落合一家継承後
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昭和26年(1951年)秋、辻宣夫、小島玄之、松下喜太郎、柏木勇、三田村武夫らは、近代的な反共運動を起こすため、有馬頼寧、丸山鶴吉、吉田茂、太田耐造、後藤隆之助、安倍源基、鹿内信隆を世話人に迎えて、「日本青少年善道協会」を設立した。その後、法務総裁・木村篤太郎が、「日本青少年善道協会による青少年に対する反共啓蒙運動では、手遅れだ」と主張した。それにより、全国の博徒、テキヤ、愚連隊を結集した20万人の「反共抜刀隊」計画が持ち上がった。博徒側の取りまとめ役として、元大日本国粋会理事長・梅津勘兵衛が要請されたが、梅津勘兵衛は断った。 昭和27年(1952年)、高橋岩太郎は、新宿三越裏の喫茶店「白十字」で、万年東一から、安藤組・安藤昇組長を紹介された。安藤昇の兄貴分が、小林光也(通称:小光)で、小林光也の兄貴分が万年東一だった。高橋岩太郎は、安藤昇に、博打のテラの取り方などを教えた。 同年7月、木村篤太郎が、東京都文京区の梅津勘兵衛宅を訪れ、梅津勘兵衛に大日本国粋会の再建を要請した。梅津勘兵衛は「刑法を改正し、賭博事犯は非現行なら検挙させないようにする」という条件で、木村篤太郎の要請を了承した。梅津勘兵衛は、生井一家・篠原縫殿之輔、住吉一家・倉持直吉、田甫一家・金井米吉、生井一家・鈴木米太郎、生井一家・百瀬梅太郎らに協力を依頼し、了解を得た。篠原縫殿之輔の代理人が、森田政治だった。森田政治は、高橋岩太郎にも協力を依頼した。高橋岩太郎は快諾した。 同年12月16日、東京・上野の「精養軒」で、第1回の大日本国粋会再建委員会が開かれ、「共産党が武装蜂起した場合には、博徒部隊はテキヤ部隊と協力して、武力で鎮圧する」との誓約がなされた。この会合の経費の殆どを、森田政治が負担した。その後、吉田茂首相が、「反共抜刀隊構想」に反対し、「反共抜刀隊構想」は頓挫した。また、梅津勘兵衛の死去にともない、大日本国粋会再建計画も中断した。森田政治は、高橋岩太郎を連れて、大野伴睦、小西寅松らに会った。森田政治は、小西寅松に国粋会会長就任を、大野伴睦に国粋会参与就任を依頼した。小西寅松は国粋会会長就任を承諾したが、大野伴睦は返事を保留した。 昭和28年(1953年)、安藤組は、高橋岩太郎の舎弟・武田一郎率いるテキヤの武田組と小競り合いを繰り返していた。白昼に路上で、両組の若衆同士が乱闘を起こし、互いに相手方の事務所に殴り込みをかけた。武田組は、安藤組の地下事務所にガソリンをまき、火を付けようとした。同年、安藤昇は、東興業の事務所を、渋谷区上通り4丁目のビル3階に移した。事務所は10坪。社長室は8坪で、緑色の絨緞を敷き詰めていた。社長室の窓際には、丸い鳥かごが置かれ、紅いカナリヤが飼われていた。このころから、安藤昇は賭博を開帳し始めた。毎週金曜日にはポーカー賭博を行った。 昭和32年(1957年)、武田組組員と安藤組組員が揉めた。翌日午前6時ごろ、安藤昇は、2丁の拳銃を所持し、安藤組専務・志賀日出也とともに、新宿の尾津喜之助の自宅に赴いた。安藤昇は、武田組との抗争の件で、武田一郎組長の親分筋は、関東尾津組・尾津喜之助組長と認識しており、直接尾津喜之助のもとに掛け合いに来たことを告げた。尾津喜之助は、安藤昇の武田組に対する要求を認めた。同日、高橋岩太郎と小林光也は安藤昇の行動に立腹した。翌日、高橋岩太郎と小林光也は、尾津喜之助宅を訪れて、尾津喜之助に安藤昇の行動を謝罪した。尾津喜之助は、安藤昇の要求を認めていた。高橋岩太郎は、尾津喜之助に、安藤組と武田組に手打ちをさせることを提案した。尾津喜之助は、高橋岩太郎の提案に賛成した。その後、安藤組と武田組は、池袋の料理屋で、高橋岩太郎を仲裁人、尾津喜之助の兄弟分・極東関口初代の関口愛治を見届人として、手打ちを行った。 昭和33年(1958年)6月11日午後7時10分、横井英樹襲撃事件が勃発した。事件発生直前まで、高橋岩太郎は、安藤組赤坂支部で、安藤組赤坂支部長・志賀日出也や安藤組赤坂支部・千葉一弘(後の住吉会住吉一家石井会相談役)らとマージャンを行っていた。 詳細は「横井英樹襲撃事件」を参照 同年7月3日、「日本国粋会」が結成された。同日、品川プリンスホテルで、生井一家、幸平一家、田甫一家、小金井一家、佃政一家、落合一家、信州斉藤一家、金町一家、伊勢紙谷一家、義人党や佐郷屋嘉昭、松本良勝、辻宣夫、防衛庁政務次官ら400余名が出席し、「日本国粋会創立記念式典」が行われた。 同年12月24日、静岡県三島市で、鶴政会(後の稲川会)の若衆とテキヤ極東愛桜連合会(後の極東会及び極東桜井総家連合会)系の若衆が揉めた。互いに殴り込みの応酬があり、鶴政会も極東愛桜連合会も死者と重傷者が出た。森田政治は、高橋岩太郎と前川一家・荻島峯五郎総長に相談して、仲裁に動いた。極東愛桜連合会・関口愛治会長は森田政治に話を任せたが、鶴政会・稲川角二(後の稲川聖城)会長は納得しなかった。高橋岩太郎と荻島峯五郎も、森田政治を助けて、稲川角二を説得した。 昭和35年(1960年)同年6月10日、ハガチー・アメリカ大統領新聞係秘書は、羽田空港出口で、デモ隊に取り囲まれた。ハガチーは、アメリカ海兵隊のヘリコプターで、羽田空港を出た。 同月、岸信介首相は、警察の警備不足を補うため、自民党幹事長・川島正次郎を通して、児玉誉士夫に、右翼団体・暴力団・宗教団体の取りまとめを依頼した。 児玉誉士夫は、警視庁と打ち合わせた結果、稲川組(後の稲川会)5000人、松葉会2500人、飯島連合会3000人、国粋会1500人、義人党300人、神農愛国同志会10000人を、「警官補助警備力」として、東京・芝の御成門周辺に配置することを決めた。 昭和36年(1961年)2月17日、東京築地明石町の料亭「治作」で、関口愛治と稲川角二の手打ち式が行われた。仲裁人には森田政治がなり、介添人には高橋岩太郎と荻島峯五郎がなった。 昭和37年(1962年)夏ごろから、右翼の児玉誉士夫は、「一朝有事に備えて、全国博徒の親睦と大同団結のもとに、反共の防波堤となる強固な組織を作る」という「東亜同友会」の構想を掲げ、錦政会(後の稲川会)・稲川角二(後の稲川聖城)会長、北星会・岡村吾一会長、東声会・町井久之会長らに根回しを始め、同意を取り付けた。 昭和38年(1963年)2月11日、京都市の都ホテルに、稲川角二、岡村吾一、町井久之、三代目山口組・田岡一雄組長らが集まり、児玉誉士夫の構想が披露された。関東の組長を稲川角二が、関西・中国・四国の組長を田岡一雄が、九州の組長を児玉誉士夫がまとめて、意思統一を図った。 同年3月、グランドパレス事件が勃発した。結果的に、児玉誉士夫が推し進めていた東亜同友会構想は頓挫した。 詳細は「グランドパレス事件」を参照 同年3月、警察庁は、神戸・山口組、神戸・本多会、大阪・柳川組、熱海・錦政会、東京・松葉会の5団体を広域暴力団と指定し、25都道府県に実態の把握を命じた。 同年8月、安藤組幹部・西原健吾(花形敬の舎弟)の若衆・田中が、渋谷区宇田川町で、岡村文化部(会長は岡村吾一)組員と揉めた。これを切っ掛けに、花形敬刺殺事件が発生した。 詳細は「花形敬刺殺事件」を参照 同年12月21日、日本国粋会は、錦政会、住吉会、松葉会、義人党、東声会、北星会とともに、児玉誉士夫の提唱する関東会に参加した。 同日、関東会の結成披露が、熱海の「つるやホテル」で行われた。松葉会・藤田卯一郎会長が、関東会初代理事長に就任した。児玉誉士夫、児玉誉士夫らが昭和36年(1961年)に結成した青年思想研究会(略称は青思会)常任諮問委員・平井義一元衆議院議員、青思会諮問委員・白井為雄、青思会常任実行委員・中村武彦、青思会常任実行委員・奥戸足百、松葉会顧問・関根賢、三代目波木一家・波木量次郎総長が関東会結成披露に出席した。 同年12月下旬、関東会は、関東会加盟7団体の名で、「自民党は即時派閥抗争を中止せよ」と題する警告文を、自民党衆参両議院200名に出した。自民党衆議院議員・池田正之輔は、この警告文を、激しく非難した。警告文は、自民党の治安対策特別委員会で、議題に取り上げられた。これは、暴力団が連帯して政治に介入してきた、初めての事件だった。河野一郎派を除く衆議院議員と参議院議員は「関東会からの警告文は、児玉誉士夫と親しい河野一郎を擁護するものだ」と判断し、検察と警察当局に関東会壊滅を指示した。 昭和39年(1964年)1月、「暴力取締対策要綱」が作られた。 同年2月、警視庁は「組織暴力犯罪取締本部」を設置し、暴力団全国一斉取締り(第一次頂上作戦)を開始した。 詳細は「第一次頂上作戦」を参照 昭和40年(1965年)5月、田岡一雄が東京で倒れ、渋谷区セントラル病院に入院した。高橋岩太郎は、森田政治の妻とともに、田岡一雄を見舞った。 同年12月、日本国粋会が解散した。 昭和55年(1980年)1月、高橋岩太郎は、賭博開帳図利罪で懲役1年6ヶ月の刑を受け、府中刑務所に服役した。高橋岩太郎は狭心症で病舎に移った。高橋岩太郎は、収監中に陽明学を知り、陽明学に没頭した。 昭和56年(1981年)1月、高橋岩太郎は府中刑務所を出所した。住吉連合(後の住吉会)常任相談役・日野一家・川口喨史ら1000人近い人が出迎えた。刑務所側は、出迎えの者を府中競馬場の近くに移動させ、刑務官が高橋岩太郎を背負って、府中競馬場まで運んだ。 昭和62年(1987年)、森田政治が死去した。享年74。同年9月3日、東京・泉明寺で、森田政治の本葬が執り行われた。高橋岩太郎が、葬儀委員長を務めた。 平成14年(2002年)、高橋岩太郎が死去した。
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