沿道の主な名所とは? わかりやすく解説

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沿道の主な名所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/30 05:49 UTC 版)

三谷坂 (高野参詣道)」の記事における「沿道の主な名所」の解説

丹生酒殿神社丹生都比売神降臨した場所と伝わり三谷坂起点となる。境内シンボル大銀杏紅葉時に境内黄色に染める。境内後方境内社鎌八幡宮は、御神木に鎌を刺し願掛けすることで知られる詳細丹生酒殿神社参照)。 宮滝丹生酒殿神社丹生都比売神社属していたころ、丹生都比売神社神主がこの滝でキュウリ供え神事行い神事後に供えられていたキュウリ村中の子供に食べさせると、疱瘡天然痘)が軽くなったと伝わる。また紀伊続風土記には、宮ノ滝とも書かれており、「河童患い免れた」との記述が残る。 笠石南北朝時代):下部地中埋め込む埋込式の笠塔婆で、塔身高112cm、塔身幅15cm、笠幅65cm。空海の笠が雨引山から風飛ばされてこの石に掛かったと伝わる。塔身の上部に阿弥陀如来座像半肉彫され、その形態から、南北朝時代のものと推定される通常は、宝珠が笠の上飾られるが、塔身の上端を尖らせ笠を突きやぶる特異な形態で、笠も、ほぼ自然石のままの特異な形状で、軒などの加工施されていない。これは笠塔婆が、木製から石製置き換えられ原初形態可能性考えられ全国的に見ても非常に貴重である。 鋒立て岩・経文岩:鋒立て岩は、丹生都比売神が鋒を立てたと伝わる岩。元は現在よりも大きかったが、道路工事の際に切断され現在の形状となった。鋒の御跡岩ともいわれ、紀伊続風土記に「山の南 権兵衛坂といふにあり 丹生都姫尊天野御通ひの印石といふ岩に鋒の跡あり」と記されている。経文岩は、経文書かれた岩を意味する考えられるが、岩に文字刻まれ痕跡確認できていない涙岩:かつてこの谷を流れ清水は、どんな日照りでも涸れず人々渇きをいやし田畑潤してきた。 そのため、いつの頃からか村人はこの岩を涙岩呼び、岩をつたって流れ落ちるを拝と呼ぶようになったと伝わる。 頰切地鎌倉 時代初期):一重塔を自然石から造り出し、北正面金剛界大日如来東側面に釈迦如来西側面に阿弥陀如来半肉彫し、南背面自然石のままである仏像立体的形態や、笠の形態から鎌倉時代初期推定される大日如来の頬の割れ目が傷のように見え、首から上の病に御利益があるとされ、頰切地呼ばれるようになったと伝わる。 まっとう岩:見上げるほどの巨石である。この周辺杉林となる前までは、遠く紀の川対岸からも見えたため、天野丹生都比売神社目指す参詣者の目印となったと伝わる。「まっとう」の語源不詳であるが、目印という意味で「的」を意味するとも考えられている。 丹生都比売神社丹生都比売神鎮座地とされる空海金剛峯寺建立するにあたって丹生都比売神社神領寄進したと伝わり古くより高野山と深い関係にある。かつて高野山参詣前に、まず丹生都比売神社参詣する習わしがあった。

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沿道の主な名所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/04 15:31 UTC 版)

京大坂道」の記事における「沿道の主な名所」の解説

西光寺苅萱堂 正式には、如意珠能満院仁徳寺とよばれる真言宗寺院である。 中世高野聖語り歩いたり、浄瑠璃歌舞伎読本謡曲苅萱」、説教節かるかや」で登場する出家した武士苅萱道心とその息子石童丸石童丸の母・千里御前物語にゆかりある苅萱堂として知られる寺宝として、願いを叶える宝石夜光の玉」、今から千数百年前滋賀県蒲生川で捕れたと伝わる「人魚のミイラ」や石童丸に関する遺品が残る。 登録名:「苅萱道心石童丸関係信仰資料」:一括32点) - 2009年平成21年3月17日和歌山県有形民俗文化財指定された。 六地蔵 江戸時代参詣者の安全登山祈って作られた。今も子安地蔵として信仰されている。 第1の地蔵橋本市清水地区 第2の地蔵橋本市南馬場地区 第3地蔵九度山町繁野地区 第4の地蔵九度山町河根地区 第5の地蔵高野町水地区 第6の地蔵高野町桜茶屋地剃刀岩 道の狭い街道剃刀広げたと伝わる。 しずく岩 盛夏でもしたたり弘法大師が喉を潤し、また硯の材として使用したと伝わる。 河根丹生神社 祭神 - 丹生都比売大神高野御子大神狩場明神所有文化財1517年永正14年)と1678年延宝6年)に社殿改築した棟札現存石造翁の面・2面能面10面、鏡・4面(内1面1652年慶安5年)の銘がある)。和歌山県最古1419年應永26年)の銘がある狛犬1対。 登録名:「石造狛犬1対」 - 1959年昭和34年8月18日和歌山県有形文化財彫刻)に指定された。 日輪寺 本尊大日如来で、高野山真言宗寺院河根丹生神社境内隣接し神仏習合時代河根丹生神社神宮寺であった千石 1634年寛永11年)に幕府によりけられる7年ごとに営繕費千石支給された。あるいは、年貢米千石運んだことにより「千石」と呼ばれている。 中屋旅館跡 かつて河根宿の本陣で、身分の高い参詣者の休憩宿泊利用された。江戸時代高野山参勤交代行っており、高野山重役方も宿として使用した赤穂浪士村上兄弟宿泊し父の仇討の相談行った宿である。 日本最後仇討ち墓所 仇討ち討たれた者達の墓が並ぶ。 1862年文久2年)に播州赤穂藩でお家騒動発端となり、下級武士たちが赤穂藩家老らを惨殺したことに対す仇討ちで、下級武士たちは高野山出家することで仇討ち逃れようとしたが、1871年明治4年)に家老遺族たちが宿場町神谷黒岩付近仇討ち果たした討たれた7人は現地村人によって葬られ、「殉難七士の墓」として祀られている。 この仇討から2年後1873年明治6年)に明治政府から太政官布告37号「復習厳禁ス」が発布され仇討ち禁止となったことから、この仇討ち日本最後仇討とされる神谷宿 かつて本陣脇本陣があり、昭和初期までに10程度の宿があり、街道情緒が残る。 学文路駅(かむろえき) 切符は「学問(文)の路に入るお守り」として、受験生人気博している。 南海鉄道高野大師鉄道大阪高野鉄道を合併した2年後1924年大正13年)に開業駅舎は今も当時面影のまま利用されている。高野参詣道宿場町として栄えた学文路村にちなん駅名で、難読駅名として知られる学問の神様・菅原道真公祀られている学文路天満宮最寄り駅である。 極楽橋駅 南海高野線終点駅である。 直下流れる「不動谷川」に架かる役割も果たす駅構内通路ケーブルカー極楽橋駅繋がりケーブルカー高野山駅へ向かうことができる。当駅で下車し川沿い下っていくと駅名の由来となった極楽橋」があり、極楽橋を渡ると徒歩での新・旧京大坂道不動坂登り口がある。 万丈転がし不動坂にあり、かつての罪人処刑場とされる高野山内の罪人対し2番めに重い刑として手足縛り、す巻きにし断崖から投げ落とした。 清不動 かつて万丈転がし付近にあったが、1920年大正9年)に新不動坂へ移築された。 女人堂 京大坂道からの高野山内への入口となる不動坂口に、唯一現存する女人堂

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