアによる統治よりも崇高であり、彼らにとってブルガリア人、ギリシャ人、トルコ人と完全に対等になれる完璧な仕組みであり、全世界が目指すべきある種の天国であったのだ。 — 現代のブルガリアの歴史家は、内部マケドニア革命組織の右派の支持者はの考えるマケドニアの自治の最終的で自然な行く末は、独自国家の建設よりもはるかにブルガリアとの統一に傾いていたと主張している。彼らは、イリンデン蜂起の際の第2マケドニア・アドリアノープル革命地区の指導者であったダミアン・グルネフとボリス・サラフォフからブルガリア政府にあてた公式の手紙から次のように引用している。 ここにいる多感で精力的な、血のつながった同族の兄弟たちが、現在のブルガリアの大地を脅かすような環境と危険の中に身をおかざるを得ない状況に対して、誉あるブルガリア政府がなんらその責務を果たさないのならば、それはブルガリア国家に対して壊滅的な結果となるであろうと、メンバーたちはその責務としてブルガリア政府の行動に注目しております。 — 第一次世界大戦におけるマケドニア戦線(1915年-1918年)では、組織はブルガリア軍に協力し、ヴァルダル・マケドニア(セルビア領マケドニア。後のマケドニア共和国)をブルガリアが占領した際は、ブルガリアの一時的な占領統治機構に加わっている。この間、政治的戦略として自治の目標はすべての内部マケドニア・アドリアノープル革命組織の流派で停止され、彼らはブルガリアとの統一主義者と立場を共有し、ブルガリアによるマケドニア併合を支持した。
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起源と目的
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 15:48 UTC 版)
合衆国政府はドワイト・アイゼンハワー大統領在任中の1950年代より、ラテンアメリカに対する経済的・軍事的支配を強化する政策を推進していた。1961年1月20日アイゼンハワーに代わって大統領に就任したケネディはアイゼンハワーの政策を継承し、同年春、ラテンアメリカに対する10カ年計画を次のような高尚な言葉を使って提案した。 「 我々はアメリカ州の革命を仕上げ、全ての人が最適な生活水準を望むことが出来、尊厳や自由のうちに生活を送れる半球を打ち立てることを提案する。この目的を果たすため、政治的自由は物質的繁栄を伴わなければならない。(中略)アメリカ大陸を革命思想やその取り組みに向けての大いなる苦闘や、自由な男女の創造的な力への貢献、自由と進歩とが手に手を取って歩むという例を、全世界に対して再度示そうではないか。武力や恐怖の帝国主義ではなくて、勇気や自由、人類の未来に対する希望を携えながら、各地の人々の闘争を導くまで、我々のアメリカ革命を再度鼓舞してゆこう 」 計画は1961年8月、ウルグアイのプンタ・デル・エステで開かれた会合にて調印。宣言で掲げられた取り組みは以下の通りである。 資本当たりの収入を年率2.5%引き上げる 民主的政府の樹立 1970年までにどの成人も読み書きが出来るようにする 物価の安定に努め、インフレーションやデフレーションを回避する より公正な富の分配や土地改革 経済及び社会計画 まずラテンアメリカ諸国が10年間で800億ドルの資本を投資することを求め、合衆国が200億ドルを提供、保証することに同意。その後ラテンアメリカ側は、参加国に国内の包括的な開発計画を作成することを求めた。これらの計画は、専門家による諮問委員会が提出することとなる。税制改革については「富裕層からより多く取る」よう変更された。
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