現在地への移転後(水海・内水海)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:37 UTC 版)
「実相寺 (古河市)」の記事における「現在地への移転後(水海・内水海)」の解説
天正2年(1574年)、簗田氏と後北条氏が争った第3次関宿合戦の兵火にさらされたが、のちに類焼を免れた伽藍を同じ水海村の内水海に移転し、現在に至る(『猿島郡香取村郷土誌』、明治44年編纂)。なお天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原攻めの際に、水海城の落城とともに兵火にあい堂宇が焼失し、現在地に移転したとする解説もある。 江戸時代の朱印地は5石。慶長9年(1604年)と推定される伊奈忠次黒印状には、寺領 5石を寄進したことが記されている。のちの慶安元年(1648年)、徳川家光の朱印状を得ており、その後の歴代将軍分とあわせて8通の朱印状写が残されている。江戸時代を通じて寺領 5石を安堵されたことが分かる。当時の経済基盤としては、この朱印地の他にも、買添地からの年貢・小作料、修堂金貸付などの金融行為、檀徒の葬儀や施餓鬼法会などの供養料があった。 檀家は塚崎村(現在の境町)、水海村(町水海、内水海)を中心に分布。古河の人も若干数含まれた。明治 3年(1870年)の檀家は41件であった(『社寺取調類纂』46-172)。
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