沿道の主な名所
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「三谷坂 (高野参詣道)」の記事における「沿道の主な名所」の解説
丹生酒殿神社:丹生都比売神が降臨した場所と伝わり、三谷坂の起点となる。境内のシンボルの大銀杏が紅葉時に境内を黄色に染める。境内後方の境内社の鎌八幡宮は、御神木に鎌を刺し願掛けすることで知られる(詳細は丹生酒殿神社参照)。 宮滝:丹生酒殿神社が丹生都比売神社に属していたころ、丹生都比売神社神主がこの滝でキュウリを供え神事を行い、神事後に供えられていたキュウリを村中の子供に食べさせると、疱瘡(天然痘)が軽くなったと伝わる。また紀伊続風土記には、宮ノ滝とも書かれており、「河童の患いも免れた」との記述が残る。 笠石(南北朝時代):下部を地中に埋め込む埋込式の笠塔婆で、塔身高112cm、塔身幅15cm、笠幅65cm。空海の笠が雨引山から風に飛ばされてこの石に掛かったと伝わる。塔身の上部に阿弥陀如来座像が半肉彫され、その形態から、南北朝時代のものと推定される。通常は、宝珠が笠の上に飾られるが、塔身の上端を尖らせ笠を突きやぶる特異な形態で、笠も、ほぼ自然石のままの特異な形状で、軒などの加工は施されていない。これは笠塔婆が、木製から石製に置き換えられた原初形態の可能性が考えられ、全国的に見ても非常に貴重である。 鋒立て岩・経文岩:鋒立て岩は、丹生都比売神が鋒を立てたと伝わる岩。元は現在よりも大きかったが、道路工事の際に切断され現在の形状となった。鋒の御跡岩ともいわれ、紀伊続風土記に「榊山の南 権兵衛坂といふにあり 丹生都姫尊天野へ御通ひの印石といふ岩に鋒の跡あり」と記されている。経文岩は、経文が書かれた岩を意味すると考えられるが、岩に文字が刻まれた痕跡が確認できていない。 涙岩:かつてこの谷を流れる清水は、どんな日照りでも涸れず、人々の渇きをいやし田畑を潤してきた。 そのため、いつの頃からか村人はこの岩を涙岩と呼び、岩をつたって流れ落ちる水を拝水と呼ぶようになったと伝わる。 頰切地蔵(鎌倉 時代初期):一重塔を自然石から造り出し、北正面 に金剛界大日如来、東側面に釈迦如来、 西側面に阿弥陀如来を半肉彫し、南背面は 自然石のままである。仏像の立体的形態や、笠の形態から鎌倉時代初期と推定される。大日如来の頬の割れ目が傷のように見え、首から上の病に御利益があるとされ、頰切地蔵と呼ばれるようになったと伝わる。 まっとう岩:見上げるほどの巨石である。この周辺が杉林となる前までは、遠く紀の川の対岸からも見えたため、天野の丹生都比売神社を目指す参詣者の目印となったと伝わる。「まっとう」の語源は不詳であるが、目印という意味で「的」を意味するとも考えられている。 丹生都比売神社:丹生都比売神の鎮座地とされる。空海が金剛峯寺を建立するにあたって丹生都比売神社が神領を寄進したと伝わり、古くより高野山と深い関係にある。かつて高野山参詣前に、まず丹生都比売神社に参詣する習わしがあった。
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沿道の主な名所
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西光寺苅萱堂 正式には、如意珠山能満院仁徳寺とよばれる真言宗寺院である。 中世に高野聖が語り歩いたり、浄瑠璃、歌舞伎、読本、謡曲「苅萱」、説教節「かるかや」で登場する、出家した武士・苅萱道心とその息子・石童丸、石童丸の母・千里御前の物語にゆかりある苅萱堂として知られる。寺宝として、願いを叶える宝石「夜光の玉」、今から千数百年前に滋賀県蒲生川で捕れたと伝わる「人魚のミイラ」や石童丸に関する遺品が残る。 登録名:「苅萱道心・石童丸関係信仰資料」:一括(32点) - 2009年(平成21年)3月17日に和歌山県の有形民俗文化財に指定された。 六地蔵 江戸時代に参詣者の安全登山を祈って作られた。今も子安地蔵として信仰されている。 第1の地蔵:橋本市清水地区 第2の地蔵:橋本市南馬場地区 第3の地蔵:九度山町繁野地区 第4の地蔵:九度山町河根地区 第5の地蔵:高野町作水地区 第6の地蔵:高野町桜茶屋地区 剃刀岩 道の狭い街道を剃刀で広げたと伝わる。 しずく岩 盛夏でも水がしたたり、弘法大師が喉を潤し、また硯の材として使用したと伝わる。 河根丹生神社 祭神 - 丹生都比売大神、高野御子大神(狩場明神) 所有文化財:1517年(永正14年)と1678年(延宝6年)に社殿を改築した棟札が現存。石造翁の面・2面、能面・10面、鏡・4面(内1面に1652年(慶安5年)の銘がある)。和歌山県下最古の1419年(應永26年)の銘がある狛犬1対。 登録名:「石造狛犬1対」 - 1959年(昭和34年)8月18日に和歌山県の有形文化財(彫刻)に指定された。 日輪寺 本尊は大日如来で、高野山真言宗の寺院。河根丹生神社と境内を隣接し、神仏習合時代に河根丹生神社の神宮寺であった。 千石橋 1634年(寛永11年)に幕府により架けられる。7年ごとに営繕費千石が支給された。あるいは、年貢米千石を運んだことにより「千石橋」と呼ばれている。 中屋旅館跡 かつて河根宿の本陣で、身分の高い参詣者の休憩、宿泊に利用された。江戸時代、高野山は参勤交代を行っており、高野山の重役方も宿として使用した。赤穂浪士・村上兄弟が宿泊し、父の仇討の相談を行った宿である。 日本最後の仇討ち墓所 仇討ちで討たれた者達の墓が並ぶ。 1862年(文久2年)に播州赤穂藩でお家騒動が発端となり、下級武士たちが赤穂藩家老らを惨殺したことに対する仇討ちで、下級武士たちは高野山に出家することで仇討ちを逃れようとしたが、1871年(明治4年)に家老の遺族たちが宿場町の神谷の黒岩付近で仇討ちを果たした。討たれた7人は現地の村人によって葬られ、「殉難七士の墓」として祀られている。 この仇討から2年後の1873年(明治6年)に明治政府から太政官布告第37号「復習ヲ厳禁ス」が発布され、仇討ちは禁止となったことから、この仇討ちが日本最後の仇討とされる。 神谷宿 かつて本陣・脇本陣があり、昭和初期までに10件程度の宿があり、街道情緒が残る。 学文路駅(かむろえき) 切符は「学問(文)の路に入るお守り」として、受験生に人気を博している。 南海鉄道が高野大師鉄道と大阪高野鉄道を合併した2年後の1924年(大正13年)に開業。駅舎は今も当時の面影のまま利用されている。高野参詣道の宿場町として栄えた旧学文路村にちなんだ駅名で、難読の駅名として知られる。学問の神様・菅原道真公が祀られている学文路天満宮の最寄り駅である。 極楽橋駅 南海高野線の終点駅である。 直下を流れる「不動谷川」に架かる橋の役割も果たす駅構内通路でケーブルカー極楽橋駅へ繋がり、ケーブルカーで高野山駅へ向かうことができる。当駅で下車し、川沿いを下っていくと駅名の由来となった「極楽橋」があり、極楽橋を渡ると徒歩での新・旧京大坂道不動坂の登り口がある。 万丈転がし 旧不動坂にあり、かつての罪人処刑場とされる。 高野山内の罪人に対し、2番めに重い刑として手足を縛り、す巻きにし断崖から投げ落とした。 清不動 かつて万丈転がし付近にあったが、1920年(大正9年)に新不動坂へ移築された。 女人堂 京大坂道からの高野山内への入口となる不動坂口に、唯一現存する女人堂。
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