ピルグリムの航海
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 18:51 UTC 版)
もともとの計画では2隻の船で航海する予定だった。もう1つの船は Speedwell というやや小型の船で、オランダのデルフスハーヴェンからピルグリムの何人かをサウサンプトンまで運んだ。 2隻の船は1620年8月15日(8月5日)にサウサンプトンを出港したが、Speedwell は水漏れがひどくなり8月27日(8月17日)にダートマスで修理することになった。 修理を終えて再び大西洋に向けて出航したが、Speedwell で再び水漏れが発生してプリマスに戻ることになった。しかし、Speedwell を調べてもどこにも問題は見つからなかった。ピルグリムらは、同船の乗組員が1年近くに及ぶ航海の契約から免れようと破壊活動したのではないかと考えた。 結局、66日間の航海はメイフラワー号単独で行われ、9月16日(9月6日)にプリマスの Mayflower Steps あたりから出港した。2隻で予定されていた航海が1隻になったため、乗組員と102名の乗客は荷物のスペースが非常に制限されることになった。メイフラワー号はコーンウォールのニューリンに寄港して水を補給している。船内ではネズミ狩りとしてブリティッシュショートヘアの猫を飼育していた。これはのちのアメリカンショートヘアの起源となる。 目的地は北バージニアのハドソン川河口付近だった。しかし船は荒天でコースを外れ、目的地のバージニア入植地よりずっと北方に向かってしまった。出発が遅れたため、彼らがケープコッドに到達したときにはニューイングランドの厳しい冬が始まっていた。ケープコッドの南東の角を回って入植を許された土地まで行くのは危険だったため、入植者らは本来の目的地に到達できなくなった。 法秩序の確立と入植者間で増大しつつあった紛争を鎮めるため、メイフラワー号がケープコッドの先端に錨をおろした11月21日(11月11日)以降に、船上で社会契約説に基づくメイフラワー誓約を結んだ。 入植者らは最初に錨をおろした場所で上陸して雪で覆われた周辺を探検し、アメリカ先住民の無人の村を発見した。彼らが人工的な塚を掘り起こしてみると、一部はトウモロコシを保存してあったが、他は墓だった。Nathaniel Philbrick によれば、彼らがトウモロコシを盗み墓を暴いて冒涜したことから、先住民との軋轢が生じたという。さらに Philbrick は、彼らが数週間かけてプロビンスタウンから海岸沿いに南下してイーストハム付近まで探検し、先住民の貯蔵していたものを略奪したとしている。1620年12月、アメリカ先住民であるノーセット族との友好的とは言えない遭遇(その場所は今では First Encounter Beach と呼ばれている)を経て、彼らが湾の対岸のプリマスへ移ることを決めた経緯が Philbrick によって描かれている。 一方ブラッドフォードの History of Plymouth Plantation によれば、かれらはトウモロコシを見せるために少しだけ船に持ち帰ったとしている。その後、必要な穀物を別の貯蔵穴から頂戴し、6カ月後に先住民に代価を支払ったとき、彼らは喜んでそれを受け取ったと記している。 冬の間、乗客らはメイフラワー号の船内で過ごし、壊血病、肺炎、結核などの病気が発生した。その冬を生き延びたのは約半数の53人で、乗組員も約半数が死んだ。春になると彼らは海岸に小屋を建て、1621年3月31日(3月21日)に入植者らはメイフラワー号を離れた。 1621年4月15日(4月5日)、メイフラワー号はプリマスからイングランドへと出航、5月16日(5月6日)に到着した。
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