起源と目的とは? わかりやすく解説

起源と目的

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 16:25 UTC 版)

内部マケドニア革命組織」の記事における「起源と目的」の解説

VMRO起こり1893年で、オスマン帝国支配下のテッサロニキ発足した小規模なオスマンのマケドニア・スラヴ人革命組織で、後にブルガリア人支配するようになった。彼らはマケドニア独立した領域であり、その住人民族別に関わらずマケドニア人と呼ぶべきであると考えていた。VMRO秘密革命組織であり、19世紀末から20世紀はじめにかけて、マケドニア地方自治国家を打ち立てる目的活動をはじめ、後にブルガリアによるバルカン半島政治への関心に従って動くようになっていった。組織指導したのはフリスト・タタルチェフ(Христо Татарчев、Hristo Tatarchev)、ダミアン・グルエフ(Дамян Йованов Груев、Dame Gruev)、ペタル・ポプ=アルソフ(Петар Поп Арсов、Petar Pop-Arsov)、アンドン・ディミトロフ(Andon Dimitrov)、フリスト・バタンジエフ(Hristo Batandzhiev)、イヴァン・ハジニコロフ(Ivan Hadzhinikolov)であった。 フリスト・タタルチェフの記録によると、最初組織名マケドニア革命組織MROであった。イヴァン・ハジニコロフは自身記録の中でマケドニア革命組織設立時5つ基本原則記している。 革命組織マケドニア組織されマケドニア活動すべきであり、これによってギリシャ人およびセルビア人革命組織ブルガリア政府の手先だと決め付けることが出来なくなる。 革命組織設立者マケドニアに住む地元人間であるべきである革命組織政治目標マケドニア自治であるべきである革命組織秘密で、独立したもので、他の独立国家政府とのつながりのないものであるべきである。 ブルガリアおよびブルガリア社会に暮らすマケドニア人移民は、マケドニア革命闘争対し精神的および物的な支援のみを与えるべきである。 フリスト・タタルチェフによると、 われわれは組織の目標について長きわたって話し合い、その目標ブルガリア要素中心としたマケドニア自治定めた。我々は直接ブルガリア一部となることはできないなぜならばそれは列強諸国や、周囲取り巻国々およびトルコによる野望との大規模な衝突生み出すことになるからだ。ひとつになった自治マケドニアその後ブルガリア統一するほうが容易であり、また万一事態にはマケドニアバルカン人々連携を図る上で重要な役割果たしうるという我々の考えよるものだ。アドリアノープル地域は、私の知る限り、この活動一翼担ってはおらずアドリアノープル地域自治マケドニア追加する考え後になって出てきたものだ。 —  ダミアン・グルエフの記録によると、MRO目的次のように定められていた。 我々は共に集まり規則制定した。この規則は、ベルリン条約履行要求と同じ原則基づいている。規則ブルガリア解放前のブルガリア内部革命組織en)のものをモデルとしている。我々の目標ベルリン条約決議履行であった。我々は中央委員会部署組織し会費などについて定めた構成員たちの入会宣誓見守った規則ではセルビアプロパガンダ影響受け入れず逆に人民焦点当てることによってそれを跳ね返すことを目指していた。 —  これらの資料基づいて1896年または1897年における組織初期非公式の名称が「ブルガリア・マケドニア・アドリアノープル革命委員会」(BMARC)であり、この名称で1902年に「秘密マケドニア・アドリアノープル革命組織」(SMARO)へと改称されるまで使用されていたという説がブルガリア人によって提唱され西側諸国歴史家の間で受け入れられている。幾らかマケドニア人歴史家はこの「ブルガリア・マケドニア・アドリアノープル革命委員会」の名称が初期存在していたことを認めるものの、マケドニア共和国においては一般的には1896年から1902年にかけての名称は「秘密マケドニア・アドリアノープル革命組織であった考えられている。どちらの説にも決定的な証拠資料不足しており、またそのどちらの名称も内部マケドニア革命組織文書中には現れないものの、これらの名称は日付のない手書き印刷され規則のなかに登場するしかしながらマケドニアの歴史家は「秘密マケドニア・アドリアノープル革命組織」の規則1989年からロンドン存在していた点を指摘している。いずれにしても組織がその名称を1905年に「内部マケドニア・アドリアノープル革命組織」(IMARO)に改称され事実には疑いなくブルガリアの歴史においてはこの名称が使われている。1915年から1918年にかけてのブルガリアによるマケドニア占領の間、組織解散されたが、1920年に「内部マケドニア革命組織」(IMRO)の名称で復活した当初委員会によって規定され目標は、オスマン帝国支配下の「マケドニアおよびアドリアノープル州(Vilayet)における全ての不満要因糾合し、それによって地域自治権勝ち取る」ことであった。この時組織は、地域ヴラフ人ギリシャ人、さらにトルコ人助力期待していた。精力精神的プロパガンダ流布集中し抵抗運動テロ活動見込み希薄であった組織急速に成長し数年のうちに委員会マケドニアおよびアドリアノープル州の多く地元抵抗組織とのネットワーク形成するようになった。この動きは主にブルガリア正教会中心となり、また地元またはブルガリア出身教師が関わっていた。 内部マケドニア革命組織は主に、設立当初から民族的にブルガリア人主流占めていたが、その考え方マケドニア自治目指しブルガリア政府の方針とは距離を置いたものであり、ブルガリアによって動かされいたものではなかった。組織指導者たちは、自治権獲得運動ブルガリア政府の手先となるよりも、列強諸国から好意的に見られることをより強く望んでいた。 イギリスジャーナリスト、ヘンリー・ブレイルズフォード(H. N. Brailsford)いわく、 ブルガリア好きなマケドニア人たちが1893年驚くべき革命組織設立したとき、セルビア人は彼らによって致死的なブロー浴びたことになる。セルビア人ブルガリア人対す敵愾心強調される中、セルビア公然とトルコ好きの政策を採るようになり、そのこと何よりもトルコにおけるキリスト教徒たちにとっては致命的であったマケドニア人農民たちは、オスマン帝国束縛からの速やかな解放への見通し約束するプロパガンダに対してのみ忠誠心を向けるようになるだろう。そして最後に、この対立する国々プロパガンダの間には大きな違いがある。すなわち、ブルガリア人マケドニア自治のために働くが、セルビア人ギリシャ人マケドニア自国併合することのみを目指しているということだその結果として、「マケドニア人民族意識」が間違いなくブルガリア人によって作り上げられた物である中、マケドニア人活動は彼ら自身の国を求めようになったのだ。セルビア人動き純粋に扇動であり、ベオグラードによって動かされ資金供給されたものであるのに対しソフィアへのシンパシーはあるものの、ブルガリア革命組織真にマケドニア人組織であった。 —  何がより重要かと、組織の若い指導者たちは過激な社会主義者無政府主義者考え擁護し、彼らの目的ブルガリアひとつになることより新しい形式の政府打ち立てることであるという姿勢見せた結局はこのような考え方によって組織規則変更されメンバーブルガリア人のみではなく民族信仰別に関わらず全てのマケドニア人アドリアノープル人であるとした。それでも実際には、ヴラフ人除いては、メンバーたちはブルガリア正教会圧倒的な影響下に置かれていた。 革命運動における社会主義者コスモポリタン考え方に関してアメリカ人アルバート・ソニクセンは次のように述べている。 私が思うに、それは彼らが心の中留めていた概念的な思想の力であり、狂信的愛国主義とは程遠いものであった。なぜなら、彼らにとっての自由はブルガリアによる統治よりも崇高であり、彼らにとってブルガリア人ギリシャ人トルコ人と完全に対等になれる完璧な仕組みであり、全世界目指すべきある種天国であったのだ。 —  現代ブルガリアの歴史家は、内部マケドニア革命組織右派支持者はの考えマケドニア自治最終的で自然な行く末は、独自国家の建設よりもはるかにブルガリアとの統一に傾いていたと主張している。彼らは、イリンデン蜂起の際の第2マケドニア・アドリアノープル革命地区指導者であったダミアン・グルネフとボリス・サラフォフからブルガリア政府にあてた公式の手紙から次のように引用している。 ここにいる多感精力的な、血のつながった同族兄弟たちが、現在のブルガリア大地を脅かすような環境と危険の中に身をおかざるを得ない状況に対して、誉あるブルガリア政府がなんらその責務果たさないのならば、それはブルガリア国家に対して壊滅的な結果となるであろうと、メンバーたちはその責務としてブルガリア政府行動注目しております。 —  第一次世界大戦におけるマケドニア戦線1915年-1918年)では、組織ブルガリア軍協力しヴァルダル・マケドニアセルビアマケドニア。後のマケドニア共和国)をブルガリア占領した際は、ブルガリア一時的な占領統治機構加わっている。この間政治的戦略として自治目標すべての内部マケドニア・アドリアノープル革命組織流派停止され、彼らはブルガリアとの統一主義者立場共有しブルガリアによるマケドニア併合支持した

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起源と目的

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 15:48 UTC 版)

進歩のための同盟」の記事における「起源と目的」の解説

合衆国政府ドワイト・アイゼンハワー大統領在任中1950年代より、ラテンアメリカ対す経済的軍事的支配強化する政策推進していた。1961年1月20日アイゼンハワーに代わって大統領就任したケネディアイゼンハワー政策継承し同年春、ラテンアメリカ対す10カ年計画次のような高尚な言葉使って提案した。 「 我々はアメリカ州革命仕上げ全ての人が最適な生活水準を望むことが出来尊厳や自由のうちに生活を送れ半球打ち立てることを提案する。この目的を果たすため、政治的自由物質的繁栄を伴わなければならない。(中略アメリカ大陸革命思想やその取り組み向けて大いなる苦闘や、自由な男女創造的な力への貢献、自由と進歩とが手に手を取って歩むという例を、全世界に対して再度示そうではないか武力恐怖帝国主義ではなくて勇気や自由、人類未来対す希望携えながら、各地の人々闘争を導くまで、我々のアメリカ革命再度鼓舞してゆこう 」 計画1961年8月ウルグアイプンタ・デル・エステ開かれた会合にて調印宣言掲げられ取り組み以下の通りである。 資本当たりの収入年率2.5%引き上げ民主的政府樹立 1970年までにどの成人読み書き出来るようにする 物価安定努めインフレーションデフレーション回避する より公正な富の分配土地改革 経済及び社会計画 まずラテンアメリカ諸国10年間で800ドル資本投資することを求め合衆国200ドルを提供、保証することに同意その後ラテンアメリカ側は、参加国国内包括的な開発計画作成することを求めた。これらの計画は、専門家による諮問委員会提出することとなる。税制改革については「富裕層からより多く取る」よう変更された。

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