立花俊正とは? わかりやすく解説

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立花宗茂

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立花 宗茂(たちばな むねしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名大友氏の一族で重臣。陸奥国棚倉藩主、筑後国柳河藩初代藩主。関ヶ原の戦いで改易後、大名として復帰した武将は他にもいるが、旧領を回復した武将は宗茂ただ一人である[7]


注釈

  1. ^ 甫庵太閤記』に「鬼神も敵す可らざる御功績もあり」と記述があるので、柳川の民からも「鬼将軍」の異名で呼ばれた[2]
  2. ^ 島原の乱の武略で諸大名に武神再来と嘆賞されたことが由来。のち浅川漏泉が 『柳川藩叢書 第三集』に宗茂の戦歴を『武神 立花宗茂』という軍記物が編著した。
  3. ^ 語源の李広呂布などのように、戦陣だけではなく、浅野長政黒田長政宇喜多秀家本多正信徳川秀忠などの前で精妙な射芸を見せて驚嘆させた逸話はたくさんある。当代有名の勇将にしても複数の弓術免許皆伝を受ける比類なき武芸の達人で、そして官途の飛驒守から飛の字を取ることが由来。また、天保12年(1841年)宗茂二百歳神祭の際、柳河藩士後藤重胤が作る賦詞に、宗茂を飛将李広と比擬した[3]
  4. ^ 『歴史群像シリーズ4・関ヶ原の戦い』84-85頁。また、不敗の武将宗茂の兜は、勝ち兜として縁起を担ぐ人もいる[1]
  5. ^ 大友・松野・吉弘氏関係略系図によれば義乗の室は紹運女で宗茂の妹・退清院殿梅月春光に当たる人物とされて義政と義親の母と明記し、義政の改名は貞勝と記載されている。
  6. ^ 萩尾大学の娘・松尾殿が産んだという男児(庶子)。新宮高橋氏の祖[5]
  7. ^ 実は足利義昭の子、近江矢島氏を継ぐ。妻は菊亭晴季の女。子に矢島重成[6]
  8. ^ 一説には11月18日。でもこれは天正10年(1582年)11月18日に戸次から立花に改姓したので、誕生日と混同される[8]。また、『立斎旧聞記』、『立花近代実録』、『立花家記』、『立花家譜』、『薦野家譜』などによると、永祿12年8月13日の記載もあるが、これは恐らく妻・誾千代の誕生日と混同されることになった。
  9. ^ 「統」は大友義統から偏諱を賜ったもの。本人の書状により、虎の字を異体字「乕」の形で書かされた場合もある。
  10. ^ 一説には11月6日、同じ石坂という地で戦闘があったが別々の地で、後述の戦闘と混同の可能性がある
  11. ^ 利光鎮頭が編集した『宗茂公戦功略記』により宗茂初陣の石坂合戦は天正9年7月。軍記物や諸家譜などによる俗説的な宗茂初陣の同年11月6日の嘉麻・穂波郡潤野原石坂の戦いとは別々の戦い。[15]
  12. ^ 立花氏の名跡は継いでいたが、主君の大友義鎮(宗麟)から禁じられていたため、生前は立花姓を使用したことは無い。
  13. ^ だが、立花山に入城するのは10月25日[20]
  14. ^ この戦を立花方は潤野原の戦い(第三次嘉麻・穂波の戦い・潤野原の戦い・第二次八木山石坂の戦いとも(同年7月27日の太宰府市・石坂での第二次太宰府観世音寺・第二次太宰府石坂の戦いとは別の穂波郡八木山石坂道大日寺口での戦闘))、秋月方は八木山の戦いと記した。
  15. ^ 2,800や3,000諸説ある
  16. ^ 「騎馬に裝著」とは、宗茂考案の鉄砲の準備である。 騎馬武者の馬首に鉄砲袋を備え、弾薬の袋を馬尻に掛けさせたのである。 これで、鉄砲は騎馬武者が一人で扱える。三人四人と騎馬の周りに配備した鉄砲持ち弾薬持ちの歩兵が戦闘力として鑓・弓・鉄砲を個別に握らせ得る。つまり、八百の兵が二千、三千の兵の役割を果たすのである。 銃袋を馬首に裝著した二百の騎馬と、水・糧食・武具弾薬を背負った馬百頭、これに従う徒歩三百。 立花軍は、鉄砲二百丁を馬首に具えた騎馬二百が先頭を駆ける[74]
  17. ^ 駆け來たっては陣を具えて一斉に隈部軍へ鉄砲発射である。筒口を揃えて一斉に発射すると、その煙も収まらぬ間に第二弾である。二段三段の鉄砲連射に隈部軍が怯む間隙に、今度は徒歩に長柄を備えて無二無三に突きかかる。長柄の徒歩隊は無二無三に突いて進むように見えながら、ようやく右に陣形を傾ける。隈部軍の正面に対峙するのは、徒歩の後ろに具えた騎馬鉄砲隊である。徒歩長柄が右に退く。前方が開ける。対峙した隈部軍に鉄砲弾丸の亂れ射ちである。 「火車」でござる。 城村城で指揮を執っていた有働大隅守兼元が城主隈部親安に言った。 和仁・辺春・大津山の三氏は筑後より立花宗茂參戦の報せを聞いて、隈部方を助勢すべく、連攜して永野原の側背に出ようと山を越えたのであった。しかし、思いのほかの立花軍の進軍。まして「車懸かり」の迅速。 誘う出した敵に一旦軍の後背を捕らせて一気に反転攻勢に懸かる、宗茂得意の「火車懸」の陣法である[74]
  18. ^ 宗茂は立花家重代の名刀<笈切>を腰に帯び、黒糸縅黒毛五枚冑の緒をきりりと締めて、弓手には三尺六寸の大薙刀を持った。馬手に引き結んだ手綱には、黃瓦毛の逞しき駿馬、鞍は黒鞍、宗茂馬上豊に二十歳の大丈夫である[78]
  19. ^ この際の軍功は秀吉が隆景に充てた朱印状のなかにもわざわざ「有動付城へ兵糧差し籠め丈夫に申しつけのよし、尤もに思し召し候、殊にその剋、一戦に及び候て、立花左近将監手へ頸数多討ち捕るのよし、今にはじまらざる儀に候と雖も、手柄をつかまつり候粉骨、奇特に思し食し候」[80]
  20. ^ 「鎮」の字は父・鎮種(紹運)または大友宗麟(義鎮)から肖ったものと思われる。
  21. ^ 通説の軍役数は3,000だが、朝鮮派兵前の立花家の石高9万887石から換算すると実際の軍役数は2500人。そして当時の出陣の諸大名はほとんど軍役数未満の状態で出兵するのが常態で(『柳川藩叢書』第一集 補遺(五)「従軍者鳥取次郎兵衛尉の手記覚書」の記述によると、文禄の役最初の渡海の際、立花宗茂が率いる人数は1500)、立花軍の参戦兵数は3000どころか2500未満だと推測される。[101][102]
  22. ^ 此時の名は天野源右衛門貞成と呼ぶ
  23. ^ 朝鮮側の記録で「前進して望客峴下に襲撃して克たず。已にして先鋒参将李寧等の軍来たりて之を援く」とあり、明軍の先鋒隊が負けたと記す[117]。日本側は「十時伝右衛門惟道とて数度勇の誉れある者。真っ先に進み戦しに、大勢に押しつつまれて討たれ、其外究竟の者73人、枕を双べて討たれ、手負も数十人也。敵をも六百余討ち捕し。然れば先手に有りし唐人ども、同勢の中に引取りし」と記している[118]
  24. ^ 戸次鑑方の次男
  25. ^ この時大谷吉継が前線までやって来て、宗茂の奮戦を讃え、速やかに漢城に引き上げることを強く勧めたが、ちょうど到着した小早川隆景と一緒にこれに反対し、明軍本隊との決戦に臨む旨を表明した[118]
  26. ^ 小野鎮幸の従兄弟。小野喜八郎
  27. ^ 『柳川藩叢書 第一集』補遺目次に各戦法の解説と由来や家臣の始末、異名「鬼将軍」のことが記述された。
  28. ^ 島津義弘1月6日付で石田三成に送った書状には「鍋島直茂勝茂親子が蔚山へ救援へ出たために馬山倭城が空になった。竹島城にも場合によって後詰めを行うと宗茂から連絡があった」との記述がある。固城倭城は馬山倭城と泗川倭城の間に位置する。
  29. ^ だが、家臣小串成信など蔚山にて戦死の記載[156]があるので、蔚山の戦闘は実際に参加していた可能性はある。
  30. ^ この際、敵船に乗り込み一番乗りの功を挙げた家臣池辺貞政(彦左衛門、池辺永晟の弟)が敵に刺されて戦死した『柳川藩叢書』第一集 補遺(六)従軍者谷田六郎兵衛尉の手記覚書 117頁
  31. ^ 釜山広域市沙下区の下端洞(ハダンドン)と推測される。
  32. ^ 早合」ともいう。1発分の火薬を詰めた竹筒の束を鉄砲隊の肩にかけさせる工夫。
  33. ^ 薦野増時の嫡男。立花吉右衛門
  34. ^ 立花鑑貞次男。立花三郎右衛門・臼杵新介
  35. ^ 『葉隠』聞書第六によると12,000、『太宰管内誌』は20,000余、『立斎旧聞記』は10,000余としている。
  36. ^ 一説によると2,000、うち小野の直卒する中軍は1,000余騎
  37. ^ 立花四天王・安東家忠の三弟・安東家久の次男。安東五郎右衛門
  38. ^ 大友家臣・石松源五郎(石松隼人、高橋越前)の子。石松安兵衛
  39. ^ 戸次鑑貞の次兄。戸次右衛門大夫但馬了均。藤北戸次氏の一族
  40. ^ 立花鎮実の次男。立花善次郎・17歳
  41. ^ 宗茂の側室の八千子の弟。矢島勘兵衛、剛庵
  42. ^ 筑紫広門の与力衆。千手六之允
  43. ^ 立花四天王・安東家忠の三弟・安東家久の四男、次兄・安東範久の養子。安東津之助
  44. ^ 十時惟直三男。十時新五郎・16歳
  45. ^ 十時惟由の子。十時市右衛門、二代目十時但馬。
  46. ^ 宗茂が二千人と言ったのは、当時禄高十万石に対して三千人の軍役が定めであったからと思われる[235]
  47. ^ 六歳の時より家伝の抜刀術隋変流を修行し達人となる。隋変流は立花宗茂を流祖とし、戦国時代そのままの形を伝えるといわれ、天風の号は最も得意な形、天風(あまつかぜ)からとられたものである。[240]

出典

  1. ^ 『柳川藩叢書 第一集』附録 P.259
  2. ^ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(八七)鬼将軍の名 216頁
  3. ^ 渡辺村男 『柳川藩叢書 第一集』。
  4. ^ a b 『旧柳川藩志』中卷 第十五章 寺社 第四節 三橋村 第一県社 高畑の三柱神社 469頁
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  6. ^ a b 『旧柳川藩志』第十八章・人物・第十六節 柳川偉人小伝(六)P.954
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  65. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 四五 豊臣秀吉判物 立花左近将監とのへ 今度島津殿下江成御敵、九州之逆徒等引具罷立、味方城二三ヶ所相果候處、其方立花城在之而、大軍被請留、抽粉骨付而、島津敗北之由候、殊高鳥居城責崩、星野一類、其外一人も不残刎首之由註進、誠以無比類手柄共候、但天下之面目不過之候、来春者可有御動座候間、新知等為褒美被見計、何之國にて成共可被仰付候、仍太刀一腰国俊熨斗付、鉄砲薬貮百斤、并縫物羽折遣之候、弥可勵忠節事尤候、併被出御馬、島津御退治不可有程候条、聊爾之動有之間敷候、委細猶森勘八・木村兵吉可申候也、 十月十一日 立花左近将監とのへ P.363~364。
  66. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 三七 豊臣秀吉判物 羽柴柳川侍従とのへ 立花左近将監對両三人註進状并首註文、今日於淀到来、披見候、高鳥居城へ取懸、則時責崩、城主初星野中務少輔・同民部少輔、其外随身之者共、数輩討捕之段、無比類動絶言語候、今度味方城二三ヶ所不慮之處、無異儀相拘候儀さへ、奇特被思召候處、如此之段、誠九州之一物候、為褒美新地一廉可被抑付之条、立花家中粉手之者共ニも、令支配、弥可相勇之由、可申聞候、自是以後、聊爾之行不可仕之由、可相達事専一候也、 九月十日 安國寺 黒田勘解由とのへ 宮木入道とのへ P.360。
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    御人数引廻 由布壱岐守惟次
    十時摂津守連貞、十時勘解由惟元、十時傳右衛門惟道、池邊龍右衛門永晟、池邊彦左衛門貞政、安東五郎右衛門範久、安東善右衛門常久、石松安兵衛政之、原尻宮内鎮清、新田掃部助鎮実、内田忠右衛門統続、森下内匠規寬
    十貳人外ニ掛通り 森又右衛門信清
    跡押 小野和泉守鎮幸
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  108. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(二)十時連久小傳 P.231~233頁
  109. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(三)内田統続小傳 P.233~234頁
  110. ^ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(七)従軍者高木四郎兵衛の記録 117~119頁
  111. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(五)天野源右衛門小傳 P.235~236頁
  112. ^ 『柳川史話』第二卷 人物篇(其の二)八八 十時傳右衛門について P.181
  113. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(八)戸次統直小傳 P.240~241頁
  114. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第二十 戸次統直舉勇名於異國事 P.540~541
  115. ^ 『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第六十九十時傳右の戦死)
  116. ^ 『筑後国史』(十時氏系図)によれば、死去の日は2月5日[2]
  117. ^ 『宣祖実録』
  118. ^ a b 『毛利家記』
  119. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(四)池邊永晟小傳 P.234~235頁
  120. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(六)小野鎮幸小傳 P.237~238頁
  121. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(七)米多比鎮久小傳 P.238~240頁
  122. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(十一)戸次鎮林小傳 P.244~245頁
  123. ^ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(九一)敵を背にして陣す 219~220頁
  124. ^ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(八五)三本品柄 215頁
  125. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(九)立花成家小傳 P.241~242
  126. ^ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(二二)祖宗懋績録 133頁
  127. ^ a b 『柳川藩叢書』第一集 補遺(五六)立花の笠験とは金甲也 177~178頁
  128. ^ 鑓 銘 播州住政国 「銀杏御枕槍」鑓 銘 濃州関住兼貞「八幡御枕槍」
  129. ^ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(八)宗茂公朝鮮軍之次第御物語覚 119~121頁
  130. ^ 『柳川藩叢書』第一集 碧蹄館大戦記 9頁
  131. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 四八六 安国寺恵瓊書状 高主(高橋主膳正統増)へ茂同前ニ申入候、御傳達所希候、已上、 去廿六日大明人罷出候処ニ、先手御請取候て被振御手柄、数千人被討取由、京都御三人衆隆景注進状にて承知、誠雖不珍候御手柄之儀候、弥以道各可申傳候、弥隆景被仰談可被懸御手柄候、尚吉事追々可承候、取紛漸一筆申入候、恐惶謹言、 二月二日 、柳川侍従様 人々御中 安國寺恵瓊 P.580。
  132. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(十二)安東常久小傳 P.245頁
  133. ^ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(一一)『國恩録』 124~125頁。(六四)我軍の追撃 183~184頁
  134. ^ 『柳川藩叢書』第一集 碧蹄館大戦記 11頁
  135. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(十三)小野成幸小傳 P.246~247頁
  136. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(十四)小串成重小傳 P.247頁
  137. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(十五)小野久八郎小傳 P.248頁
  138. ^ 本朝武家高名記
  139. ^ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(二一)『柳河明証図会』 131~132頁
  140. ^ 『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第七十宗茂碧蹄の殊功)
  141. ^ 『川上久国雑話』には三国無双の感状を受け取る。
  142. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第二十 江陽(碧蹄館)合戦之事 P.537~540
  143. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 五三 豊臣秀吉朱印状 羽柴柳川侍従とのへ 今度大明人数取出之刻、於先手、抽粉骨、無比類動之由、神妙思食候、依之為御褒美、御馬一疋被為拝領候、尚浅野弾正可申候也、 卯月十一日 羽柴柳川侍従とのへ P.366。
  144. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 五四 豊臣秀吉朱印状 羽柴柳川侍従とのへ 大明人之時 尚以頸討捕并手負、令辛労族ニ、能々可申聞候也、二月二日註進状趣加披見候、抑今度大明國之人数、都表へ押寄候之處、其方先陣付而、家中者共討捕首註文到来上覧之候、誠無比類動、神妙思食候、弥此後可抽軍忠事、肝要候、猶木下半介可申候也、 卯月三日 羽柴柳川侍従とのへ P.366。
  145. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 四八六 安国寺恵瓊書状 高主(高橋主膳正統増)へ茂同前ニ申入候、御傳達所希候、已上、 去廿六日大明人罷出候処ニ、先手御請取候て被振御手柄、数千人被討取由、京都御三人衆隆景注進状にて承知、誠雖不珍候御手柄之儀候、弥以道各可申傳候、弥隆景被仰談可被懸御手柄候、尚吉事追々可承候、取紛漸一筆申入候、恐惶謹言、 二月二日 、柳川侍従様 人々御中 安國寺恵瓊 P.580。
  146. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書、四四六 石田三成書状 P.568、四五七 吉川広家書状 P.571、四八六 安国寺恵瓊書状 P.580、五〇二 島津義弘書状 P.585、五〇四 蜂須賀家政書状 P.585、五一〇 長曾我部元親書状 P.587
  147. ^ 『日本戦史・朝鮮役』 (本編・附記),141頁
  148. ^ 『問註所家譜』
  149. ^ 中野 2001, pp. 80–81.
  150. ^ 中野、穴井 2012, pp. 124.
  151. ^ 中野 2001, pp. 84–103.
  152. ^ 中野、穴井 2012, pp. 128–154.
  153. ^ 軍役数は5千であったが実際の出兵数は2千6百07人 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)補1 立花文書 一 御人数揃出立積(中略)惣合弐千六百七人也  P.566~568。
  154. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 八一 豊臣秀吉朱印状 羽柴柳川侍従とのへ 猶以寒天之刻、辛労不被及是非候、就其綾小袖一・染道服一被遣之候、可有着用候、委細寺澤志摩守可申候也、 今度大明人蔚山へ取懸之由就注進、為後卷、雖押出候、敵引退由候、既従此方も安藝中納言・増田右衛門尉・因幡・但馬・大和・紀伊国衆・九鬼父子等可罷立旨、雖被仰付候、右之分候間、不及是非候、然者仕置之城々普請弥丈夫ニ申付、兵糧・玉薬澤山ニ籠置、少も無氣遣様可令覚悟候、帰朝之者共ハ、弥敵之様子聞屆、其上普請申付候而より、可致帰朝由被仰遣候条、可成其意候、猶増田右衛門尉・徳善院・長束大蔵太輔可申候也、 正月十七日 羽柴柳川侍従とのへ P.373。
  155. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 九二 豊臣秀吉朱印状 態被仰遣候、一、先手五里三里之間、日々ニ物見を遣、様子見計其機遣肝要候、今度蔚山へ取懸候刻も、敵之様子不知ニ付而のセ事之様ニ仕成由候条、每事機遣不可有油断候、一、来年又動之儀可被仰付候、然者半切之楯数多令用意尤候、敵半弓一儀与相聞候之間、手每ニ楯を持セ候て可然候、一、城々普請弥丈夫ニ申付、可致在番候、猶徳善院・増田右衛門尉・長束大蔵大輔可申候也 正月廿七日 羽柴柳川侍従とのへ 羽柴久留米侍従とのへ 高橋主膳正とのへ 筑紫上野介とのへ P.377。
  156. ^ 『柳河藩享保八年藩士系図』
  157. ^ 『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第百八十七宗茂露梁の戦功)
  158. ^ キージャ、キージャと鳴くは?カササギ渡来 「立花対般丹の戦い」
  159. ^ 麻貴至蔚山頗有斬獲倭僞退誘之貴入空壘伏兵起遂敗『明史 朝鮮伝』
  160. ^ 『立斎旧聞記』(原文では1598年5月4、5日の戦い、明将の名前は『清正記』も「梅柏」となっている)
  161. ^ 『立花遺香』(清正宗茂の勇を感ず)
  162. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第二十 蔚山合戦之事 P.550~552
  163. ^ a b 『柳川史話』第四卷 文献篇 二二七 沖の石 P.459~460
  164. ^ 『立花遺香』
  165. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(三五)朝鮮両度の役 自文禄元年至慶長三年 P.19~20
  166. ^ a b 『筑後将士軍談』 卷之第二十二 立花宗茂小早川秀包上方出馬並帰陣之事 P.590~593
  167. ^ 大津籠城合戦記
  168. ^ a b 中野 2001, pp. 121.
  169. ^ 『評註名将言行録』P.250
  170. ^ 『慶長武士』P.140~142
  171. ^ 『常山紀談』 立花家足軽鉄砲の用意
  172. ^ 関原軍記大成 P.12~13
  173. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第二十一 関原一乱始末大概之事 P.566~567
  174. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(三六)近江国大津 慶長五年九月十三日 P.20~22
  175. ^ 『京極家譜』
  176. ^ a b c 中野、穴井 2012, pp. 178.
  177. ^ 『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』九十一 大津の戦い P.245~248
  178. ^ 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十三節 柳川人物小伝(三)世戸口政真 870頁
  179. ^ 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十六節 柳川人物小伝(六)立花政辰 954頁
  180. ^ 関原軍記大成 P.48
  181. ^ 『慶長武士』P.142~144
  182. ^ 『日本戦史・関原役』(第七篇 本戦前後東西各地ノ諸戦 第九章 大津)
  183. ^ 『立斉旧聞記』
  184. ^ a b 『評註名将言行録』P.251
  185. ^ 『日本戦史・関原役』(補伝 第百六立花宗茂再戰説及歸國)
  186. ^ 『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』 P.280~282
  187. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第二十三 柳川久留米山下開城之事 P.618、『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』P.282
  188. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第二十三 柳川久留米山下開城之事 P.618、『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』P.284
  189. ^ 『立花遺香』 P.152
  190. ^ 『日本戦史・関原役』(第七篇 本戦前後東西各地ノ諸戦 第十七章 柳河)
  191. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第二十二 江上合戦之事 P.595~614
  192. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21 小野文書・一六六 「小野和泉・立花吉左衛門・十時源兵衛申分覺」(小野文書312) P.132~133。
  193. ^ 八院の戦い史跡
  194. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(三七)筑後江上八院 慶長五年十月廿日 P.22~25
  195. ^ 『日本戦史・関原役』(文書 第百卅一号 清正ト立花宗茂トノ往復書(二通) )
  196. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第二十三 柳川久留米山下開城之事 P.615~620
  197. ^ 中野、穴井 2012, pp. 182.
  198. ^ 『立花遺香』 P.165
  199. ^ 『評註名将言行録』P.254
  200. ^ 中野、穴井 2012, pp. 200–201.
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  202. ^ 『立花遺香』 P.111~112
  203. ^ 『日本戦史・大坂役』(補伝 第二百三十宗茂の卓識)
  204. ^ 『日本戦史・大坂役』(補伝 第二百三十一宗茂の獻策)
  205. ^ 『立花遺香』(宗茂秀頼の出馬なき豫言す)[3]
  206. ^ 『柳川史話(全)』(由布壱岐家聞書・坂崎出羽守御追伐の節諸事立斎樣へ御内意被蒙仰始終立斎樣御謀を以て無滞御退治被遊候由、出羽守家老の内一人及沙汰候勇士有之候を上にも大事に被思召上候処立斎樣御謀にて寺へ被名寄、由布壱岐へ被仰付、壱岐寺の白洲にて出羽守家老に立迄無事右討果被申、御家之御面目壱岐一分之誉より其節)P.348。
    『立花宗茂』(古賀敏夫著)(将軍秀忠は宗茂と柳生宗矩とに命じて、謀反のあった坂崎直盛を討たせた。これも、宗茂の智謀により、坂崎の家臣が主君を殺して降参し、無事に落着した。)P.331。
    吉永正春『筑前戦国史』 (宗茂が師(丸目長恵)と同門の柳生家と親密であったのは、のち、坂崎出羽守直政の事件に関し、その追討を柳生但馬守宗矩とともに将軍家より命ぜられ、宗茂の智謀で無事落着したので、柳生も宗茂の兵法の理にかなった行為を称讃したという。)p.361。
  207. ^ 中野 2001, pp. 238.
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  209. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(三八)肥前有馬原城 自寛永十四年至十五年 P.25~29
  210. ^ 三柱神社について of 成就・復活・縁結びの社(福岡県柳川市)”. 成就・復活・縁結びの社(福岡県柳川市). 2019年12月16日閲覧。
  211. ^ 寛政重修諸家譜巻百十二
  212. ^ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(八一)宗茂の官位 210頁
  213. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 四〇九・四一〇・四一一後陽成天皇口宣案、四一二後陽成天皇宣旨、四一三従五位下位記、四一四従四位下位記 P.553~556。
  214. ^ 中野 2001, pp. 56.
  215. ^ 寛政重修諸家譜
  216. ^ 中野 2001, pp. 179.
  217. ^ 「叙任及辞令」『官報』1915年11月10日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  218. ^ 『立花遺香』 P.170~171
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  222. ^ 重要文化財。立花家史料館蔵。http://www.tachibana-museum.jp/muneshige/point.html
  223. ^ 剣 銘 長光
  224. ^ 『評註名将言行録』P.230
  225. ^ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(八八)大國拜領御辭退 216~218頁
  226. ^ 『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第七十宗茂碧蹄の殊功)
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  232. ^ a b 吉永正春『筑前戦国史』p.359。
  233. ^ 『柳川史話』第一卷 人物篇(其の一) 一三、宗茂公の兵法書に就て(衣川卷と師鑑抄)(一)・(二) P.31~33
  234. ^ 吉永正春『筑前戦国史』p.361
  235. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第二十 福島立花相親之事 P.547~549
  236. ^ 中野 2001.
  237. ^ 三池.
  238. ^ a b .
  239. ^ [4]
  240. ^ 中野 2001, pp. 260.
  241. ^ 日置流弓條々
  242. ^ 金溜地塗籠弓
  243. ^ 朱漆塗弓
  244. ^ 中野 2001, pp. 263–264.
  245. ^ 中野 2001, pp. 264.
  246. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 四九六 曼殊院官良恕法親王書状 以上、其後者、何角打過、無沙汰難申盡候、内々御朱申度存候へ共、無御隙由承候間、不得申候、仍此薫物調合候条、遣之候、かしく、 八月二日 、立花飛騨守殿 P.583。
  247. ^ 中野 2001, pp. 265.
  248. ^ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(八六)出陣の御酒 216頁
  249. ^ 沖の石図蒔絵組盃沖の石蒔絵盃
  250. ^ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(八三)立花家御持傳の五ッ組盃の銘 211~213頁
  251. ^ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(九二)軍略湧が如く出づ 220~221頁
  252. ^ 伊予札縫延栗色革包仏丸胴具足鉄皺革包月輪文最上胴具足
  253. ^ 『立花遺香』 P.21
  254. ^ 銀杏葉紋鞍
  255. ^ 翁物語
  256. ^ 評註名将言行録. 中 263頁
  257. ^ 西日本新聞『宗茂が着手 半人工河川 矢部川から分流、23キロの花宗川 運河と小河川を合体 農地潤し、大川家具も生む』
  258. ^ 『立花遺香』 P.160
  259. ^ 帰命寺(大石曽束1)の香炉 [5]
  260. ^ 『旧柳川藩志』上卷 第五章 行政 第一節元亀・慶長時代187頁
  261. ^ 《旧柳河藩志》第三章・藩治、第三節・藩政、第二・軍政組織 P.155)
  262. ^ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(二四)『立花事実記』 唐(明国)の書にも金甲の兵とは御当家先手の歩卒、甲冑具足胴の脊中に大なる金色の蛇の目(金の日の丸)を出し相印とし、兜は桃形にして金磨きなり。故に日に映し輝く大明朝鮮の兵卒も、宗茂公の備を見知り其勇強を恐れて、金甲の兵と称せりとなり。135~136頁
  263. ^ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(七八)御軍器物數改御帳 206~207頁
  264. ^ 『柳川史話』第四卷 文献篇 二三一 柳河藩の主なる武器 P.464~465
  265. ^ 金箔押桃形兜立花家史料館 金箔押桃形兜立花家十七代が語る 立花宗茂と柳川
  266. ^ 『立花家旧記』
  267. ^ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(七三)母衣大将并使番 203~204頁
  268. ^ 「立齋公御咄之覺」《旧柳河藩志》第五章・行政、第二節・柳河再城時代 P.192
  269. ^ 岡茂政 著《柳川史話》第二卷人物篇第117、山崎美成の「夜談録」に《立花家旧記》から「立齋公口述次第」(「立齋公御咄之覺」)
  270. ^ 《旧柳河藩志》第三章・藩治、第三節・藩政、第二・軍政組織 P.154~155)
  271. ^ 十時氏略系図


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