現在地への移転
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時代が平成に変わり1990年代の後半に入ると、建物の老朽化や狭あい化などが問題視されるようになり、施設の改造を行ったり、市内の商業ビル内に暫定的に分館を設置したりしたが、1997年(平成9年)には「新しい図書館を考える市民委員会」から提言書が出され、新たな図書館の建設が望まれるようになった。 このような状況から、1998年(平成10年)に新図書館建設担当職員が配置され、移転に関する議論が開始された。ところが新図書館をどこに建設するかで議論が紛糾し、基本設計費の予算化が何度も先送りされる事態となった。新図書館の展望が見えない状態が続き、2001年にNPO法人「市民満足学会」が実施した公立図書館の満足度調査では全国で最下位を記録するに至った。状況を打開するため、2001年に市議会において新図書館建設調査特別委員会が設置され、合意形成が進められたことで、2002年に、ようやく帯広駅の南に隣接する現在地への移転が決定した。 新図書館の設計は公募型プロポーザル方式により行われ、2003年(平成15年)に着工した。新図書館の建設に際して住民参加型市場公募地方債「まちづくり債」が発行されたほか、個人・団体からの寄付金による新図書館建設基金も設立され施設建築の財源に充てられている。移転準備のため2005年(平成17年)11月10日から本館が休館となり、続いて12月29日には民間ビル内の分室も閉鎖され、翌2006年(平成18年)3月3日に新図書館が開館した。同時に蔵書管理が電子化され、インターネット経由での蔵書検索も可能になった。
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現在地への移転
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1937年に日中戦争が勃発し、1941年には太平洋戦争が始まると「新潟市都市計画」も中断を余儀なくされ、萬代橋経由の路面電車線の建設計画も凍結された。戦時鉄道輸送の便を図るためもあり、1943年には関屋駅-新潟駅間に貨物支線が建設されている。 新潟市は大規模な空襲を受けなかったため、新潟駅が戦災によって大きな被害を受けることはなかったが、この時期には駅舎の補修や軌道の整備等に大きな支障を生じている。終戦直後からしばらくは大陸からの引揚者や東京・大阪方面などからの買い出し者等で駅の利用者が大幅に増加し、駅構内は常に人で溢れている状況であった。 第二次世界大戦後の混乱が落ち着いた頃、手狭になった新潟駅の移転新築と、新潟市内の鉄道路線網の整理が計画された。沼垂駅を出発した新津・新発田方面からの列車は、沼垂の市街地を南西に大きく迂回して新潟駅に到着するという、線形の悪さによる時間ロスの大きさが、かねてから問題となっていたためである。また当時、越後線は信濃川対岸の白山駅が終端の終着駅であり、越後線の線路そのものは上述の貨物支線によって関屋駅より分岐して新潟駅に繋がっていたが、この間の旅客営業は行われておらず、この支線を経由した越後線の新潟駅乗り入れが強く望まれていた。 そのため、当時の新潟駅のすぐ南側で信越本線と越後線を結んでいた支線(信越本線上沼垂駅-関屋駅間貨物支線)上に新しい駅舎を建設し、信越本線・越後線・白新線の3路線をこの新駅に統合することとなった。駅舎は地上2階・地下1階、広さは旧駅の約6倍、地下商店街も設置されるというもので、当時としては大規模な計画だった。 1951年6月には関屋駅-新潟駅間の旅客営業が開始され、同年12月には白山駅が移転、それまでの関屋駅-白山駅間は廃線となり、旧白山駅も廃止された。 新しい新潟駅の駅舎は1956年1月10日に着工。建設地は水田などに近い湿地帯だったため、施工は慎重を期して行われ、工事費4億円、2年の工期を経て、1958年4月29日に3代目駅舎が完成した。なお、初代駅舎時代に計画されていた新潟交通の路面電車路線は、戦後はトロリーバスの計画に転換するなどして駅舎が現在地に移転したこの1958年まで工事申請を更新し続けたものの、以降は再申請がなされず、同年10月をもって軌道特許が失効し、結局実現には至ることはなく計画は消滅し、2015年の萬代橋ライン開業まで複数の系統の路線バスが入り乱れる状況が続いた。 新駅舎は当時の日本海側有数の大規模駅舎として開業したが、度重なる災害に襲われ、1961年には駅舎内にあった国鉄新潟支社の仮庁舎から出火し、支社部分をほぼ全焼するという火災に見舞われた。これを機に駅舎は1964年に開催される新潟春季国体に合わせ、地上4階建・一部6階建に増築されることとなり、改築工事は1963年に竣工した。これが2020年まで運用された万代口駅舎の原型である。 1964年、国体が終了して間もない6月16日に新潟地震が発生。元々水田だった新潟駅付近では液状化現象が発生し、駅舎・ホームが損壊。更に駅東側の道路に掛かる笹口跨線橋(現:東跨線橋)が倒壊し、橋の下にいたキハユニ17形気動車を押し潰した。駅構内が使用不能となったため笹口地区に仮設ホームを設置し、19日から営業を再開している。周辺の白山駅や万代駅などでも、路盤陥没や駅舎の破損、津波による冠水などの被害を受けて、数日間にわたって路線網が寸断された。 新潟駅を中心とする路線網は徐々に整備され1982年に上越新幹線が開業。新潟駅を起終点とする在来線3路線も1984年までに全て電化され、駅構内の設備・店舗なども徐々に充実した。
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現在地への移転
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「尼崎市立あまよう特別支援学校」の記事における「現在地への移転」の解説
旧・尼崎市立尼崎養護学校は、上記の通り設置後の境界変更で西宮市に所在していた。 尼崎市では課題となっていた当校の移転について、同市中心部に近い梅香小学校跡地(尼崎市東難波町二丁目)への移転を計画。2019年(平成31年)1月に新校舎の完成に伴い、移転とともに「尼崎市立あまよう特別支援学校」へ改名した。隣接地には尼崎市立中央公民館も移転予定である。
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現在地への移転
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「東広島市立乃美尾小学校」の記事における「現在地への移転」の解説
校区は南北に4km、東西に1.2kmと細長く、広島県道333号岡郷東市之堂線に沿っている。旧乃美尾小学校跡地はそのほぼ中央に位置していた。校区内からの交通アクセスに都合がよく、旧乃美尾小学校の敷地内には、公民館、乃美尾保育所が併設されており、旧黒瀬町農協乃美尾支所が隣接していた。 同県道は幅員4mと狭く、交通量の増加に伴い、通学路の安全性への懸念が生じていた。山陽新幹線安芸トンネルの残土処分場が旧乃美尾小学校跡地の近隣に設けらたことから、昭和47年から昭和49年にかけて仮設の通学路が設けられた。仮設通学路はトンネル工事の終了に伴い廃止されたため、通学路の安全性への懸念が再浮上することとなった。 校舎の老朽化と通学路の安全性の見地から、昭和50年代半ばには建替が検討されることとなった。旧乃美尾小学校跡地は校庭が40m四方と狭小であることに加え、敷地内の他施設と近隣民家に囲まれているため、建替は困難であるとして移転が検討された。移転先候補地はいずれも校区の端部に位置していたため、地区間の綱引き合戦に発展し、校区の分割案も出たが、広島国際大学の予定地に近く、整備が進んでいた広島県道34号矢野安浦線に近いこともあり、現在地が選定された。 旧乃美尾小学校跡地では、公民館を建て替えた乃美尾ふれあい館(公民館)と乃美尾保育所が敷地内で新築移転し、現在に至っている。旧体育館は解体されずに残置されているが、特に活用はされていない。
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